柳洞寺の朝は、ひどく静謐で、そして規則正しかった。
季節は秋へ向かおうとしている。冷たさを帯び始めた空気が境内に満ち、木々の葉が擦れる微かな音が耳に届く。
本堂の裏手にある縁側に腰を下ろし、ラミエル・バルトメロイはただ黙ってその風景を睨みつけていた。
彼の視線の先では、葛木宗一郎が竹箒を手に落ち葉を掃き集めている。
サァッ、サァッ
寸分の狂いもないその反復運動は、見ているだけでラミエルの内側にある苛立ちを静かに煽った。
20年。
彼が物心ついてからこの極東の地に流れ着くまでの20年間は、ただ血と絶叫と、皮膚を焼かれる焦げ臭さだけで構成されていた。
『雷帝の魔女』と呼ばれた母によって地下牢に繋がれ、魔術回路を強制的に拡張される日々。毎日が生存を懸けた闘争であり、息を吸うことすらも苦痛を伴う地獄であった。
弱者は蹂躙される。
だからこそ絶対的な強者にならなければならない。その強迫観念だけがラミエルを生かし、ついには母を殺害して神代の遺物である『ミョルニル』を奪い取るに至った。
彼は血塗られた天才であり、この世界の頂点に君臨する力を得た絶対者のはずだった。
それなのに、今の自分はどうだ。
ラミエルは自身の右の手のひらを見下ろした。
かつては紫電の火花を散らしていた指先は、今やひどく大人しい。
母を殺し、バルトメロイ・ローレライとの死闘を経てこの寺に転がり込んで以来、彼は一度も本気で魔術を行使していなかった。
傷を癒やすための隠れ家。魔力リソースを掌握するための仮の拠点。
そう自分に言い聞かせてはいるものの、この毒にも薬にもならない『平穏』という名のぬるま湯が、確実に自分の牙を鈍らせていることをラミエルは自覚していた。
「......くだらない」
忌々しげに吐き捨てた言葉は、静かな境内に虚しく吸い込まれていった。
苛立ちの矛先を向けるべき敵もいなければ、自身の力を誇示する対象もない。ただ時間だけが、宗一郎の掃く竹箒の音と共に無意味に過ぎ去っていく。
ふと、箒の音が止んだ。
ラミエルが顔を上げると、いつの間にか宗一郎が縁側の数歩手前まで歩み寄ってきていた。
足音すら立てないその歩法は、彼がかつてどのような世界で生きてきたかを如実に物語っている。
「目が覚めたか」
宗一郎の声音には、一切の感情の起伏がない。喜びも、怒りも、憐憫すらも存在しない。
「......ずっと起きていた。君のその耳障りな掃除のせいでね」
憎まれ口を叩くラミエルに対し、宗一郎は表情を微塵も動かすことなく淡々と頷いた。
「そうか。では、ちょうどいい。裏庭に積んである薪を割っておけ」
「......は?」
予想外の言葉に、ラミエルは思わず間の抜けた声を漏らした。
薪を割れ。この、世界最高峰の魔術師であり、神代の力を宿す天才に向かって、薪割りなどという下働きの雑用をやれと言ったのか。
「君は、自分が誰に向かって口を利いているか理解しているのか?僕はバルトメロイだ」
明確な殺意と魔力を込めて睨みつける。周囲の空気がビリビリと震え、焦げた匂いが漂い始めた。
しかし、宗一郎は微動だにしない。蛇のように冷たい瞳でラミエルを真っ直ぐに見返し、事実だけを述べる。
「ここは寺であり、お前はここで寝食を行っている。ならば、それに相応する労働を提供するのが筋だ。一成たち僧侶も皆、己の役割を果たしている。傷も治ったのから尚更だ」
「僕に俗世の理屈を押し付けるな!僕は......」
「風呂の湯を沸かすために必要なのだ。昼までに終わらせておけ」
それだけを言い残し、宗一郎は再び竹箒を手にして歩き去ってしまった。
背を向けた宗一郎の無防備な首筋に向けて、ラミエルは右手に雷の魔力を練り上げた。
