二十三歳、隠居した伝説の大将軍に自分から嫁ぎました ~旦那様の武勇伝、ご本人に聞くとかなり違うんですの~ 作:kuratn
週に二度、北の山道を、若い馬が三頭上がってくる。
ルートガー様と、その同僚のお二人。三人とも、冬の装具の実地調べという名目で北の関所詰めに出されている。関所からここまで、馬で一刻。非公式の講義であるから、誰の許しも出ていない。若い方々は非番の日に「遠乗りでございます」という顔で門をくぐり、帰りは決まって荷が増えている。
「奥様。あの方々、三人で鶏を一羽召し上がりますのよ」
「まあ。若い方は、そういうものですわ」
「わたくし、明日から二羽にいたします」
家政婦長の目が、据わっている。
書斎の卓には、いつもの大地図。三十年ぶん手擦れのした北の地図の上に置かれるのは、駒ではなく碁石だ。
白が兵。黒が、荷。
「では、荷を捨てる順を言うてみよ」
旦那様の声は、教える声である。低くて、静かで、少しだけ嬉しそうな声。私は末席で茶を注ぎ、碁石の盆を膝に抱えている。
「まず、予備の武具かと」
「よし。次は?」
「……天幕、でしょうか?」
「いかん。天幕を捨てた隊は、その晩に凍える」
若い方々が、慌てて順番を組み替える。この人が最後まで捨てるなと言うものは、四つ。火の道具と、替えの靴下と、塩。それから、鍋である。
「鍋を捨てるな。鍋を捨てた隊は、翌朝、立てん」
剣ではなく、鍋。初夏に錆びた飾り剣の前で伺った話が、こうして教室に出てくる。私は膝の上の黒石を、ひとつ握った。
靴の乾かし方にも、流儀がある。濡れた靴を火に近づけると革が縮んで、翌日には足が潰れる。だから火から拳ふたつ離して置き、中に乾いた布を詰める。
「面倒だ。だが、面倒を惜しんだ者から、歩けなくなる」
そして、いちばん大事な一項。
「引き返す日は、出る前に決めておけ。峠の上で決めると、必ず遅れる。……人は、登った分を惜しむ」
私は、思わず口を挟んだ。
「まあ。それは、帳場でも同じですわ」
三つの若い顔が、いっせいに末席を向く。
「損の切りどきは、儲かっている日に決めておきますの。損が出てから決めますと、必ず一日遅れますのよ」
「――そのとおりだ」
旦那様が、深く頷いた。若い方々が、慌てて口の中でそれを繰り返す。私は少し得意になって、碁石の盆を抱え直す。
◇
その日、とうとうあの峠の話が出た。
三十年前の冬。吹雪。道を間違えて敵の背後へ出たこと。崩れたのが雪であったこと。歌の中では単騎千人退け。書斎の中では、撤退の手順書だ。
白石が、地図の上を動く。遅い者を先頭に置く、と彼は言った。
「先頭は、いちばん遅い者だ。遅い者を後ろに置くと、隊が千切れる。千切れた尾から、凍える」
荷を捨てた順。火を分けた順。靴を乾かした順。何刻に起こし、何刻に発ったか。三十年前の吹雪の夜が、白と黒の石で、卓の上に組み直されていく。
「……あの晩、わしが決めたのは、それだけだ」
若い方々は、誰も口をきかない。ルートガー様が、白石をひとつ、無言で自分の側へ寄せる。
碁石を片づけながら、私は伺った。
「旦那様。峠のとき、おいくつでいらしたの?」
「……二十三だ」
手の中の白石が、ひとつ、盆の外へ落ちた。
「あら。――わたくしと、同い年」
旦那様が、目を上げる。それきり、二人とも黙ってしまう。
二十三の男が、吹雪の中で、部下の靴の乾かし方を決めていた。三十年前の峠に、私と同い年の人がいる。――そう思ったとたん、遠い歌だったはずの峠が、急に手の届くところへ来る。
十九で帳場に座ったときのことを、私は思い出した。誰も助けてくれなかったのではない。助け方を知っている人が、いなかったのだ。
◇
若鷲たちが帰ったあとの書斎は、やけに広い。
灯をひとつ落として、私は茶を淹れ直した。旦那様は椅子の背に体を預け、疲れた顔で、けれど妙に満ちた顔で天井を見ている。
「……よい晩だ」
「はい」
「わしはな。ずっと、苦しかった」
湯気の向こうで、私は手を止める。
「生き残ったのを、勝った顔で歌われるのが苦しかった。あの峠で、わしは何も勝っておらん。連れて帰っただけだ。……連れて帰れなんだ夜も、あるのに」
暖炉の薪が、小さく爆ぜる。
「教えるのは、よい。生き残り方は、いくら盛っても、人を殺さん」
この一行を言うために、この人は三十年、待っていたのだ。
私は、返礼を一枚差し出す。
「わたくしの父は、歌になりませんでしたの」
彼が、こちらを見る。
オスターフェルト男爵は、商才も武勇もない人である。領地は小さく、父の代の借財があり、私が継いだときにはもう傾いていた。歌になる要素が、ひとつもない。
「けれど、雨の日には使用人を早く帰しましたの。濡れて帰ると風邪をひく、風邪は給金より高い、と。……それから、帳簿の隅に、家族の好物を書き込む癖がございましたわ。弟は杏。わたくしは、胡桃の焼き菓子」
数字の列の隙間に、そういうものが挟まっている帳簿である。父が逝ったあと、私は三度読み返して、箱にしまった。
「わたくしの答え合わせは、父から始まりましたの。誰も歌いませんもの、あの人のことは。……わたくしが覚えておりませんと、どこにも残りませんの」
言いながら、鼻の奥が、つん、とした。
いけない、と思う。三年、この話は誰にもしていない。葬儀の翌朝から利息と相場を覚え、弟を育て、屋根の修繕を後回しにしてきた。泣く欄が、どこにもなかったのである。
私はすっと立ち上がり、茶器を持つ。
「……お代わりを、お淹れしますわ」
背中で、椅子の鳴る音がした。追ってはこない。この人は、追わない人である。
しばらくして、低い声が言った。
「……急がず、ゆっくりでよい」
それだけで、私は台所で、ひとつ息を整えることができた。
◇
書斎へ戻ると、彼は地図を巻いているところである。
「若い者が、三人か。あと十年もすれば」
いつもの口癖だ。あと十年もすれば、若い者が育つ。あと十年もすれば――この人はいつもそこで、自分の先を短く見積もる。
「あと十年もすれば、若い者が育つ。……いや」
巻きかけの地図が、途中で止まった。
「いや、とは?」
「……十年と言うのは、癖でな」
彼はそれきり口をつぐみ、地図を棚へ戻し、いつもより丁寧に灯を消した。
砦の石が、ひとつ緩んだ。落ちてはいない。緩んだだけである。けれどこの人が自分の口癖につまずいたのは、今日が初めてだ。
◇
翌朝、一通の先触れが届く。
差出人の名を見て、ヘートヴィヒが盆を落としかけた。
「奥様。……イルムガルト様でございます」
「どちらさま?」
「先の奥様の、お姉上様でございます」