英霊召喚
あれから僕は、冬木という土地の片隅、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた別の山へと身を隠し、粗末な小屋で自給自足の生活を送っている。
人が滅多に入ってこないような、手入れされていない森の中で。
本来であれば、こんな極東の片田舎なんてとうに捨て去り、魔術世界の中心たるロンドンに移動して僕という存在を再び世界に知らしめるつもりだった。
だが、状況が変わったのだ。
少なくとも今だけは、無闇に目立つ訳にはいかない。
僕の手の甲には今、魔力を帯びた赤い令呪が刻まれている。
「──聖杯戦争か」
薄暗い小屋の中で、僕は右手の甲に浮かび上がった三画の紋様を一瞥した。
冬木という極東の地で数十年に一度行われるという、万能の願望機を巡る殺し合いの儀式。
過去には貴族主義派の筆頭であるバルトメロイと、唯一少なからず交流があったロード・エルメロイが参加して死亡した儀式。
「腑に落ちた」
かつて柳洞寺の地下深くから這い上がってくるのを感じ取った、あの尋常ではない規模の魔力。
その正体こそが、間違いなくこの聖杯戦争の核となる『聖杯』そのものなのだろう。
ならば話は単純だ。この殺し合いの勝者となれば、あの途方もない魔力の塊を合法的に、いや、誰に文句を言われることもなく我が物にできる。
ミョルニルという神代の遺物を完全に駆動させるための、無尽蔵の魔力炉心として。
そのために、僕は今は目立ってはいけない。
聖杯戦争が本格的に幕を開ける前に僕の存在が公になれば、他のマスターたちから格好の標的として狙われることになるからだ。
正体不明の英霊たちを相手に連戦を強いられれば、いかに僕であっても無傷では済まない。勝てる確証もない。
無駄な消耗を避け、確実に聖杯を得るるためには、身を潜める必要がある。
「さて......そろそろやろうか」
僕はゆっくりと立ち上がり、小屋の奥に広げた空間へと歩み寄った。
床には既に、召喚陣が描き出されている。
本来であれば、強力な英霊を呼び寄せるためには、その英霊に縁のある触媒を用意するのが定石だ。
ロード・エルメロイもかつて、アレキサンダー大王の聖遺物を用いて覇王を召喚したと聞く。真偽は定かではないが。
当然ながら、僕の手元にはそのような都合の良い歴史の遺物は存在しない。
故に、僕が選べるのは触媒を一切用いない『相性召喚』である。
術者である僕自身の精神性、魂の在り方、あるいは抱く渇望に最も近しい、あるいは何らかの決定的な縁を持つ英霊が自動的に選別され、召喚される。
僕のような傲慢で、絶対的な力を渇望する歪んだ魂。
そんな僕に惹かれて現れる英霊なんて、間違いなく残虐非道な反英雄か、あるいは己の欲望のためだけに殺戮を繰り広げた狂王の類いに違いない。
「どんな化け物が飛び出してくるか、見せてもらおうか」
僕は召喚陣の前に立ち、詠唱を開始した。
「素と銀と鉄。礎に石と契約の大公」
僕の口から紡がれる言葉に呼応し、召喚陣が血のような赤黒い光を放ち始める。
「降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉の道を循環せよ」
体内の魔術回路が激しく脈打ち、魔力が僕の全身を駆け巡る。よく良く考えれば、実際に使い魔を召喚をするのは初めてだ。
僕はただ、眼前の陣へと己の莫大な魔力を惜しげもなく注ぎ込み続ける。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
周囲の空気が急速に冷え込み、強烈な魔力の旋風が荒れ狂う。
「──告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に」
「聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
さあ、来い。僕という絶対的な王の覇道において、最も相応しい殺戮の使い魔よ。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
