意識が浮上するよりも早く、全身を苛む絶え間ない激痛がラミエルを容赦なく襲った。
「......ッ」
喉の奥から絞り出そうとした呻き声は、ひどく掠れた空気の漏れる音にしかならなかった。
重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは見知らぬ木造の天井だった。
古びた木の匂いと、微かに鼻をくすぐる線香の香り。そして、自身の体が硬い畳の上に敷かれた薄い布団に横たえられているという事実。
(ここは......どこだ?)
霞む思考を必死に繋ぎ合わせる。
記憶の最後の断片は、冷たい石段だった。
バルトメロイ・ローレライとの死闘。神代の遺物『ミョルニル』を顕現させ、その反動によって全身の魔術回路が焼け焦げ、筋肉が断裂するほどの痛みに耐えながら、夜の森を死に物狂いで駆け抜けた。
クロンの大隊の執拗な追跡を振り切り、日本のどこか、霊脈の濃い土地に建つ山門の前で力尽きたことまでは覚えている。
(誰かに、拾われたのか......?)
右腕を動かそうとして、思わず顔をしかめた。鉛のように重く、指先1本動かすことすら途方もない労力を要する。
ラミエルの身体には、全身のあちこちに素人仕事ではない手際の良い包帯が巻かれていた。
他人に無防備な姿を晒し、あろうことか『救われる』という屈辱。
弱者は強者に蹂躙される。それが20年間、ラミエルが母から骨の髄まで叩き込まれた世界の絶対的な真理だった。
ならば、見知らぬ空間で無力に横たわっている今の自分は、生殺与奪のすべてを赤の他人に握られている最底辺の『弱者』に他ならない。
「......ふざけるな」
そう呟き、ラミエルは奥歯を強く噛み締めた。
体内の魔力をかき集める。焼け焦げた回路に無理やり魔力を通すたび、内臓を直接かき回されるような激痛が走るが、それすらも彼にとっては怒りの燃料でしかなかった。
その時だった。
スパンッ、と。
一切の淀みも、迷いもない、ひどく無機質な音を立てて襖が開いた。
ラミエルは瞬時に視線を扉へ向ける。そこに立っていたのは、お盆に乗せた水差しと真新しい包帯を手にした、長身の男だった。
黒いタートルネックに、地味な色のスラックス。どこにでもいるような、ごく平凡な教師や公務員のような風体の男。
だが、ラミエルの本能が、即座に警鐘を鳴らした。
(なんだ......こいつは)
気配がない。いや、生き物としての存在感が極端に薄いのだ。
足音はおろか、呼吸の乱れや、筋肉の緊張、他者に対する警戒心といった、人間が当然発するはずのノイズが一切感じられない。
まるで精巧に作られた無機物が、ただプログラムに従って歩行しているかのような、ぞっとするほどの静けさ。
「目が覚めたか」
男の口から発せられた声もまた、驚くほど平坦だった。
「三日三晩、死んだように眠っていたぞ」
抑揚のない声色。そこに安堵の感情も、警戒の色もない。ただ『事実』を口にしただけの、完璧なまでの無関心。
「......君が僕を拾ったのかな?テレビで僕の顔を見ただろうに、ずいぶんと間抜けでお人好しな一般人だ」
ラミエルは痛む体を無理やり起こし、壁に背を預けた。
そして、男の眉間を真っ直ぐに射抜くように睨みつけながら、右手の指先にチリチリと青白い雷光を瞬かせた。
バチッ、バチバチッ!
