二十三歳、隠居した伝説の大将軍に自分から嫁ぎました ~旦那様の武勇伝、ご本人に聞くとかなり違うんですの~ 作:kuratn
秋の入りの雨は、夏の雨より音が細い。
ルートガー様は、その細い雨の中を馬で来られた。門で馬を降り、外套を脱ぎ、左腕の黒い布を隠しもせずに応接間へ通ってくる。二月前、歌の英雄像を本人の前で熱弁してみせた若者と、同じ人とは思えない。
彼は直立し、口上を述べようとして、そこで失敗する。
「も……申し訳ありません。口上を……忘れました」
旦那様は「よい」と仰り、椅子を勧めた。若者は座らず、立ったまま話し始める。
北の峠。高いところは、秋の入りにもう雪が来る。補給の護送に期限つきの命令が出て、隊は装具の足りないまま峠へ入る。吹雪に遭って道を外れ、三人が戻らなかった。そのうちの一人が、ルートガー様と同じ年に任官した男である。
「そのものの名は……えーと……」
名前が、出てこない。言いかけて、口の形だけ作って、この若者は結局、名を言わずに終わった。
「……申し上げますと、まだ生きている気が、いたしますので」
この言い訳を、私は生涯忘れないだろう。
雨の音が、窓の外で細く続いている。
「教えてください」
顔を上げた若者の目は、赤い。
「あの歌のように、やったんです。荷を軽くして、速さで抜ける。胆で越える。……あの歌のとおりにやって、なぜ死ぬんですか?」
旦那様は、長いこと黙っておいでだった。
やがて、低い声で答える。
「歌のように、やったからだ」
残酷な答えである。けれどこの人は、そこで止めなかった。止めずに、その後ろにあるものを、ひとつずつ卓の上へ並べていく。
ひとつ。関所は人が足りず、交代が遅れている。だから護送には、旧い例のままの期限が付く。期限は紙の上では動かない。峠の雪は、紙を読まない。
ふたつ。冬の装具の更新が、三年止まっている。金が付かないからだ。「今年も何とかなった」が三度続けば、四度目は誰も点検しない。
みっつ――と言うとき、この人の声が、少しだけ苦くなる。
「若い者のあいだに、軽装で押すのを胆力と呼ぶ気風がある。教えられておらんからだ。教範に空きがあると、そこへ歌が入り込む。……軽装を胆と呼ぶ空気は、歌が教範の空きを埋めた報いよ」
ルートガー様が、唇を噛む。
そして、いちばん重い一枚が、最後に置かれた。
「わしは退役の年、退き方と
初めて聞く話である。
「冬の行軍のやり方だ。荷の目方、靴の乾かし方、引き返す日の決め方。……三十年で覚えたことを、全部、紙にした」
「それは――どうなりましたの?」
「握りつぶされた」
理由は二つあったのだという。不敗侯の名で「退き方の教本」を出せば、歌の抑止が損なわれる。それに、教範を改めれば冬の装具も替えねばならず、その金が付かない。
旦那様は、そこで一度、言葉を切る。
「……で、わしは、引き下がった」
部屋が、静かになる。雨の音だけが細く続く。
「握りつぶされたのは、草案だ。引き下がったのは、わしだ」
それから旦那様は、若者へ向き直った。
「ひとつだけ、今日のうちに潰す。軽装で押すのが胆だという話だ。あれは違う。峠は胆では越えん。荷の目方で越える。帰って、北の隊すべてに、そう伝えよ」
「――は。必ず」
答えて、それから、若者は言葉に詰まる。私は静かに立ち上がって、扉の外のヘートヴィヒに目配せをした。
悲しみに、できることは少ない。少ないから、できることは全部やる。
温かい飯と、熱い風呂と、乾いた寝床。それだけを黙って出す。若者は皿の前で一度だけ肩を震わせ、それから、行儀よく全部平らげた。
◇
その夜、書斎の灯は消えない。
私は自分の胸に預かってきたものを、暗い廊下で並べていた。数えてはいない。数えないと決めているのだから、並べていた、と言うべきだろう。
雪崩の峠。工兵が開けた城門。二本の軍旗。三日守った橋。薬袋。水筒。馬繋ぎ。大盾の後ろから三度出た、あの息継ぎ。
どれも、楽しかったのである。剥がすたびに、この人が増えた。歌より面白い旦那様を、私はひとりで独り占めして、胸の奥で、それは大事に畳んできたのである。
その楽しさが、今夜だけ、違う形に見える。
荷を捨てる順。靴を乾かす順。引き返す日の決め方。――私が独り占めしてきたものは、峠へ入る若い方が、いちばん欲しかったものかもしれない。
私が歌を作ったわけではない。峠へ命令を出したわけでもない。それは分かっている。分かっていても、胸の底が冷たい。悪趣味な楽しみの下に、こんな底があるとは思っていなかった。
冷たいまま、私は茶を淹れる。淹れて、書斎の扉を叩く。
彼は文机の前で、地図を見ている。北の地図である。峠のところに、大きな指が置かれていた。
「旦那様。ひとつ、申し上げてよろしくて?」
「……うむ」
「歌を剥がすことは、旦那様にはおできになりませんわ。三十年、あの歌は人の役に立ってまいりましたもの。剥がせば、歌い手の商売も、北の抑止も、いっぺんに落ちますわ」
「……そうだ」
「ですから、剥がすのはおやめになって」
私は、地図の峠の隣を、指で軽く叩いた。
「訂正ではなく、授業になさいませ」
彼の目が、ゆっくりと上がる。
「歌の隣に、教練をお立てになるのですわ。歌は歌のままで結構ですの。その隣で、荷の目方と、靴の乾かし方を、若い方に教えて差し上げればよろしいのです。……草案は、書き直せばよろしゅうございますわ。握りつぶされた紙は、もう一度書けますもの。引き下がった方も、もう一度お立ちになれますわ」
長い沈黙が落ちる。
それから旦那様は、地図の端をゆっくりと自分のほうへ引き寄せた。峠から南へ、道の細い筋を指でたどる。指が止まったのは関所の手前――若い隊が越えねばならない、最後の登りである。
「……同じことを、考えておった」
地図は、私が入ってくる前から、開いていたのだ。
この人は幾晩も黙り込み、庭で鍬の柄を拭いて、とうに答えを出していたのである。出したうえで、言い出せずにいた。若い者に年寄りが出しゃばるものではない、という遠慮の中で。
私はどうやら、この砦の石の積み方を、だいぶ覚えてきたらしい。
「碁石を、お借りしてもよろしいかしら?」
「碁石?」
「地図の上に、兵と荷を置きますの。……口で申し上げるより、置いたほうが早うございましょう」
彼が初めてこちらを見て、笑った。目尻に、三十年分の皺が寄る。
夜が明けて、書斎の扉が開く。タンクレートが、椅子を運び込んできた。一脚。二脚。三脚。
「閣下。何脚、ご用意いたしましょう?」
「三つでよい。……今のところは」