今すぐこの男の首を吹き飛ばしてやる。そうすれば、こんな生ぬるい日常から抜け出せる。
だが......指先に集まった紫電は、パチッと小さな音を立てて霧散してしまった。
殺せない。
この空っぽの男を殺す明確な理由が、今のラミエルには見つけられなかったのだ。理由がなければ殺せない。それは、弱さである。
「......くそっ......覚えていろ......」
結局、ラミエルは誰に届くでもない呪詛を吐き捨てながら、重い足取りで裏庭へと向かうしかなかった。
裏庭の隅には、山から切り出された丸太が不格好に積まれていた。
その横には、古びた鉄の斧が立てかけられている。柄の部分は手垢で黒ずみ、刃には無数の刃こぼれがあった。
「こんな原始的な道具を使えって?馬鹿げてる」
ラミエルは斧を一瞥しただけで、深い溜息をついた。
薪を作るという結果が得られれば手段は問われないはずだ。ならば、自分にしかできない最も効率的な方法で終わらせてやる。
彼は薪割り台の上に、手頃な太さの丸太を1つ立てた。
数歩下がり、右手を静かに持ち上げる。
ラミエルの脳内で、極めて高度な魔術演算が開始された。
対象の材質、水分量、木目の向き。
それらを切断するために必要な熱量と、物理的な衝撃のベクトル。
彼の操る雷魔術は、本来であれば簡単に都市を焦土と化すほどの破壊力を持つ。
それを『丸太を縦に真っ二つにする』という極小の事象に限定して出力する。
それは、大砲で針の穴を通すような絶望的な精密操作を要求される行為だった。
しかし、ラミエルは天才である。この程度のこと、目を瞑ってもできる。
「
指先から、鋭い青白い閃光が放たれた。
それは直線を描いて丸太の中心に直撃し──次の瞬間、凄まじい轟音が裏庭を揺るがした。
「なっ......!?」
爆風が巻き起こり、周囲に土煙と黒い焦げカスが散乱する。ラミエルは咄嗟に腕で顔を覆ったが、爆発の余波を完全に防ぐことはできなかった。
数秒後、風が煙を晴らしたあとに残っていたのは、見事なまでに消滅した丸太と、その下にあったはずの薪割り台の残骸、そして地面に穿たれた黒焦げのクレーターだった。
「......なぜ。計算は完璧だったはず......」
頭から黒い煤を被り、顔を真っ黒にしたラミエルは、呆然とクレーターを見つめていた。
魔力出力は最小限に抑えた。ベクトルも正確だった。それなのに、結果はただの『破壊』だった。
彼の宿す魔術の根源は既に変質している。今のラミエルの魔術回路には、トールの腕を物質化して定着させ、更にはミョルニルから流れ込んだ神代の魔力が流れているのだ。
それは神代の闘争であり、敵対するものを完膚なきまでに滅ぼすための『殺戮の概念』である。
母親の元で学んだ魔術のコントロールなど、もはや大して役には立たない。
「......ふざけるな。こんな木の塊1つ、僕の力で......」
プライドを粉々に砕かれた天才魔術師は、煤まみれの顔を歪ませ、ギリギリと歯を食いしばった。
自身の魔術講師のコントロールに失敗したという事実が受け入れられなかった。
彼は与えられたおもちゃを壊してしまった子供のように、その場に立ち尽くしていた。
その一部始終を、縁側の少し奥から静かに観察している眼があった。
葛木宗一郎である。
彼は掃除を終えた後、ラミエルがどのような手段で薪を割るのかを確かめるために足を止めていた。
手伝うつもりも、止めるつもりもなかった。ただ、『気になった』から見ていた。
宗一郎の視界には、黒焦げの地面と、その中心で煤まみれになって立ち尽くすラミエルの姿が映っていた。
