二十三歳、隠居した伝説の大将軍に自分から嫁ぎました ~旦那様の武勇伝、ご本人に聞くとかなり違うんですの~ 作:kuratn
書斎は、古い紙と蝋の匂いで満ちている。
机の上に、寝台ほどもある地図が広げてある。王国の全図である。山脈の皺、川の青、街道の赤。隅のほうは手擦れで白くなって、峠という峠に、細かい書き込みが層をなしている。若い勢いの字の上に落ち着いた字が重なり、その上に、少し掠れた字が重なる。三十年分の筆跡が、一枚の紙の上で年を取っていた。
「膝が鳴る日は、遠出ができん。……代わりに、この上を旅する」
雨が窓を叩いている。暖炉の火が、地図の川筋をちらちらと照らす。それが、雨の日のこの家の過ごし方であるらしい。
大きな指が、北の山脈をなぞる。オルベルン峠。例の、千人が雪崩に目減りした場所である。指はそこから南へ下って、太い青の川筋で止まった。
「エルデ川ですのね。……あら、橋が三つ」
「三本橋だ」
彼の指が、三つの橋の印を、上流から順に、ことりことりと叩く。
「歌なら存じておりますわ。単騎で三本、お落としになったとか」
「……落としたのは工兵だ。わしは順番を決めただけでな。それに一本は、触る前に自分で落ちた。古い橋でな」
「では、旦那様がなさったことは?」
「三日、待った」
指が、川向こうの小さな点へ滑る。村の印である。
「橋を落とせば、追手は止まる。だが対岸の村の者が、逃げ遅れる。……ゆえに最後の一本は、村が空になるまで三日守って、それから落とした。橋というものは、落とす順より、守る三日のほうが難しい」
歌では一瞬の大立ち回りが、実物では三日の我慢である。目減りして、増える。私はもう、この目減りの後の増え方に、すっかり慣れてしまった。
「奥方の番だ」
「え?」
「わしの三十年ばかり話しては、帳尻が合わん。……あなたの二十三年から、一つ」
帳尻、と来た。この人は、私の言葉で話そうとしてくださる。少し迷ってから、地図の上を南へ、指で旅した。海沿いの、小さな港街で止める。
「父と、参るはずでしたの」
帳場を任せるようになった頃、父が言ったのだ。いつか二人で、南の港へ行こう。帳簿を三日忘れて、船と
葬儀の朝も、私は泣かなかった。泣く暇より先に、支払いの期日が来たからである。悲しみというものは、後回しにできる。できてしまうから、癖になる。
――以来、私の「いつか」は、帳簿の外に出さない決まりである。日付のない約束は、不渡りになると痛い。だから欲しいものは屋根の修繕費と同じ棚に上げて、上げたことも忘れるのが、私の流儀だった。
「……そうか」
旦那様は、詮索をなさらなかった。ただ、大きな指が港街の印をひとつ、とん、と叩いて、静かに言ったのである。
「いつか、行くか」
……あら。
不意打ちである。日付のない約束が、当たり前の顔で、そこに置かれている。胸の奥で、長いこと開けていなかった引き出しが、小さく軋む。私は返事の代わりにペンを借りて、港街の印の横に、小さな丸を打った。
丸の横に、日付は書かない。まだ、書かない。けれど「いつか」がひとつ、三年ぶりに棚から下りてきたのは確かである。三十年いくさを渡ったこの地図に、いくさ以外の用件が載ったのも、たぶん初めてである。
◇
午後、雨の中を村の御用聞きが来て、ヘートヴィヒと何やら小声で揉めていた。聞けば、村の酒場で歌に新しい節が付いたという。曰く――黄金目当ての小鳥が、北の砦に飛び込んだ。
旦那様の声が、低くなった。怒鳴らない人の怒りは、声が下がるのである。
「歌い手を、呼べ」
「まあまあ、旦那様」
私は御用聞きに茶を出させながら、申し上げる。
「盛られておりますわ。目当ては黄金ではなく、雨漏りのしない屋根でしたのに」
「……屋根」
「ええ。実家の帳場は、雨の日は桶が要りますの。……ですから半分は、当たっておりますわね。小鳥は、屋根で選びましたの」
旦那様は目を丸くなさって、それから――笑ったのである。
声を立てて笑うのを、初めて見た。低い、よく響く、腹の底からの笑い声である。目尻に、三十年分の皺が寄る。笑うとこの人は、歌の英雄より、庭の大男より、ずっと若く見えるのだ。
胸の帳簿に、また一枚。旦那様は、屋根の話で笑う。
この笑い声は、歌にならない。吟遊詩人は、誰も知らない。……ならなくて、よろしいのだ。これは、私ひとりの預かりである。
◇
雨の上がった夕方、門前に早馬が立った。
泥はねの外套に、王都司令部の紋。差し出された書状の
北の関所が、きな臭い。
王都が、伝説を呼んでいる。