空間の歪みが限界点に達し、眩い光の奔流が視界を白く染め上げる。
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ──!」
轟音と共に、爆発的な魔力の余波が小屋の壁を軋ませた。
僕は舞い上がった土煙と閃光の中で、召喚陣の中心に顕現した、まだ見えぬ『英霊』を睨みつける。
煙がゆっくりと晴れていく。
そこに立っていたのは、僕が予想していたような巨躯の狂戦士でも、血に飢えた反英雄でもなかった。
「──ランサーの英霊、秦良玉。召喚に応じ推参いたしました」
凛とした、それでいてどこか哀愁を帯びた女性の声だった。
手には身の丈ほどもある白杆の長槍を携え、長く結い上げられた髪が魔力の余波でふわりと揺れている。
その瞳は澄み切っており、一切の淀みも、僕が期待したような狂気も存在しなかった。
「あなたが、私の新たな主ですね」
彼女は静かに槍を構え直し、僕に向かって深く頭を下げた。
「......は?」
僕はその姿を見た瞬間、絶句した。
明末期に実在し、女性でありながら白杆兵を率いて数々の戦功を上げ、しかし最後は悲運の中で命を散らした忠義の将。
その知識は僕の脳内に瞬時に浮かび上がったが、それ以上に僕を支配したのは、あまりにも滑稽な現実に対する強烈な違和感だった。
「......アハハッ!アッハハハハハハハハッ!」
数秒の沈黙の後、僕は腹の抱えて狂ったように笑い出した。
「な、何がおかしいのですか、マスター?」
突如として爆笑し始めた僕に対し、秦良玉は微かに眉をひそめ、戸惑いの声を漏らす。
「おかしいだろう!おかしくない訳がない!」
僕は涙が出るほど笑い転げながら、彼女を指差した。
「相性召喚だぞ!?僕のこの、真っ黒に染まりきった魂に引き寄せられてきたのが、よりにもよって『忠義』と『民への愛』に生きた清廉潔白な悲運の将軍様だって!?傑作すぎるだろう!」
自身の生い立ちを思い返す。
母親の狂気によって、肉体を焼かれながら育った20年。
生き延びるために母を殺し、そして、絶対的な力を手にして他者を見下すことしか知らない僕。
そんな僕の『英霊』として選ばれたのが、国に尽くし、民を想い、最後は理不尽な運命に翻弄されながらもその高潔さを失わなかった彼女だというのだ。
「まるで光と影じゃないか。僕みたいな血塗られた人間に、君のような真っ直ぐな英雄が仕えるなんて......聖杯のシステムも随分と皮肉が利いているね」
僕の嘲笑を含んだ言葉に、秦良玉の顔に明確な不快感の色が浮かんだ。
彼女の端正な顔立ちが険しくなり、その瞳が僕を真っ直ぐに射抜く。
「......マスター。ご自身の来歴にどのような悲劇があろうと、ご自身をそこまで卑下し、また私の在り方を嘲笑うことは許容しかねます」
彼女の声は静かだったが、そこには確かな芯の強さが込められていた。
「私は聖杯の導きに従い、あなたを主と認めてここに顕現しました」
彼女は一歩踏み出し、白杆の槍を床にトンと軽く突いた。
「この秦良玉、一度主と定めたからには、その身命を賭してあなたに忠義を尽くします。たとえあなたの道が血に塗れていようとも、私がその歩みを支える槍となりましょう」
一切の迷いがない、純度100%の忠義の言葉。
そのあまりにも眩しすぎる真っ直ぐな眼差しに、僕は思わず鼻で笑ってしまった。
「忠義、ね」
僕は右腕の雷光を消し、冷ややかな視線で彼女を見下ろした。
「君の生前の最後を知っているよ。君がどれだけ国に尽くしても、結局は理不尽な死を迎え、君の愛した国も滅んだ。その『無駄な忠義』を、今度は僕みたいな人間に捧げるって言うのかい?」
僕の嫌味とも言える指摘に、彼女の肩が微かに震えた。だが、彼女はすぐに顔を上げ、毅然とした態度で僕を見返した。
「過去は過去です。私は英霊として、あなたに仕えるためにここにいる。私の忠義が無駄になるかどうかは、マスター次第です」
「......ふん。言うじゃないか」
僕は彼女の強がりに少しだけ興味を惹かれ、口角を吊り上げた。