薪一つまともに割れず、顔を真っ黒にして唇を噛み締めている。
その光景を認識した瞬間、宗一郎の肉体に『異変』が起きた。
自身の意志とは全く無関係に、顔の筋肉が収縮を始めたのだ。
大頬骨筋が引き上げられ、口角がわずかに上を向く。眼輪筋が緩み、鋭かった目元が微かに細められる。
そして、声帯の隙間から、意図しない空気が漏れ出した。
「......ふっ」
それは、本当に微かな、吐息のような音だった。
しかし、その音は宗一郎自身にとって、世界が裏返るほどの異常事態だった。
彼は己の肉体を完全に掌握している。
呼吸の深さ、心拍数、筋肉の緊張と弛緩。それらすべてを意識下でコントロールしている。
その肉体が、今、何の命令も下していないにも関わらず『勝手に動いた』のだ。
エラー。バグ。神経系の誤作動。
宗一郎の論理的な思考回路は、直ちに原因の究明を試みた。
しかし、どれほど身体をスキャンしても異常は見当たらない。あるとすれば、ただ一つ。
今しがた感じた、胸の奥底が奇妙に温かくなるような、得体の知れない感覚だけだ。
「......宗一郎」
低く、ひどく冷たい声が響いた。
ハッと我に返った宗一郎の視線の先ではラミエルが、肩を震わせながらこちらを睨みつけていた。
その瞳には、先ほどの戸惑いなど微塵もなく、純度100%の明確な殺意が宿っている。
「君、今......僕を見て笑ったか?」
地を這うような声。周囲の空気が再び帯電し、チリチリと肌を刺す。
ラミエルにとって、他者からの『嘲笑』は自身の尊厳に対する侮辱であった。
だからこそ、この空っぽの男が自分を笑ったのだとすれば、それは絶対に許されない。たとえ寺を吹き飛ばすことになっても、その顔面を消し炭にしてやらねばならない。
しかし、ラミエルの怒気に対して、宗一郎の反応は極めて真剣なものだった。
宗一郎は自身の顔に右手を当て、指先で口角や目元の筋肉を注意深く確認するように撫でた。その目は、自身の内部で起きた不可解な現象に対する純粋な困惑に満ちている。
「......いや。今のは笑いではないはずだ」
宗一郎は、極めて真面目な顔でラミエルに向かって答えた。
「顔面神経、あるいはいずれかの表情筋が、何らかの理由で不随意の痙攣を起こしたらしい。不覚だ。体調管理には万全を期していたつもりだったが、蓄積した疲労が神経系に誤作動をもたらしたと推測される」
「は......?」
あまりにも堂々とした、そして的外れな医学的分析に、ラミエルは拍子抜けして魔力を霧散させてしまった。
「誤作動だ?ふざけるな、君の口角は確実に上がっていた!僕のこの無様な姿を見て、腹の底で嘲笑ったのだろう!」
「私は嘘を吐かない。事実として、私は今まで『おかしい』と感じて笑った経験が存在しない。ゆえに、今の顔の筋肉の動きが『笑い』という感情に起因するものではない」
宗一郎は淡々と説明をしている。
「だが、お前の言う通り口角が上がっていたのなら、それは笑いの表情と酷似していたのだろう」
「......もういい。君と話していると頭がおかしくなりそうだ」
ラミエルは頭を抱えた。
本気で怒ろうとしていた自分が馬鹿みたいだ。この男は本当に、人間の感情というものを理解していない。
自分が感じた『可笑しさ』すらも、神経の誤作動として処理してしまうほどに壊れている。
「......おい、早く新しい薪割り台を持ってきなよ。次は斧でやってやる」
ラミエルは煤まみれの顔を背け、乱暴にそう吐き捨てた。
それは彼が初めて、自身の魔術の行使を諦め、俗世の手段を受け入れた瞬間だった。
「ああ」
宗一郎は短く答え、薪割り台を取りに歩き出す。
