二十三歳、隠居した伝説の大将軍に自分から嫁ぎました ~旦那様の武勇伝、ご本人に聞くとかなり違うんですの~ 作:kuratn
金の縁というものは、断りにくく出来ている。
和議三十年の式典。三十年前の夏、北の国境で戦が終わった、その締めくくりを祝う祝典である。宛名は、夫妻そろって。断れば不敬、出れば――出ればどうなるかを、旦那様は三日ばかり口になさらなかった。
口にしない三日のあいだ、この人は庭にいる。豆の支柱を結び直し、抜く草がなくなると鍬の柄を拭いている。困ったときは庭へ行く。嫁いで十二週で覚えた、我が家の天気予報である。
四日目の朝、私は畝の脇に麦茶の杯をふたつ置いて、その隣にしゃがんだ。土はまだ夜の冷たさを残していて、薬草の青い匂いが膝のあたりで立つ。
「わたくし、王都は初めてですの」
鍬の柄を拭く手が、止まる。
「……行きたいか?」
「行きたくはございませんわ。人の多いところは、値札の匂いがいたしますもの」
旦那様が、ふ、と息だけで笑った。笑ってから、笑った自分を悔いるような顔をなさる。
「わしのことは、よい。……あなたを、見世物の隣に立たせることになる」
――出た。
この砦は、石を落としてもその晩のうちに積み直すのだから、たいしたものである。
「見世物になりますのは、旦那様のほうですわ。あちらが見たいのは、歌の中の御方ですもの。三十年、耳で育てた戦神がほんとうに歩くかどうか――それがご覧になりたいのです」
「……そうであろうな」
「ですから、歌は置いてまいりましょう」
彼が顔を上げる。
「歌は、王都の持ち物ですの。あちらで勝手に育てて、勝手に歌っていただけばよろしいのですわ。わたくしがお連れするのは、実物のほう。……実物は、わたくしの持ち分ですもの」
鍬の柄を拭く布が、ゆっくりと畳まれた。
「……支度を、せねばな」
それだけで、出る腹は決まったらしい。この人の返事は、いつも道具の置き方で分かる。
◇
礼装の支度は、戦である。十年ぶりに
変わらないのは幅で、変わったのは、たぶん別のところである。
◇
出立の朝は、まだ暗い。
厨房で干し杏の袋を包んでから、私は支度部屋の戸を、断りもなく開けてしまった。急いでいたのである。
従士長タンクレートが、旦那様の背後で上着を持ち上げている。旦那様の右腕は、肩の高さまで来たところで止まっていた。上がらないのだ。上げようとして、上がらない。喉の奥で、息を詰める低い音がする。
三十年、盾を負ってきた肩である。
私は立ち尽くした。出て行くべきだ、と頭のどこかが言う。ここは従士長の聖域で、十年、この人が誰にも見せずに済ませてきた朝である。
けれど私の足は、部屋の中へ入った。
「わたくしが」
二人が同時に振り向く。旦那様の顔に、初めて見る色が走った。恥である。伝説が、朝の着替えで恥をかいている。
「……見世物だな」
「お着替えは、家政の管轄でございますわ。奥様が手を出しても、誰も驚きませんことよ」
袖を持ち、腕を通す。骨が、思ったよりずっと近い。上着の下の肩は大きくて、それでいて掌の下でひとつ、乾いた音のように軋んだ。
ここで私の胸に最初に来たものを、白状しておく。
痛ましさでは、なかった。
嬉しかったのである。
三十年、誰にも見せずにきた朝を、いま私が持っている――そう思った瞬間に、胸の底が明るくなってしまった。ひどい話だ。人の不自由を分けてもらって、喜んでいる。私はどうやら、相当に悪趣味な女らしい。
けれどこの悪趣味は、取り上げられたくない類のものである。歌より、ずっと。
「……すまん」
「いいえ。明日から、朝はわたくしが伺いますわ」
タンクレートが、音もなく一歩下がる。それから折り目正しく申し上げた。
「奥様。閣下のお支度は、右からでございます。左を先に通しますと、閣下が痩せ我慢をなさいますので」
「まあ。……承りましたわ」
「補記でございます」
◇
馬車は三日、街道を南へ下る。
二日目の宿場で、旅の一座が歌っていた。「矢の雨を、傷ひとつなく」――不敗侯が矢の雨の中を歩き、鎧には一本も立たなかった、という一節である。旦那様は麦湯の杯に顔を伏せ、限界まで小さくなろうとしておいでだ。大男が小さくなろうとすると、かえって目立つ。
馬車に戻って、私は座席の端に腰を下ろした。侯爵家の馬車は向かい合わせで、妻の席はずっと向かいである。
「……隣で、よい」
窓の外を見たまま、彼が仰った。
「揺れる。向かいだと、膝が当たる」
膝が当たって困ったことなど、嫁いでこのかた一度もない。私は素知らぬ顔で腰を移した。長卓の端と端が、今日で終わったのである。
「では、本日の一曲を伺いますわ。矢の雨は、いかほど目減りいたしますの?」
「……全部だ。わしは、そこにおらん。こやつの後ろにおった」
指さした先、向かいの席で、タンクレートが背筋を伸ばす。
「盾を持っておりましたのは、わたくしでございます」
「鎧の下は痣だらけよ。盾の裏に居ても全部は止められん。石つぶてを浴びておるようなものでな」
歌の中の英雄が、矢の雨の中で大盾の後ろにしゃがんでいる。私は思わず笑い、それから、笑いが途中で止まった。
「……タンクレート。閣下は、その盾の後ろから、何度お出になりましたの?」
老従士の返答には、少し間があった。
「三度でございます。倒れた者を、引き込むためでございます。矢の薄くなる息継ぎがございまして、そこを閣下は数えておいででした。……三度とも、わたくしは肝が冷えまして」
旦那様は窓の外を向いたまま、咳払いをひとつ。
「盾の後ろは、暖かいのだ。暖かいところにおると、外の者が見える」
目減りして、増える。いつもの手順である。
けれど今日の増量分は、いつもより重い。矢の雨は、傷ひとつなく通り抜けたのではないのだ。三度、わざわざ雨の下へ出て、人を拾ってきた。歌は傷のない人しか歌わない。その傷の下に誰がいたのかは、歌わない。
私は隣の肩に、そっと自分の肩を寄せた。膝が当たるどころの話ではない。彼は何も言わず、身じろぎもせず、窓のほうを向いたまま、耳だけ赤くする。
◇
三日目の午後、街道の先に白い塔が見えてくる。
王都である。門をくぐると、道の両側が、ざわ、と動いた。ざわめきは波のように前へ伝わり、馬車を追い越して、街路の先まで走っていく。誰かが、歌の一節を口ずさむ。
三十年ぶりの凱旋である。歌のほうが、私たちより先に着いていた。