「いいだろう。君のその下らない忠義を信じよう。僕は聖杯を手に入れて、この世界を僕の足元にひれ伏させる。君は、そのための便利な道具としてせいぜい尽くしてくれ」
僕の傲慢極まりない宣言に、秦良玉は再び眉を深くひそめた。
主君に道具扱いされることへの不満と、僕の歪んだ精神性に対する哀れみが入り混じったような、複雑な表情。
「......承知いたしました。ですがマスター、道具として扱うのであれば、手入れを怠らないようにお願いいたしますよ。私は少しばかり、扱いが難しい槍ですので」
皮肉を交えた彼女の返しに、僕は小さく肩をすくめた。
「僕に合わなければ壊れるだけさ。いかに優れた槍とて、使い手にあわないなら仕方ない。まあ、長持ちすることを祈るよ」
それは半分嘘で、半分本音だった。
自分とは対極にあるようなこの清廉な英霊が、僕の道にどこまでついてこられるのか。
あるいは、僕の残虐さに耐えかねていつか反旗を翻すのか。
どちらにせよ、退屈はしなさそうだ。
「僕たちは目立たず、最後の最後で全てを掻き攫う」
僕は遠くに見える冬木の街並みを見下ろした。
「聖杯戦争。僕の覇道の最初の舞台としては、悪くない」
僕の背後で、秦良玉が静かに控えている気配を感じる。
全く異なる存在同士が結んだ、奇妙で歪な主従関係。
この冬木の地で、僕と彼女がどのような結末を迎えるのか。全く見当がつかない。
木々の隙間から差し込む朝日が、粗末な小屋の土間を白く照らし出している。
私は早朝の冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込み、手にした手拭いで額に滲んだ微かな汗を拭った。
聖杯戦争。
万能の願望機を巡る、七人の魔術師と七騎の英霊による凄惨な殺し合い。
私もまたその召喚に応じ、ランサーの英霊としてこの極東の地に降り立った。
だが、私の目前に広がる光景は、およそ『魔術師同士の血で血を洗う殺し合い』という言葉から連想されるものとはかけ離れていた。
「......今日の水は少し濁っているな。上流で獣でも暴れたか」
小屋の裏手、山肌から湧き出る細い小川の畔で、私のマスターは、素足に泥を跳ね上げながら眉間に皺を寄せていた。
彼は泥に塗れた手で、手製の罠にかかった川魚を無造作に掴み上げ、鋭い石器の代用品──自身の雷魔術で焼き切った石のナイフを用いて、手際よく魚の腹を割いている。
彼が初対面の際に放っていた、世界を焼き尽くさんばかりの傲慢さは、今はその影もない。
『僕は聖杯を手に入れて、この世界を僕の足元にひれ伏させる。君は、そのための便利な道具としてせいぜい尽くしてくれ』
あの時の薄ら笑いを浮かべた彼の顔を思い出すと、今でも私の胸の奥に微かな反感が燻るのを感じる。
忠義を軽んじ、民を想う私の生前の在り方を『無駄な忠義』と、まずはたーは一笑に付した。
私は武将として、主君の命には従う。だが、それは主君のすべてを無条件で肯定するという意味ではない。
彼のように、己の力のみを信奉し、他者を見下す独裁者のような気質は、私の最も忌み嫌うもののはずだった。
しかし。
「ランサー。突っ立っていないで火を起こして。濡れた薪は煙が出るから、奥に置いてある乾いた奴を使いなよ」
「......はい、マスター。ただいま」
魚の血を川の水で洗い流しながら、彼が指示を出す。
召喚から数日。
他陣営から身を隠し、機会を伺うという名目で始まったこの山中での潜伏生活で、私はラミエルという少年の不可解な側面に直面し続けていた。
山で野草を摘み、獣を狩り、泥まみれになりながら自給自足の生活をこなしている。
『便利な道具として扱う』と豪語していた割には、私を斥候や雑用として酷使することもない。
自身の生存に必要な作業の多くを、彼自身の手で、ひどく泥臭く行っているのだ。
「......マスター。魔術を使えば、火を起こすなど容易いことではありませんか」
私がそう尋ねると、彼は魚を串に刺しながら鼻で笑った。
「僕は雷を伴う魔術師か使えない。特別な人間には、制約がつきものなんだ」
「ほら、焼けたよ」
皿に乗せられた焼き魚が私の前に差し出される。
「私は英霊です。魔力さえ供給していただければ、食事は必要ありませんが」