その足取りは相変わらず音を立てず、機械のように正確だった。
しかし、歩きながらもう一度だけ自身の口元に触れた宗一郎の指先は、彼自身も気づかないほどに、ごく僅かに、ひどく人間らしい迷いを帯びていた。
完璧な破壊者と、空っぽの暗殺者。
血と死に彩られた二つの極端な存在は、柳洞寺という小さな平穏の箱庭の中で、互いの歯車を不格好に噛み合わせながら、ゆっくりとその形を変えようとしていた。
冷たい秋の風が吹き抜ける裏庭には、焦げた木の匂いと、どこか間抜けな静寂だけが残されていた。
冷たい雨が、穂群原学園の立ち並ぶ坂道を透明に染め上げている。
生徒たちがとうに下校した夕刻。教師としての業務を終えた葛木宗一郎は、規則正しい歩調で帰路についていた。
傘を打つ雨音だけが響く中、彼の左手には、本来の彼であれば絶対に持ち歩くことのない異物が握られている。
駅前のアーケード街に立ち寄って買った、小さな紙袋だ。
中に入っているのは、ひどく甘ったるいだけの安価な洋菓子である。
数日前、不機嫌なラミエルが『安っぽい味。この程度の品だと、僕は満足できなくなったか』と悪態をつきながらも、結局は指先についたクリームまで舐めとるように完食していた代物だった。
なぜ、わざわざ帰宅ルートを外れてまでこんなものを買ったのか。葛木自身にも明確な論理的理由は説明できない。
ただ『これを与えれば、あのやかましい男が少しは静かになる』という、非効率極まりない計算が働いた結果だった。
人気のない路地裏に差し掛かった瞬間。
葛木の足が、ピタリと止まった。
「......奇遇だな、葛木先生。このような雨の日に、随分と可愛らしい荷物をお持ちのようだ」
雨音を切り裂いて響いたのは、底知れぬ悪意を孕んだ男の声だった。
薄暗い路地裏の先。ひび割れたコンクリートの壁を背にして立っていたのは、漆黒の法衣を纏った男─言峰綺礼だ。
濡れた髪をかき上げた言峰の指の間には、修道士が用いる投擲剣である『黒鍵』が数本、すでに臨戦態勢で挟まれている。
葛木の脳内を、瞬時に極度の緊張が駆け巡った。
「......言峰神父。私に何か用か」
葛木は紙袋を持ったまま、声のトーンを一切変えずに問う。同時に、肉体の重心をわずかに沈め、暗殺術『蛇』を放つための初動の構えに入ろうとした。
神父にこのような敵対行動をとられる理由は知らずとも、その悪意だけは見て取れる。
言峰は愉しげに口元を歪め、ゆっくりと歩みを進めてくる。
「用、と問われると困るな。私はただ、観察しに来ただけだ。完璧な殺人機械が、得体の知れない魔術師の子どもに入れ込み、滑稽な家族ごっこに溺れている様をな」
言峰の言葉は、葛木の内に生じていた微かな『綻び』を正確に突いていた。
「......貴様には関係のないことだ」
「関係はあるとも。私はただ、貴様のその『人間らしい綻び』が、実戦においてどれほどの致命傷になるのかを確かめたいのだ!」
歓喜に満ちた叫びと共に、言峰の巨体が爆発的な速度で距離を詰めてきた。
放たれた黒鍵の連撃。
かつての葛木であれば、初撃の軌道を完璧に読み切り、紙袋など即座に投げ捨てて反撃か撤退の最適解を選択していたはずだ。
だが、葛木の思考にコンマ数秒の致命的な『遅れ』が生じた。
左手に持った、ラミエルのための洋菓子。
これを捨てれば、あの手のかかる少年が腹を空かせて苛立つだろう。そして何より、ここで自分が退けば、この男の標的がラミエルに向かうかもしれない。
『帰らねばならない』
『守らねばならない』
暗殺者にとっては最大のタブーである「執着」という感情が、葛木の歩法をほんのわずかに狂わせた。