狭い和室の空気が一気に焦げ臭くなり、鋭い匂いが充満する。
常人であれば、目の前で発生した超常の現象と、ラミエルが放つ圧倒的な殺気に当てられ、腰を抜かして悲鳴を上げているはずだ。
「僕が誰か知っていて助けたのなら、この展開は予想できたはずだ。君の命は、僕の手の中にある」
それは強者としての力の誇示であり、不気味な相手に対する威嚇だった。
しかし。
「好きにしろ。だが、お前のその体では、今は何がするよりも休む方が理にかなっている」
男──葛木宗一郎の表情は、1ミリたりとも動かなかった。
ラミエルの指先で弾ける雷光を一瞥だにせず、宗一郎は無音の足取りで畳の上を歩み、ラミエルの枕元に水差しを静かに置いた。
その隙だらけに見える動作の中に、ラミエルは奇妙な違和感を覚えた。
隙がないのだ。
無防備に見えて、いざとなればどんな体勢からでも瞬時に反撃に転じることができる、極限まで無駄を削ぎ落とした異常な身体操作。
(──僕と、同類....なのか?だとしても、なぜ恐怖しない)
ラミエルを苛立たせたのは、宗一郎の根底にある『完全なる虚無』だった。
「......なんだ君。死ぬのが怖くないのか?」
ラミエルは雷光を消さないまま、地を這うような低い声で問うた。
「私を殺すことに、何かの意味があるのか」
宗一郎の返答は、やはり機械的だった。
「意味?弱者が強者に殺される。それ以上の理由が必要かい?」
ラミエルは鼻で笑い、己の殺意を正当化する。しかし、宗一郎は静かに瞬きを1つしただけで、全く動じる様子を見せなかった。
「お前が私を殺しても、お前の怪我が治るわけではない。ただ部屋が汚れ、お前の休息が妨げられるだけだ。理にかなっていない」
「............は?」
ラミエルは絶句した。
弱者は恐怖で泣き叫び、命乞いをする。あるいは、絶望して屈服する。それがラミエルの知る『常識』だった。
しかし目の前の男は、死の脅威を前にして『部屋が汚れるから非効率だ』と答えたのだ。
そこに強がりや虚勢はない。本気でそう思っているからこそ出てきた、純度100%の無機質な論理。
「......アハハッ!なんだよそれ、最高だ!」
ラミエルは唐突に指先の雷光をかき消し、腹を抱えて乾いた笑い声を上げた。
自分を利用しようとした母親とも、自分を見下してきたバルトメロイの魔術師たちとも違う。
怯えもしなければ、怒りもせず、何の感情も向けてこない完全な『無』。
「いいよ、君。名前は?」
「葛木宗一郎だ」
「僕はラミエル......いいよ、宗一郎。君の言う通りだ、殺すのは理にかなってない。僕の傷が治るまで、君のその退屈な『理屈』に付き合ってあげるよ」
ラミエルがひどく傲慢な笑みを浮かべてそう宣言すると、宗一郎は短く『そうか』とだけ返し、背を向けて部屋を出ようとした。
「冷める前に飲め。次の食事は数時間後だ」
スパンッ、と再び襖が閉まる。
取り残された和室の中で、ラミエルは水差しを見つめながら、深くため息をついた。
「......本当に、からっぽだな。腹が立つほどの虚無だ」
己の絶対的な力がまったく通用しない、異質すぎる特異点。
血塗られた天才と、感情を持たない元暗殺者。
交わるはずのなかった2つの存在が、この静かな柳洞寺で奇妙な同居生活を始めることになったの。
柳洞寺での奇妙な同居生活が始まってから、すでに1週間が経過していた。
神代の遺物を顕現させた代償は、ラミエルの肉体を徹底的に破壊していた。
全身の魔術回路は一時的に焼き切れており、少しでも魔力を練ろうとすれば、体内からガラス片で削り取られるような激痛が走る。
バルトメロイの精鋭たちを相手に絶大な力を振るった絶対的な王者は、今や薄暗い和室の布団から自力で起き上がることすら困難な、ただの重傷者に成り下がっていた。
それは本来、ラミエルにとって耐え難い屈辱であるはずだった。
弱者は強者に踏みにじられる。それが彼を縛り付ける世界の真理であり、本来であれば、何もできない今の自分は無残に殺されて然るべき存在だからだ。
しかし、この静寂に包まれた寺において、その真理は完全に機能不全に陥っていた。
サァッ、サァッ......
