秦良玉の態度は、僕の予想を静かに、しかし確実に裏切り続けていた。
彼女は反旗を翻すどころか、僕を嘲笑うことも、蔑むこともなかった。
僕がどれほど傲慢に振る舞い、他者を踏みにじる覇道を語ろうとも、彼女はただ静かに微笑む。
『私がその歩みを支える槍となりましょう』
その清廉潔白な忠義の言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。
なぜ、これほどまでに真っ直ぐでいられるのか。
なぜ、僕のような血に塗れた人間に、そんな純粋な忠誠を向けられるのか。
ある日の夜。
粗末な毛布にくるまり、深い眠りに落ちた僕の意識は、唐突にどろりとした暗闇の底へと引きずり込まれた。
それは、英霊とマスターを繋ぐ魔力供給のパスを逆流して流れ込んできた、彼女の生前の『記憶』だった。
「......ッ」
気付けば、僕は見知らぬ場所に立っていた。
視界を覆い尽くすのは、どんよりと濁った灰色の空と、見渡す限り続く荒涼とした大地。
鼻腔を突くのは、土埃と、そしてひどく生々しい血の匂いだった。
(ここは......どこだ......?)
周囲を見渡そうとした僕の意志とは無関係に、視界が勝手に動く。
僕の視線は、自身の手に握られた槍へと向けられていた。
白木で作られた長い柄の先端に、鋭い刃。
白杆の槍。
そのずっしりとした重みと、手のひらに伝わる木の感触が、あまりにもリアルだった。
(......そうか。これは、彼女の......秦良玉の記憶か)
僕は瞬時に状況を理解した。
英霊とマスターは、夢を通じて互いの過去を垣間見ることがあるという話は、時計塔の知識として知っていた。
だが、これほどまでに鮮明に、他者の五感をそのまま乗っ取られるような感覚は初めてだった。
『進め!一歩も引くではない!我ら白杆兵の誇りを、今こそ天下に示せ!』
僕の喉から、凛とした、それでいて戦場の空気を切り裂くような力強い叫び声が上がる。
それに呼応するように、背後に控えていた無数の兵士たちが、地鳴りのような鬨の声を上げて突撃を開始した。
そこから始まったのは、果てしなく続く殺戮と闘争の追体験だった。
明末期という、国が内側から腐り落ち、外からは異民族の脅威に晒されていた激動の時代。
僕は秦良玉の視覚と感覚を通して、その地獄のような戦場を何十回、何百回と駆け抜けた。
彼女の振るう白杆の槍は、敵の騎馬の脚を刈り、鎧の隙間を的確に貫き、血飛沫を上げていく。
その武は、恐ろしいまでに洗練されていた。
魔術や神秘など一切持たない、ただの人間の肉体と技術だけで到達した極致。
僕は彼女の肉体を通して、敵の骨を砕く感触、返り血の生温かさ、そして限界を超えて酷使される筋肉の悲鳴を、我が事のように味わい続けた。
痛い。苦しい。休みたい。
幾度となく身体が悲鳴を上げ、倒れそうになる。
だが、彼女は決して膝を屈しなかった。
『私が倒れれば、この国が、民が踏みにじられる......!』
その強靭な意志だけが、ボロボロになった肉体を無理やり動かしている。
僕は彼女の心の中にある、その『国への忠義』と『民への愛』という感情のうねりを、ダイレクトに感じ取っていた。
それは、僕のような自分自身の力を誇示するためだけの闘争とは、根本的に異なるものだった。
他者のために、己の命を削る。
自己犠牲という名の、あまりにも愚かで、非効率的な生き方。
(なぜ......なぜ、そこまでして戦う......!)
僕は夢の中で、声にならない疑問を叫び続けていた。
彼女の戦いは、決して報われるものではなかったからだ。
場面が切り替わる。
冷たく薄暗い、石造りの牢獄。
鉄格子の向こう側で、血まみれになって横たわっている一人の男の姿があった。
馬千乗。彼女の夫であり、共に白杆兵を率いた愛する人。
彼は国の反乱を鎮圧するという多大な功績を上げながらも、賄賂を要求する腐敗した宦官の嘘の報告によって謀反の罪を着せられ、この牢獄で非業の死を遂げる。
『あなた......ああ、あなた......ッ』
僕の胸の奥底から、胸が張り裂けるような、狂おしいほどの悲しみと絶望が込み上げてきた。
それは秦良玉の感情だった。
愛する者を、国の中枢に巣食う汚い豚どもの欲望のために理不尽に奪われた。
(怒れ!復讐しろっ!)
僕は彼女の感情に同調しながら、心の底から呪詛を吐き出した。
(君が命を懸けて守ってきた国が、君の愛する人間を殺したんだ!こんな国、こんな世界、憎んで当然だろう!)