「使い魔に食事もとらせない悪魔にでもするつもりか、この僕を。いいから、食べなよ」
彼はそう言い捨てると、自分も乱暴に魚にかぶりついた。
その横顔には、他者を見下す傲慢な王の影はない。
私は渡された焼き魚を見つめ、そっと口に運ぶ。
塩も振られていない、ただ火を通しただけの淡白な味。
だが、それは私が生前、兵たちと共に戦場の野営で分け合った、泥臭く生きていた頃の味がした。
(......この方は、私が思っていたような、ただの悪逆非道な魔術師ではないのかもしれない。あの時の言葉はよくありませんでしたが)
私は少しずつ、自身の内にあったマスターに対する評価を改め始めていた。
確かに口は悪く、態度は尊大だ。
だが、それだけだ。なにか悪事を企んでる様子もなければ、残虐性も見当たらない。
私という存在への接し方も、表面上は『道具』と呼びながらも、決して理不尽な扱いをしない。
むしろ、生きている人間のように扱われている。
それはかつて私が見てきた、数多の愚かな将や官僚たちよりも、よほど信頼に足る姿だった。
しかし、なぜ彼は自身の力を誇示することに執着するのだろうか。今の姿の方が、よっぽど自然に見える。
私は
その疑問の答えを、私は最も残酷な形で知ることになる。
サーヴァントとマスターは、パスを通じて繋がっている。
それは魔力の供給経路であると同時に、互いの魂の根底にある情報を共有する細い糸でもある。
それが原因で、稀に互いの過去の記憶が『夢』として流れ込んでくる現象が起きることがある。
それは、召喚から一週間が過ぎた、月が隠れた新月の夜のことだった。
「......ッ、あ......」
意識が、どろりとした暗闇の底へと引きずり込まれる。
霊体化し、小屋の片隅で待機していた私の精神に、唐突に他者の強烈な感覚がなだれ込んできたのだ。
視覚。聴覚。そして──身を灼くような、絶望的な痛覚。
『ああ......ッ!ぎ、あぁぁぁぁぁぁッ!』
私の喉から、私のものではない幼い悲鳴が上がる。
視界に広がるのは、太陽の光すら届かない、じめじめとした朽ちかけの山小屋。
冷たく汚れた木の床に、小さな体が這いつくばっている。
(これは......マスターの、記憶......!)
私は直感的に理解した。
私は今、幼き日のマスターの視界と感覚を完全に共有してしまっていると。
『立ちなさいっ!その程度で倒れるな!』
ヒステリックで、耳を劈くような女の金切り声が響く。
視界の先に立っているのは、ひどく痩せこけ、虚ろな瞳に狂気を宿した女。
彼女の指先から、青白い雷光が容赦なく放たれる。
『あ、ぐぅ......ッ!!』
凄まじい衝撃と、内側から肉体が爆ぜるような激痛が全身を駆け巡った。
皮膚が焦げ、血管が次々と焼き切れる。息を吸うことすらできず、口から血の泡が吹き零れる。
痛い。痛い。痛い。痛い。
大の大人の武将である私ですら、正気を失いそうになるほどの絶対的な苦痛。
これが、幼い子供に与えられるべきものなのか。
『お前はバルトメロイを討つための私の刃なのだから!もっと、もっと強くなりなさい!』
女──恐らくマスターの母親は、倒れ伏す我が子に慈愛の目を向けることは一切なかった。
彼女の瞳に、幼き日のマスターは映っていない。
『お母、様......ごめんなさい......もう、やめて......』
幼いラミエルが、血まみれの手を伸ばして懇願する。
母親に愛されたい。優しく抱きしめられたい。ただ、その一心で。
しかし、その小さな手は、凄まじい平手打ちによって無惨に弾き飛ばされた。
『触るな!血の繋がった息子とは思えないくらい、顔を見ると腹が立つ!』
その言葉の刃は、雷魔術よりも深く、鋭く、幼い少年の心を切り裂いた。
弱者の命に価値はない。
お前は至高の魔術師に、他者を平然と踏みにじる絶対的な強者にならなければならない。
狂乱の暴言と、命を削るような虐待的な魔術指導。
壊しては直し、直しては壊す。人間としての感情や、痛みに対する恐怖すらも麻痺していく果てしない地獄。
(やめて......!もう、やめてあげて......!)