回避ではなく、迎撃。
その選択ミスを見逃すほど、言峰綺礼という代行者は甘くない。
「遅いな!」
言峰の八極拳の絶打が、葛木の防御を紙切れのように打ち破り、その胸部へと深々とめり込んだ。
肋骨が砕け、内臓が破裂する鈍い音が路地裏に響く。
さらに追撃として放たれた黒鍵が、葛木の肺を深々と穿った。
「......がっ......!」
紙袋が手から滑り落ち、水たまりに無惨に転がる。
葛木宗一郎の身体は大きく吹き飛ばされ、アスファルトの上へどさりと倒れ伏した。
もはや医療の手など届かない致命傷であることは、葛木自身が一番よく理解していた。
口からとめどなく血が流れ、冷たい雨が急速に体温を奪っていく。
視界が赤黒く明滅する中、言峰の革靴が水たまりを踏み躙りながら近づいてくる音が聞こえた。
「素晴らしい。やはり、人間というものは面白い」
言峰は這いつくばる葛木を見下ろし、極上のワインを味わうかのようにねっとりとした声で語りかけた。
「寺の方角へ背を向けることを躊躇い、さらにはその下らない菓子の箱を庇おうとすらした......その、ひどく人間らしくて凡庸なノイズが、貴様という完璧な刃を鈍らせたのだ」
言峰の靴が、地面に転がった洋菓子の箱を容赦なく踏み潰す。
ぐしゃりという音と共に、甘いクリームが泥水に溶けていった。
「そして何より素晴らしいのは、貴様のこの無意味な死がもたらす『結果』だ」
言峰の目が、暗い歓喜に濁る。
「お前が死ねば、あの壊れた天才はどうなるだろうか!漸く手に入れた擬似的な平穏を理不尽に奪われ、再び孤独と狂気の底へ堕ちる」
なおも言葉が続く。
「貴様が与えた中途半端な温もりこそが、それを喪失したときの絶望を何倍にも膨れ上がらせるのだ......お前の死が、絶望の引き金になる。これほど唆る悲劇があるだろうか!」
雨音に混じって、言峰の狂気じみた高笑いが路地裏に木霊する。
他者の苦痛と絶望にのみ愉悦を見出す代行者にとって、帰らない葛木を待ち続け、やがて真実を知って狂乱するラミエルの姿こそが最高の報酬だった。
そのために行動したのだから。
「せいぜい、己の脆弱さを呪いながら泥水を啜って死ぬがいい。貴様があの魔術師に残したものは、絶望だけだ」
満足げにそう言い捨てると、言峰は背を向けた。
漆黒の法衣が雨風に翻り、ゆっくりとした足音が路地裏の奥へと遠ざかっていく。
やがてその気配が完全に消失し、ただ無機質な雨の音だけが世界に残された。
葛木宗一郎は、動かなくなった身体で冷たいアスファルトを感じていた。
呼吸をするたびに破裂した肺から血液が逆流し、気道を塞いでいく。死の恐怖は存在しない。
しかし、今の彼の胸の奥底から込み上げてきているのは、これまで経験したことのない、ひどく人間らしくて醜い感情だった。
「......がっ......は......」
それは、自分が死ぬことへの恐怖ではない。ただの痛覚の悲鳴でもない。
凄まじいまでの『喪失感』だった。
脳裏に過るのは、言峰の嘲笑ではない。
ただ、円蔵山の山頂にある古い寺の風景だった。
掃き残した落ち葉。精進料理に文句を言う横顔。薪割りに失敗し真っ黒になった顔。過去の幻影に苛まれ眠る.....可哀想な姿。
何も持たなかったはずの男の中に、いつの間にかそれほどの『色』が満ちていた。
もし、自分がこのまま帰らなかったら。
あのひどく手のかかる男はどうするだろうか。
明日の朝食の準備がされていないことに腹を立てながらも、自分帰ってくるまで、寺で帰りを待つだろうか。
想像するだけで、激しい焦燥感が全身を駆け巡った。
自分が死ぬことよりも、彼を『一人にしてしまう』ことへの絶望感が、葛木の理性を焼いた。
