二十三歳、隠居した伝説の大将軍に自分から嫁ぎました ~旦那様の武勇伝、ご本人に聞くとかなり違うんですの~ 作:kuratn
王都の空気には、値札の匂いがする。
王都に入って十日。侯爵家の屋敷は十年閉めきりで、埃と虫と、押しかけてくる名刺との戦いに費やされる。
◇
式典の日は、よく晴れた。王宮の大広間は天井が高すぎて、人の声が上のほうで迷子になる。生き残りの将たちが席次に従って並び、その一番奥に旦那様の席がある。隣に着いて五つ数えるうちに、ひとつ分かったことがあった。
ここにいる方々は、旦那様を見ていない。「不敗侯」を見ている。歌が本当に歩くかどうかを、確かめている。
視線は、値踏みの形をしていた。白髪はどれほどか。背は縮んだか。まだ剣を持てるか。――そして当然のように、隣の女の品定めも、勘定に入っている。
扇が動く。扇の内側というものは、思ったよりよく響く。
「まあ、あの方が」
「後添えですって。三十も下だとか」
「財産目当てに決まっておりますわ」
「三年で逃げましてよ」
「いいえ。わたくしは半年と」
私は、この手の話には強いはずである。実家の帳場では値切りも嫌味も朝の挨拶のうちで、陰口ごときで痛む皮は、三年前にとうに剥がれた。……そのはずなのである。
ところが、「財産目当て」のところで、胸の底が、す、と冷えた。
なぜ冷えたのかは、自分がよく知っている。
――利で参りましたのよ。
あれは、嘘ではない。私は後見の判が欲しくて、この人のところへ来た。雨漏りのしない屋根と、弟の相続と、それだけを数えて馬車に乗った女である。扇の内側の方々は、根も葉もない話のおつもりで、根のほうだけは、きれいに当てている。
当てられて冷えるということは、つまり――。
そこから先を考えるのは、やめておく。場所が悪すぎる。
隣で、低い音がした。
旦那様の喉が、鳴りかけたのである。この人の怒りは、怒鳴らない。声が低くなるだけだ。それが広間で鳴れば、明日には新しい歌ができてしまう。
私は扇を持った手を、そっと彼の膝の脇へ置く。
置いただけである。それきり、低い音は出てこなかった。
◇
やがて、進行役が名を呼んだ。
「アイヒェンヴァルト侯爵、バルタザール卿」
広間が、静かになる。
大男がゆっくりと壇へ上がる。段は三つ。三つ目で右膝がわずかに遅れたのに気づいたのは、たぶん私とタンクレートだけだ。
壇上の旦那様は、大きかった。声は低く、言葉は短い。陛下への型どおりの言上と、和議三十年への型どおりの言葉。歌のような台詞は出てこない。広間の期待が、少しずつしぼんでいくのが分かる。
そのしぼみ具合が、私にはたいそう可笑しい。皆さま、台本をお渡し忘れですわ。
言上を終えて、彼が半歩下がる。そこで進行役が、余計なことを言った。
「――お連れの方を、ご紹介いただけますかな?」
広間中の扇が、止まる。
見世物の幕が、今度は私の側に上がったのである。心臓が、ひとつ大きく打つ。
旦那様が私のほうを見て、それから広間へ向き直る。
「家内だ」
それだけかと、誰かが息を吐きかける。その拍に。
「……わしの帳尻は、この人が握っておる。頼もしいぞ」
一瞬の間があって、広間の後ろで誰かが噴き出した。それが伝染し、笑いが天井まで昇る。和議の祝典の堅苦しい大広間で、老いた戦神が、妻に家計を握られていると白状したのだ。
笑いは、扇の内側の声を、きれいに割る。
淑女の礼をしながら、俯いた顔の下で、私はたぶんひどい顔をしていた。
この人はいま、私を「連れ」から出したのである。飾りでも、若い後添えでも、財産目当ての小娘でもなく――握る側に、置いた。三十年ぶんの視線が集まる壇の上で、いちばん短い言葉で。
胸の底の冷えていたところへ、湯を注がれたようだった。
壇を降りるとき、大きな手が、当たり前のように私の手を取る。広間がまたざわめく。私の指先は、まちがいなく熱くなっている。
「……転ばぬための、実務だ」
「はい。実務でございますわね」
「……うむ」
実務の手は、汗ばんでいた。
◇
人波が引いたころ、柱の陰から山のような老人が現れる。
「バルタザール! 貴様、まだ生きておったか?」
元帥ヴァルデマール閣下である。御年七十、声は大砲。旦那様がこの日初めて、心底から嫌そうな顔をなさった。
「……声が大きい」
「大きゅうせねば貴様の耳に届かん歳だろうが。おい、奥方。この男は昔から、褒められると三歩下がる」
「存じておりますわ。褒めますと、庭へお逃げになりますの」
元帥が大砲のような声で笑う。ひとしきり肩を叩き合ったあと、ふいに声を落とした。
「――戻る気は、ないか?」
広間の音が、少し遠のいた気がする。
「北がな。関所が細っておる。貴様が座っておるだけで、変わるものがあるのだ」
旦那様の返事は、短かった。
「……わしは、隠居だ」
断りの口上でもなく、理屈でもない。ただ、それだけ。
元帥は「そうか」と言って、また肩を叩いて笑い、話はそこで終わる。
終わったのに、私はこの人の横顔から目を離せずにいた。断ったときの顔に、一瞬、影が差したのである。困惑でも、怒りでもない。もっと古くて、もっと言いにくいもの。
その影がどこから来たのか、この時の私には読めない。
◇
帰りの馬車で、私は本日の勘定を申し上げる。
「本日の歌は、いかほどでした?」
「……三割」
窓の外の灯を見ながら、彼が言う。それから、少し考え直したらしい。
「いや。二割五分か」
「歌は、外で歌うものだ。本人が中におると、辻褄が合わん」
私は声を立てて笑い、こちらも一枚返しておく。
「陰口のほうは、二割ほど当たっておりましたわ」
「……あれは、根も葉もない」
「根は、ございますのよ。わたくし、利で参りましたもの」
彼がこちらを向く。何か言いかけ、言葉を探し、結局は探しあぐねた顔で、こう仰る。
「……助かった。あのとき、膝に……」
「嬉しかったですわ。でも、あのくらい大したことはないですわ」
私はそっと彼の膝に手のひらを乗せた――。
「そうか……。あなたが押さえてくれねば、明日には新しい歌ができておった」
「ふふっ、新曲に私も登場してしまいますわ」
「出たかったか?」
「まさか! ふふっ」
「はっはっは」
窓の外で、夜の街が流れていく。歌は歌のまま王都に置いて、実物はこうして隣に乗っている。今日の勘定は悪くない。
――そう思っていた矢先である。
馬車が王都の外れにさしかかると、窓の外に広い暗がりが開けた。練兵場である。遅い時刻に
旦那様が、そちらを見た。
見たまま、黙る。
私は声をかけなかった。かけられなかった、という方が近い。この人の沈黙には目方がある。今夜は、いつになく重い。
馬車は北へ向かい、号令はやがて聞こえなくなる。旦那様は、それでもまだ、窓の外を見ておいでだった。