私は夢の中で、声にならない叫びを上げていた。
将として、兵を率いて数多の戦場を駆け抜けた私にも、命を奪うことの残酷さは分かっている。
そして、母として、息子の馬祥麟を育て上げた私には......子供に向けられるこの理不尽な悪意が、どれほど魂を殺す行為であるかが、痛いほどに理解できた。
子供は、親の愛を糧にして育つ。
それなのに、この少年にはそれがない。
世界で一番愛してほしかった人に、ただひたすらに存在を否定され、壊され続けてきた。
『弱者は強者に蹂躙されるためだけに存在する』
その教えを考えの根本にしなければ、そう思い込まなければ、彼は自身の存在意義を保つことすらできなかったのだ。
母を殺し、世界を恨み、絶対的な力を手に入れて他者を見下す。
あの傲慢な態度は、狂気に塗れた悪意などではない。
これ以上、誰にも自分を傷つけさせないための......ただの、ひどく脆くて悲しい『鎧』だったのだ。
「......はっ!」
私は弾かれたように目を覚ました。英霊だから睡眠を取る必要はないはずなのに。
小屋の隙間から、青白い月明かりが差し込んでいる。
全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、呼吸は荒く乱れていた。自身の頬に触れると、冷たい涙の感触があった。
私は霊体化を解き、静かに立ち上がる。
音を立てずに小屋の奥へと歩み寄ると、そこには古びた毛布にくるまり、静かな寝息を立てているマスターの姿があった。
その寝顔は、日中の尊大で人を食ったような態度からは想像もつかないほど、無防備で、そしてあどけない。
時折、彼の眉間が微かにひそめられ、小さな呻き声が漏れる。
今もまだ、彼は夢の中で、あの凄惨な過去と戦い続けているのだろうか。
「......マスター」
私は彼の枕元に膝をつき、そっと手を伸ばした。
そして、額にかかった前髪を、指先で優しく払いのける。
その額は冷たく、酷い汗をかいていた。
「あなたは......なんて、不器用で、哀しいお方なのでしょう」
私の中にあった、彼への反感や疑念は、とうの昔に綺麗に消え去っていた。
代わりに胸を満たしているのは、激しい怒りと、それ以上に深く、温かい感情だった。
この傷だらけの少年を、何としてでも護り抜きたいという強い決意。
私は生前、明という国に忠義を尽くした。
国家を護り、民を護る。それが私の誇りであり、生き様だった。
だが、あの戦乱の時代、私の忠義は結局のところ、国を救うには至らなかった。理不尽な運命の前に、多くのものを失った。
だからこそ。
「私は、あなたの槍となります」
私は寝眠るマスターに向かって、誰に聞かせるでもなく、静かに誓いを立てた。
血塗られた覇道を歩むというのなら、私がその先陣を切る。
マスターが二度と、あのような理不尽によって蹂躙されることのないように。
そして......あなたのその震える心が、いつか本当の平穏を取り戻せる日が来るように。
私は彼を、傲慢で冷酷な主だとは思わない。
彼は、私の護るべき大切な『主君』であり......そして、どこか放っておけない、一人の傷ついた少年に過ぎないのだから。
マスターが目を覚ました。
「.......邪魔だから、下がりなよ。それとも、僕の言うことを聞けないと?死にたいのかな」
その尊大な態度の裏に隠された、不器用な自己防衛の壁を、私はもう知っている。
「......はい、マスター。おはようございます」
私は槍を手に取り、静かに微笑んで立ち上がり下がった。
「なんだその顔は。気味が悪いな」
私が微笑んだのを見て、マスターは胡散臭そうに顔をしかめる。
「いえ、何でもありません。ただ......今日の天気は良いなと、そう思っただけです」
「......ふん。下らない。天気が良かろうが悪かろうが、僕たちがやることは変わらない。ただ、大人しく他陣営が潰し合うのを待てばいい」
彼はそっぽを向き、小屋の外へと歩き出す。
その背中は、やはり私の目には少しだけ小さく、孤独に見えた。
「マスター」
私が呼びかけると、彼は面倒くさそうに振り返った。
「なんだよ」
「お任せください。この秦良玉、あなたの覇道のために、この命を賭して戦い抜く覚悟です。たとえ相手がどのような英雄であろうと、必ずやあなたに勝利を捧げましょう」
私が深く頭を下げ、かつてないほどの真剣な声でそう告げると、ラミエルは少しだけ驚いたように目を丸くした。
「......随分と手のひらを返すのが早いね。ああ、確かに扱いにくい槍だ」
彼は呆れたようにため息をついたが、その口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
それは、他者を嘲笑うような歪んだ笑みではなく、不器用ながらも私の言葉を受け入れた、確かな信頼の証だった。
「言ったはずだ、僕は使える道具を無駄にはしない。君がその忠義を証明するというなら、せいぜい僕の期待に応えてくれればいい」
「はい、喜んで」
私の心に迷いはない。私の主は、血塗られた過去を背負い、世界を手に入れんとする王。
そして私は、マスターを支える唯一の矛であり、盾でもある。
マスターの歩む道が、ただの破滅と孤独で終わることがないように。いつか、自分のことを愛せるように。
秦良玉
東洋の英霊が召喚されないってるのは、わかってるんだけどさぁぁぁあっ!