冷え切っていく指先が、無意識のうちに濡れたアスファルトを強く掻き毟る。
『お前が死ねば、あの壊れた天才はどうなるだろうか』
遠ざかる意識の中で、言峰の予言がリフレインする。
自分が死ねば、ラミエルは絶望し、再び狂気に塗れた魔術師に戻ってしまうのだろうか。
(......違うな)
言峰綺礼は人間の悪性を理解していても、あの少年の魂に根付いたものを何も分かっていない。
確かに自分が死ねば、ラミエルはまた下らぬことを考えるかもしれない。
だが、共に過ごした泥臭くも温かい日常は、間違いなく『人間としての根』を下ろさせていた。それは、絶望だけで容易く消し飛ぶほど脆くはない。
本当にそうかは分からない。ただ、そうであればいいと信じたいのだ。
葛木は神仏を信じたことがない。
だからこそ、彼が今抱いているこの強烈な感情は、すがるべき宛先を持たないものだった。
神に祈るのではない。ただ己の絶対的な意志として、虚空へ向かって願いを叩きつける。
(......あいつは、壊れない)
自分の遺した些細な日常の記憶が、どうかあいつの狂気を繋ぎ止める鎖となってほしい。
絶望に沈むことがあっても、決して世界を呪うだけの存在には戻らないでほしい。
一人でもまともに、人間として生きていってほしい。
冷たい雨が、葛木の顔を洗い流していく。
視界の端が完全に黒く塗り潰され、心臓が最後の鼓動を打つ。
(......すまないな。私は──行く末を見届けられない)
誰に聞かせるわけでもない。
それは暗殺者としての最期の言葉ではなく、ひどく人間らしい謝罪だった。
神なき世界の路地裏で。
葛木宗一郎は、ただラミエルという名前を想いながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
その冷たくなった顔には、微かな祈りの痕跡だけが穏やかに残されていた。
「──ハハッ、アッハハハハハハッ!!!!」
誰もいなくなった薄暗い部屋に、ひび割れたような笑い声が反響する。
ラミエルは葛木宗一郎の訃報を聞き、柳洞寺でのひどく簡素な葬式を終え、1人になったあと──ついに抑えきれない声を上げた。
「弱者は強者によって踏みにじられる。平穏に生きることを望み、自らの力を振るうことがなかった君でさえ──この理から逃れることはできなかった」
笑う。
ひたすらに、声を上げて笑う。
その瞳から、止めどなく溢れんばかりの涙を流しながら。
「......僕は、戻る。昔の僕に。ここに来る前までの僕に」
それは、喪失の痛みに耐えかねた子供の悲痛な叫びでもあり、残酷な世界を呪う呪詛でもあった。
「被食者であることよりも、捕食者であることを選ぶ」
しかし、彼がどれほど『昔の冷酷な自分に戻る』と吠えようとも、その頬を濡らす温かな涙が、彼がもはや血も涙もない怪物などではないことを証明している。
葛木が遺した人間らしさは、確実に彼の中に根付いていた。
だからこそ、それを失った痛みはあまりにも深く、彼を狂気の淵へと追い詰める。
......もし君の命を奪った相手を見つけたら──その時は、仇くらいはとってあげるよ。
「傷跡から見るに──あれは、執行者の仕事だった」
空虚な空を見上げて、ラミエルは血を吐くような声で呟く。
ありがとう、宗一郎。
この世界で初めて、僕に何の打算もなく善意を施してくれた、たった1人の友よ。
「──僕は、ラミエル・バルトメロイ。この世界に名を轟かせ、世界を統べる王になる魔術師だ」
僕の道を阻む者は、逆らう者は殺す。
次回からstaynightに入るような、入りかけます。