二十三歳、隠居した伝説の大将軍に自分から嫁ぎました ~旦那様の武勇伝、ご本人に聞くとかなり違うんですの~ 作:kuratn
使者は、若かった。
二十四、五というところ。磨き上げた官服に直立不動、緊張で顎が上がっている。厩に馬を預ける手つきは丁寧で、ヘートヴィヒが目測で昼の皿を二枚増やしたくらいには、育ち盛りの残り香がある。
応接間へ通す前、従士長が短く耳打ちしてくれた。司令部の使いは、若いのが来るほど本気だそうである。年寄りの使者は角を立てぬための顔で、若い使者は、育てる気のある本命なのだと。
ルートガーと名乗った若い士官は、応接間に通されるなり、伝説の本人を前にして――目を輝かせたのである。
「じ、自分は、閣下の歌で育ちました!」
「……そうか」
「オルベルン峠の千人退け! あの吹雪の中、単騎で敵陣の背後を衝くご判断、自分は幼少より幾度も――」
「……そうか」
旦那様の相槌が、みるみる低くなっていく。本人の前で本人の歌を熱唱されるという責め苦は、歌にはならないが、なかなかのものらしい。私は茶を注ぎながら、横から口を添えて差し上げた。
「騎士様。そのお話、ご本人の前では三割引きでお聞きになるのがよろしくてよ」
「三割、でありますか?」
「ええ。ご本人でしたら九割引きと仰いますでしょうから、間を取って、三割」
冗談と受け取った若者は、屈託なく笑った。それから急に居住まいを正して、恐る恐る尋ねてくる。
「あの、奥方様。閣下は、ご自宅でも、その、伝説のごとくであられますか?」
「ええ。昨日も畑の豆を、単騎でお守りになりましてよ」
「や、やはり……!」
廊下で従士長が、盆を持ったまま咳き込んだ。本当のことほど、冗談の顔をして通っていくものである。
茶を替えるとき、若い使者がふと私を見上げて、礼の言葉の途中で一拍、止まった。年頃の男子の、他愛のない見とれである。
こほん、と隣で咳払いが鳴った。いつもより、一拍だけ早く。
用向きは、先日の口上の続きだった。司令部は助言の申し出を受ける。ついては目録の作りようを、直に伺いたい――。旦那様は頷いて、装具の目の付けどころを幾つか、静かに語った。靴の革の厚みは指二本ぶん。荷紐は濡れる前提で二重に。兵糧の袋は口の縛りで持ちが変わる。若者は帳面に、懸命に書き取っている。書き取りながら、時折、拍子抜けの顔をした。歌の英雄の口から出てくるのが、剣でも武勲でもなく、靴と袋の話ばかりなのだから、無理もない。
帰り際である。
玄関先で、旦那様の目が、ふと変わった。視線の先には、ルートガーの
「……待て。その締め方で、峠を越える気か?」
「は? じ、自分は王都勤めでありますので――」
「いずれ北へ出る。若い士官は、みなそうだ」
大きな手が伸びて、荷紐を二本、掛け直した。肩から、腰へ。迷いのない手際である。
「荷は肩で背負うな。腰で背負え。肩の荷は、峠でお前の膝を折る。……死ぬぞ」
掛け直された荷は、見た目には何も変わらない。だが背負い直した瞬間、若者の顔つきが変わった。軽い、と唇が動く。
低くて、静かで、よく通る声である。若者は棒立ちになり、それから、来たときの倍も深い敬礼を残して帰っていった。
◇
その夜の答え合わせは、「名を聞いた敵将が退いた」の歌である。
「旦那様のお名前を聞いただけで、敵の将が兵を退いた、というお歌がございますわね」
「……あの日は、雨での。先に退き支度をしておったのは、こちらだ」
「あら。では、敵の将は、何をご覧になりましたの?」
「さて。……強いて言えば、薬袋かの」
退き際に、動けない敵の負傷者へ薬袋を置いていく癖があったのだという。誰に命じられたでもない、ただの癖である。それを覚えていた敵の将が、後年、峠の向こうで兵を止めた。
「薬袋は、幾つ置いてこられましたの?」
「……数えておらん。数えるようなものではないでの」
数えていない。この人の貸しは、帳面の外で働くのである。
「抑止と申すものは、恐れられることではないらしい。……貸しと借りの、覚えの問題での」
貸しと借り。それなら、私の畑の言葉である。腑に落ちた拍子に、少し悔しくなった。歌が三十年「戦神の威名」と歌ってきたものの中身は、雨の日の薬袋だったのだ。目減りして――ええ、もちろん、その分だけ増えている。
ところで、私は今夜、もうひとつ発見をしている。
教える声、である。荷紐を掛け直しながら若者へ語った、あの声。低くて、静かで、いっそ――良い声だった。思い出して、思い出した自分に狼狽える。良い声。良い声とは、何だ。私は湯呑に顔を半分沈めて、この項目をどの頁に付けるべきか、しばらく考えない振りをする。五十三歳の声変わりというものが、あるのかもしれない。教えるとき、あの人の声は、少し若くなるのだ。
そういえば――と、夜になって思い出す。昼間の、あの一拍早い咳払い。あのとき廊下の向こうで、従士長が心得た顔をしていた。たぶん、意味はあれで合っている。
◇
数日ののち、門前にまた馬が止まった。今度は官服ではない。若い騎士が一人、白い封書を高々と掲げている。
果たし状、と書いてあった。