二十三歳、隠居した伝説の大将軍に自分から嫁ぎました ~旦那様の武勇伝、ご本人に聞くとかなり違うんですの~ 作:kuratn
旦那様が、黙っている。
王都から帰って十日、屋敷はいつもどおりに回っている。朝は肩の支度、昼は庭、夕は書斎。夜の答え合わせも、これまでどおりに続いている。続いてはいるのだが、途中でこの人の目が、ふいにどこかへ行くのだ。
庭に出ている時間が、目に見えて増えた。豆の支柱はもう結び直すところがなく、薬草の畝には抜く草もない。それでもこの人は鍬の柄を拭き、拭き終わると、山のほうを見て立っている。
「奥様。閣下は、この三日で鍬を四度お磨きになりました」
薪を運ぶタンクレートが、通りすがりに小声で申し上げる。四度。刃こぼれの心配より、柄が痩せる心配をしたほうがよい回数である。
問えば、たぶん答える。この人は問われれば嘘のつけない人で、私はその抜け道を、もう三月ばかり使い倒してきた。「旦那様、あれは何でございましたの」と一度伺えば、それで済む話である。
私は、伺わないことにした。
――支払いの期限は、こちらが決めるものではございませんの。
三年、帳場に座って覚えたことのひとつである。取り立てというものは、相手の懐を空にすることではない。相手が払える日を待つことだ。急かして取り上げれば、次がない。
……というのは、たぶん半分は言い訳である。
残りの半分を、白状しておく。私は、待つのが怖い。
父が倒れたのは三年前の早春の朝で、その前の晩、父は帳場で何か言いかけていた。麦の相場の帳を閉じて、それから、ジルヴィア、いつか話す――と。私は「はい」と答えた。その「はい」は、翌朝までしか使えない返事だったのである。
葬儀の段取りを組みながら、私は父の言いかけた話の中身を、ずっと考えていた。借財のことかもしれない。母のことかもしれない。何でもない話だったのかもしれない。考えても、答えの出る勘定ではない。答えの出ない項目は帳の外へ置く、と決めて、私はそれきり置いてきた。
いつか、は来ないことがある。
だから私は、待つのが下手なのだ。それでも今日は待つ。待つと決めた。この人の期限は、この人が決める。
◇
待つあいだにも、王都の余波は届く。
戦記作家から、取材の申し込みが来た。壇上の不敗侯を見て、筆が鳴ったらしい。旦那様が実に困った顔をなさるので、お断りは私が引き受けた。使いの者に、口で持たせる。理由は、一行で足りる。
「本当のほうは、売り物ではございませんの」
「奥様、それだけでよろしいので?」
ヘートヴィヒが目を丸くするので、私は使いを送り出しながら申し上げた。
「よろしいのですわ。値の付かないものは、お売りできませんもの」
欠片のほうは、思いがけないところから渡ってくる。
薪を積むタンクレートの手伝いをしていた午後である。老従士は薪を三本きれいに揃えて積んでから、いつもの折り目正しさで口を開いた。
「奥様。……補記でございます」
「まあ。本日は、どの歌の?」
「歌ではございません。元帥閣下の、お話の中身でございます」
北の峠――オルベルン峠の関所で、若い士官の損耗が続いているのだという。戦ではない。冬の峠と、秋の霧と、期限つきの命令とで、人が減っていく。この三年、その数が増え続けている。
「閣下が三十年前に越えられた、あの峠でございます」
薪の一本が、私の腕の中で、急にひどく重くなる。
◇
その晩、私はいつもどおり茶を淹れ、いつもどおり歌を一曲、注文した。
王都で仕入れた歌の在庫が、まだ残っている。宿場で聞いた「敵陣三日三晩の単騎駆け」。単騎で敵陣へ乗り込み、三日三晩暴れ回った、という豪気な一曲である。
「本日は、三日三晩を伺いたいのですけれど」
「……三日三晩は、本当だ」
「まあ。珍しゅうございますこと」
「霧でな。動けなんだのだ」
目減りの中身は、いつもながら見事である。霧が濃すぎて、敵陣の只中で三日、岩陰に伏せていた。暴れるどころか、身動きひとつ取れない。
「では、そのあいだは何を?」
「数えておった。
帰ってそれを伝え、奇襲で全部燃やし、囲みは戦わずに解けた。人を斬るより、麦の置き場を知るほうがよほど効く――と、この人は事も無げに言う。
私は笑って、湯呑に手を伸ばした。伸ばした手が、途中で止まる。彼のほうの手が、先に止まっていたからである。
「……歌は、間違いを教えん」
「間違い、でございますか?」
「霧に入ったのは、わしの間違いだ。歌に残っておるのは、入ってからの三日だけよ。……歌は、霧の凌ぎ方も教えん。凌いだ者の顔しか、歌わん」
湯呑を置く音が、やけに大きく響いた。
それから――この人は、促されもしないのに、続けたのである。
元帥の話。峠の関所。若い士官が減っていること。減り方が、三十年前と同じ形をしていること。そしてそこで歌われているのが、ほかならぬ自分の歌であること。
「わしの峠で、若い者が死んでおる」
低い、低い声である。
私は膝の上で手を組んで、その声を受け取った。待った甲斐があった、などと思う気には、とてもなれない。ただ、この人が期限の日に自分の足で払いに来てくれたことが、胸の奥で静かに温かい。
――間に合った。
父のときは、間に合わなかったのである。あの晩の帳を閉じる手を、私は止められなかった。今夜は、止めずに済んだ。それだけの違いが、こんなにも大きい。
私は湯呑を持ち上げ、冷めかけた茶を、ひと息に飲み干した。
◇
同じ頃、王都の司令部の廊下では、参謀たちがすれ違いざまに言葉を交わしている。北の関所の報告書が、今月もまた積み上がった。峠の損耗は三年続いている。誰かが軽く言う。「不敗侯の歌に、もう一勝負させればよい。あの名が北にあるだけで、兵の腹は据わる」。若い参謀が口を開きかけ、腕の中の報告書の重さを思い出して、やめる。廊下の突き当たりでは、冬の装具の予算書が、三年目の据え置きのまま決裁を待っている。
◇
数日後、門番が先触れを持ってきた。
王都司令部の使者――あの若鷲、ルートガー様が、再び来られるという。
先触れには、ひとつだけ余計なことが書き添えてあった。
使者は、