毎朝5時。まだ太陽すら顔を出さない薄暗い時間帯から、規則正しい竹箒の音が響き始める。
ラミエルは重い瞼を開け、襖の向こう側から聞こえてくるその単調な音に耳を澄ませた。
葛木宗一郎という男の日常は、頭がおかしいのかと問いたくなるほど正確で、そして完璧に空虚だった。
決まった時間に起き、境内の落ち葉を掃き、無駄の一切ない手際で精進料理を作り、そして学校へ教師として働きに出る。
夕暮れと共に帰還し、再び短い家事をこなして、目を閉じる。
ラミエルのような規格外の魔術師を寺に匿いながら、宗一郎のルーティンは1ミリたりとも乱れることがなかった。
「......気味が悪いな」
天井の木目を見つめながら、ラミエルはぽつりと呟いた。
かつて彼が閉じ込められていた極東の山小屋も、外界から隔絶された閉鎖空間だった。
だが、あそこには狂気に満ちた母親の悲鳴があり、肉体が焦げる匂いがあり、憎悪という名の暴力的な熱が常に渦巻いていた。
対して、この柳洞寺はどうだ。
広大で、静かで、冷たくて......何もない。
その事に不満はない。不満があるとすれば料理だ。
宗一郎が持ち込んでくる食事は、味が薄く、栄養を摂取するという目的だけを満たすための無機質な固形物のようだった。
『こんな餌みたいな飯が食えるか!』
最初の数日、ラミエルは苛立ちに任せて膳をひっくり返した。どんな反応をするのか見るために。ついでに、食事内容を改善してもらうために。
だが、宗一郎は表情一つ変えることなく、床に散らばった米粒と煮物を淡々と片付けただけだった。
『食べないのなら、次は夕食まで何もない。それだけだ』
そこに怒りはなく、呆れすらもない。ただシステムがエラーを処理するように、結果だけを告げて襖を閉めた。
相手の魂が『からっぽ』であるがゆえに、ラミエルの行動はすべてが虚空へと吸い込まれていく。
暖簾に腕押しどころではない。宇宙空間に向かって吠えているような、圧倒的な手応えのなさだった。
だが、その無関心は、ラミエルの内側で燻っていた苛立ちを、少しずつ別の感情へと変質させていった。
数日後。
ラミエルはようやく自力で立ち上がれるまでに回復し、痛む足を引きずって縁側へと出た。
初夏の風が青葉を揺らし、木漏れ日が枯山水の庭に柔らかな影を落としている。
20年間、太陽の光すらまともに浴びることの許されなかった彼にとって、それは目を細めたくなるほど美しく、そしてひどく退屈な光景だった。
「......君のその足運び、呼吸の仕方。ただの教師のそれじゃないね」
庭石の上に腰を下ろし、草むしりをしている宗一郎の背中へ向けて、ラミエルは唐突に口を開いた。
「一切の無駄がない。重心が常に安定していて、いついかなる体勢からでも他者の急所を破壊できる......君、かつては人間を殺すためだけの道具だったんだろう?」
その推測は、ラミエルの鋭い観察眼と、同じように『壊された者』として、同類としての直感が導き出した確信だった。
宗一郎の手が、ほんの一瞬だけピタリと止まる。しかし、振り返ることなく彼は作業を再開した。
「今はただの教師だ」
「嘘だね。僕にはわかる」
ラミエルは縁側の柱に寄りかかり、ひどく歪な笑みを浮かべた。
「僕たちは同類だ。誰かの都合の良い目的のために、人間としての感情を削ぎ落とされ、殺戮の兵器として仕立て上げられた。違うかい?」
宗一郎は何も答えない。沈黙は肯定と同義だった。
「ねえ、君をそこまで完璧に作り上げた組織は、今どうなっているんだ?君を使い捨てにした奴らに、復讐しようとは思わなかったのかい?」
ラミエルは、自身の右手に残る母の生血の感触を思い出しながら問うた。
自分を縛り付けていた鎖を噛み砕き、絶対的な支配者であった母の心臓を抉り出したあの瞬間。
あの圧倒的な全能感こそが、ラミエルという存在の証明だった。
しかし、宗一郎から返ってきた言葉は、ラミエルの期待を根底から裏切るものだった。
「殺す理由がない」
「......は?」
「私の役割は、組織に命じられた標的を消すことだった。組織自身を殺す命令は受けていない。そして組織は私を捨てた。役割が終わってここに流れついた。それだけのことだ」
雑草を抜き取り、土を払う。その動作と同じくらい、宗一郎の言葉には重みがなかった。
ラミエルは絶句した。
「バカじゃないの、君!命令されないと自分を苦しめた相手も殺せないなんて、ただの精巧な操り人形じゃないか!」
思わず立ち上がり、ラミエルは声を荒げた。
「僕は自分の意志で、僕を縛り付けていた枷を壊した!僕を透明な器としてしか見なかった母親を殺して、この世界に『ラミエル・バルトメロイ』という存在を刻み込むと決めたんだ!奪われた人生を取り戻すための、当たり前のエゴじゃないか!」
息を荒らげ、血走った目で宗一郎を睨みつける。焼け焦げた魔術回路が悲鳴を上げながらと、指先から青白い火花が散った。
だが、宗一郎はゆっくりと立ち上がり、汚れのない瞳でラミエルを真っ直ぐに見返した。
「私には、元から奪われるような人生は存在しなかった。故に、取り戻すものもない」
悲壮感すらなく、ただ事実として『自分はない』と断言する男。
「君は......絶望しないのか?自分が完璧に『からっぽ』だというその事実に」
「絶望する主体がない......」
その言葉のあまりの空虚さに、ラミエルは毒気を抜かれたように縁側に崩れ落ちた。
勝った気もしなければ、優越感も満たされない。共感もできない。
この世界の頂点に君臨し世界に己を見せつけようとする自分と、何者にもならず日常の風景に溶け込もうとする男。
同じように歪められた道具として生まれながら、たどり着いた答えはあまりにも対極だった。
そしてそれは、ラミエルに己の内側を覗き込む機会を与えることになった。
自分は『母を殺した』ことで自由になったと信じていた。
しかし、今の自分のすべての行動原理は母親によって植え付けられたものでしかない。
それは果たして、本当に自分自身の純粋なエゴなのだろうか?母という過去を取り除いた時、自分の中には何が残る?
(......僕も、こいつと同じように『からっぽ』なのか?)
強烈な恐怖と嫌悪感が、ラミエルの背筋を駆け上がった。
神代の雷魔術を操り、絶対的な力を持っていながら、自分の存在の根本が他者に依存しているという事実。
宗一郎は何も持っていないからこそ、何にも縛られていなかった。
組織に捨てられたことを受け入れ、ただの教師として新しい役割をこなしている。ある意味で、彼は完全に完成された存在だった。
対して自分は、力を持て余し、憎悪という名の鎖を自分で自分に巻き付けているだけの、哀れな存在に過ぎないのではないか。
「......気に入らないな」
ラミエルは前髪を掻き毟りながら、低く唸った。
「本当に、腹が立つほど気に入らない。君のその退屈な理屈を認めたくない」
「認めなくていい。お前はお前の生き方をすればいいだけだ」
宗一郎は短く返し、手にした雑草をゴミ袋へ放り込んだ。
「ああ、そうさせてもらうよ。僕は君のような空っぽな機械じゃない」
ラミエルは痛む腕をさすりながら、自虐的でありながら、確固たる傲慢さを取り戻して笑った。
「だけど、君のことはしばらく観察させてもらうよ、宗一郎。なんたって、ここは暇だからね」
「言ったはずだ。客として扱うと。それ以上の干渉は無用だ」
宗一郎は箒を手に取り、再び規則正しいリズムで落ち葉を掃き始めた。
サァッ、サァッ......
静かで、冷たくて、完璧に空虚な音。
血塗られた天才は縁側でその音を聞きながら、己の焼け焦げた魔術回路の痛みに耐え、牙を研ぎ直す。
強くなるためには己の内に渦巻く激情を、この葛木宗一郎のような氷のような冷徹さでコントロールする『器』が必要なのだと、ラミエルは悟り始めていた。
それは、憎悪に狂った母が絶対に到達できなかった、至高の魔術師への最初の一歩だった。
季節は静かに巡り、柳洞寺の境内に青々とした夏草が茂る頃。ラミエルの肉体は、驚異的な速度で回復を遂げつつあった。
あれから約1ヶ月。
神代の魔力によって焼き切れたはずの魔術回路は、完全に機能を停止して崩壊するどころか、より太く、より強靭なものへと変異しながら再構築されていた。
両腕に定着させた『トールの腕』という架空の概念が、ラミエル自身の脆弱な人間の肉体を、神の遺物を振るうに相応しい器へと強制的に書き換えているのだ。
「......ふん、悪くない」
薄暗い客間で胡坐をかきながら、ラミエルは自身の手を見つめた。
意識を集中するだけで、バチッ......と青白い火花が指先で弾ける。魔力を練り上げる際の、あの内臓を掻き回されるような激痛はすでに消え去っていた。
代わりに彼を満たしているのは、かつてないほど澄み切った魔力回路の感覚と、柳洞寺の地下深くから這い上がってくる、尋常ではない規模の霊脈の息吹だった。
ここは、ただの田舎の寺ではない。
魔術師としての優れた感覚が、この円蔵山という土地そのものが巨大な魔術儀式の基盤であることをラミエルに告げていた。
(これほどの莫大な魔力リソース......時計塔の連中が気づかないはずがない。極東の片田舎で、一体何を企んでいる?)
彼が冷たい笑みを浮かべたその時、襖の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「葛木先生!いい加減にしてください、あの得体の知れない男は一体何者なんですか!」
襖越しに聞こえてきたのは、若く、生真面目さを絵に描いたような少年の声だった。
この寺の跡取り息子であり、宗一郎の教え子でもある柳洞一成だ。
「寺の敷地をうろつき回るわ、食事には文句をつけるわ、何よりあの目......!常人のそれではありません。早く警察なり病院なりに......」
「一成。彼は私の客だ」
一成の悲痛な訴えを、宗一郎の抑揚のない声が淡々と遮った。
「怪我が治るまではここに留まる。住職には私から話がついている。それ以上の詮索は無用だ」
「しかし......!」
「朝の作務が遅れているぞ、一成」
完全に会話を打ち切る宗一郎の冷徹さに、一成はぐっと言葉を飲み込み、忌々しげな足音を立てて去っていった。
ラミエルは音を立てずに襖を開け、廊下に立つ宗一郎をひどく愉快そうに見下ろした。
「いいのかい、宗一郎?可愛い教え子が僕に怯えているじゃないか。彼が警察を呼んだら、君も犯罪者の隠避で捕まることになるんだぜ」
ラミエルは皮肉たっぷりに言い放った。
「警察はお前を指名手配しなかったから、犯罪者ではない。それに、まだお前の傷は完治していない」
宗一郎はラミエルの挑発を完全に無視し、手にした洗濯物の束を抱えたまま歩き出そうとする。
「君さ、本当に僕のことどうでもいいんだね」
ラミエルは壁に寄りかかり、宗一郎の背中へ向けて言葉を投げた。
「この1ヶ月、君は僕が何者で、どれだけの人間を殺してきたか、一度も聞こうとしなかった。僕が夜な夜なこの山の霊脈を探っていることにも気づいているくせに、止めようともしない」
「私の役割ではないからだ。霊脈とやらは知らない」
宗一郎は足を止め、僅かに振り返った。
「私が決めたのは『お前の怪我が治るまで置く』ということだけだ。お前が過去に何をしようと、未来で何を企んでいようと、私の日常には何の関係もない」
「......徹底しているね」
ラミエルは舌打ちをした。
この男はラミエルを前にしても、自分の世界を1ミリも歪めようとしない。
「まあいいさ。僕も、君のその退屈な日常を壊すのは後回しにしてあげるよ。それより......」
ラミエルは瞳を細め、視線を寺の床下、はるか地中深くへと向けた。
「この山、地下に途方もない『何か』が眠っているね。巨大な術式だ。単なる霊脈の交差点ってだけじゃない。長い歳月をかけて魔力を蓄積している、バカげた規模の魔術炉心がある」
「私には魔術の知識はない。山がどうなっていようと興味はない」
「そう言うと思ったよ。でも、僕には関係大ありだ」
ラミエルの口角が、三日月のように深く吊り上がった。
バルトメロイ・ローレライを相手取ったあの森での死闘。
結果として彼女を退けたとはいえ、ラミエルは己の限界を痛感していた。
神代の武具『ミョルニル』を完全に使いこなすためには、己の魔力だけでは圧倒的に足りない。
もし次にあの完璧な女王と正面からぶつかれば、次は確実に自分が削り殺されると。
だが、もしこの山に眠る巨大な魔力リソースを、丸ごとミョルニルの駆動エネルギーとして接続することができたら?
「......この極東の地で、誰かがとんでもない物を準備しているらしい。だったら、僕がそれをそっくりそのまま乗っ取ってやる」
ラミエルは、薄暗い廊下で青白い雷光を帯びた右手を強く握りしめた。
「......好きにしろ。だが、夕食の時間には戻れ」
背後で聞こえた宗一郎の言葉に、ラミエルは呆れたように肩をすくめ、そして久しぶりに腹の底から笑い声を上げた。
ラミエルは体調を崩した。単純に睡眠時間をろくに取らず、動き回りすぎたからだ。
薄暗い客間。分厚い布団にくるまりながらも、ラミエルの体はガタガタと小刻みに震えていた。
額にはべっとりと脂汗が浮かび、浅く荒い呼吸が静寂な部屋に響く。
「......あ......ぁ......」
うなされる彼の脳裏を支配していたのは、決別したはずの過去だった。
極東の山小屋。冷たい石の床。そして、狂気に歪んだ母親の冷酷な瞳と、絶え間なく降り注ぐ暴力と魔術による拷問の記憶。
「ごめんなさい......お母様......」
それは、傲慢な天才の姿ではなかった。
20年という途方もない時間、ただひたすらに恐怖を植え付けられ、肉体と精神を砕かれ続けた一人の矮小な子供の哀哀たる懇願だった。
「僕が、悪かったから......許して......もう、痛くしないで......っ」
無意識の底で、ラミエルは必死に許しを乞うていた。
母親を殺し、己の力で自由を勝ち取ったという現実すらも、骨の髄まで染み込んだ『恐怖』という名の呪縛の前では容易く霞んでしまう。
痛い。怖い。許してほしい。ラミエルは──血の涙を流していた。
スパンッ、と。
無機質な音を立てて襖が開いた。
時刻は午前5時。
本来であれば、葛木宗一郎が境内の掃除を始める時間である。
そしてその後は朝食を作り、教師として学校へ向かう。それが彼の絶対に崩れない日常のルーティンだった。
手桶と布巾を持った宗一郎は、畳の上で丸まり、幼児のように震えて謝罪を繰り返すラミエルを静かに見下ろした。
「......」
宗一郎の表情には何の感情も浮かばない。
ただ、熱に浮かされるラミエルの異常な体温を正確に知覚していた。このまま放置すれば、最悪の場合更に体調を悪化させるだろう。
だが、それは宗一郎にとって『関係のないこと』であるはずだった。
自分は彼を客として置いているだけだ。
最低限の水と薬を枕元に置き、予定通りに学校へ向かう。それが最も効率的で、論理的な判断だ。
しかし。
「......ごめんなさい......」
震える声で搾り出されたその謝罪が、なぜか宗一郎の足を引き留めた。
かつて組織の道具として殺戮だけを繰り返してきた宗一郎には、この少年がどれほどの地獄を味わってきたのか、その具体的な中身はわからない。問うこともしなかった。
だが、恐怖によって徹底的に『壊された』人間の姿は、嫌というほど知っていた。かつての自分もまた、そうして作り上げられた虚無の一つだからだ。
宗一郎はゆっくりと手桶を畳に置いた。
そして、無音の足取りで廊下へと引き返し、壁に掛けられていた黒電話の受話器を取り上げた。
ジー、とダイヤルを回す音が響く。
『はい、穂群原学園職員室です』
「葛木です。急で申し訳ないのですが、本日、体調不良のためお休みをいただきます」
一切の淀みもない、平坦な声での欠勤連絡。
それは、葛木宗一郎という男が初めて、己のルールを『他者』のために破った瞬間だった。
部屋に戻った宗一郎は、冷たい水で絞った布巾を、震えるラミエルの額に無造作に乗せた。
ビクッ、とラミエルの体が跳ねる。
「......ひっ、お母、さま......」
「違う」
宗一郎は、うわ言でさえも怯えるラミエルの言葉を冷たく、しかし確かな力強さで遮った。
「お前の敵はここにはいない。ただの熱だ。ひたすらに汗をかき、耐えろ」
その声には、同情も哀れみも一切含まれていない。
狂気も暴力も存在しない、ただただ凪いだ水面のような声。
額に伝わる冷たい感触と、規則正しく響く宗一郎の静かな呼吸音が、ラミエルの意識を苛む過去の亡霊を少しずつ散らしていく。
数時間後。
窓から差し込む朝の光の中で、ラミエルはようやく重い瞼を開けた。
全身は汗でぐっしょりと濡れ、激しい疲労感に襲われていたが、あの狂いそうなほどの熱と悪夢は嘘のように引いていた。
ゆっくりと視線を巡らせると、部屋の隅で、宗一郎が静かに本を読んでいる姿が目に入った。
「......君......なんで、ここにいるの」
掠れた声で問う。
時計を見れば、とうに学校の始業時間を過ぎている。
「学校はどうした......君の、あの気味の悪い日課は......」
「休んだ」
宗一郎は本から視線を上げることなく、短い事実だけを告げた。
「看病でも、してくれたって言うのか......?君のような空っぽの人形が......」
「勘違いするな。お前が熱で暴れて、部屋を焦がされては面倒だっただけだ。見張っていたに過ぎない」
平坦な声で返される言葉。
だが、枕元には何度も水を変えられた形跡のある手桶があり、額に乗せられた布巾は、まだ微かに冷たさを保っていた。
不器用で、理屈っぽくて、どうしようもなく空虚な男が、自分をあの辛い過去から引きずり上げてくれた。
その事実を前に、ラミエルは毒気を抜かれたように天井を見上げた。
「......バカじゃないのか、本当に」
悪態をつきながらも、ラミエルの口元には、いつも張り付いているような傲慢な歪みはない。
ただ、ほんの少しだけ、柔らかな笑みが浮かんでいた。