僕が母親によって理不尽な虐待を受け、世界を憎み、絶対的な力を求めたように。
彼女もまた、この残酷な世界に絶望し、復讐の鬼と化すべきだ。
国を焼き滅ぼし、豚どもを皆殺しにして、世界を自分の足元にひれ伏させる。
それが、理不尽に蹂躙された弱者が選ぶべき、唯一の正解のはずだ。それが、強者になるための唯一の道のはずだ。
しかし。
『......私あなたの遺志は、私が必ず......』
彼女は、血の涙を流しながらも、決して世界を呪わなかった。
夫の冷たくなった骸を前にして、彼女は復讐ではなく、彼が護ろうとした『国と民』を、自身が引き継ぐことを誓ったのだ。
(ふざけるな......!なんだそれは!馬鹿じゃないのか!)
僕の理解を超えた彼女の選択に、激しい拒絶反応を示した。
だが、夢は容赦なく続いていく。
夫の死後、彼女は女性でありながら正式に軍の指揮権を引き継ぎ、再び地獄のような戦場へと身を投じていった。
そんな彼女を待ち受けていたのは、さらなる理不尽と悲劇の連続だった。
後金との壮絶な戦い。
渾河の戦いと呼ばれるその死闘で、彼女は愛する兄弟たちを次々と失った。
圧倒的な数の敵兵に囲まれ、矢を浴びて倒れていく兄や弟の姿。
『兄上!弟よ......ッ!』
その度に、彼女の心は千々に切り裂かれ、血を流した。
それでも、明の朝廷は彼女たちに十分な支援を行うことはなかった。
腐敗しきった高官たちは己の保身に走り、前線で命を懸ける彼女たちに兵糧すらまともに送ってこなかったのだ。
飢えと寒さに苦しむ兵士たち。
彼女は自らの財産を売り払い、髪を切り、文字通り身を削って軍を維持し続けた。
(どうして......なぜそこまで国に尽くす!)
僕は彼女の絶望的なまでの徒労を味わいながら、何度も何度も心の中で問い詰めた。
(君の忠義なんて、誰も見ていない!誰も感謝なんてしていない!利用して、使い潰そうとしているだけだ!)
反乱軍の首魁、張献忠の軍勢との果てしない戦い。
四川の地を血で染め上げる凄惨な殺し合いの中で、彼女は少しずつ、確実にすべてを失っていった。
兵を失い、家族を失い、そして最後には......彼女が命を懸けて護ろうとした明という国そのものが、内部からの崩壊によって滅亡してしまった。
すべてが無駄だったのだ。
彼女の流した血も、涙も、捧げた忠義も。
歴史という巨大な奔流の前に、彼女の人生はあまりにも無力で、残酷な結末を迎えた。
場面は再び切り替わり、静かな夕暮れの風景が広がった。
すでに多くの白髪が混じった彼女が、夕日に染まる四川の山並みを静かに見つめている。
明は滅び、清の支配が始まろうとしている時代。
彼女は結局、最後まで清に降伏することはなかった。
その胸中にあるのは、後悔でも、憎悪でも、絶望でもなかった。
『......私は、私の信じるもののために戦い抜きました。後悔は、ありません』
澄み切った秋の空のように、彼女の魂には一切の淀みがなかった。
どれほど理不尽に奪われようと、どれほど裏切られようと、彼女は自身の中にある『忠義』を、最後まで手放さなかったのだ。
その圧倒的なまでの精神の気高さ。
泥に塗れ、血を流し、すべてを失いながらも、決して世界を呪うことのなかった一人の人間の姿。
(............あぁ)
その時、僕はようやく理解した。
彼女は、愚かだったわけではない。
現実から目を背けていたわけでもない。
彼女はただ、僕なんかよりもずっと、ずっと『強かった』のだ。
理不尽な暴力に屈し、世界を憎むことでしか自分を保てなかった僕とは違う。
彼女は、その理不尽をすべて受け止めた上で、それでも他者を愛し、護ることを選べるだけの、高潔な魂を持っていたのだ。
『私がその歩みを支える槍となりましょう』
彼女が僕に向けたあの言葉が、再び脳裏に蘇る。
あの真っ直ぐな瞳は、僕の内心を全て読み取っていたのかもしれない。
だからこそ、彼女は僕を否定しなかった。
かつての彼女が、滅びゆく国を最後まで見捨てなかったように。
「............はっ!」
僕は、弾かれたように目を覚ました。
山小屋の隙間から、白々と夜明けの光が差し込んでいる。
全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、荒い呼吸を繰り返すたびに、肺がひゅうひゅうと鳴った。
そして、自身の頬を冷たいものが伝い落ちていることに気付く。
「......なんだ、これは」
僕は震える手で頬に触れた。
涙だった。
悲しかったわけではない。
ただ、彼女のそのあまりにも気高く、美しく、そして哀しい人生を追体験したことで、無意識のうちに涙が溢れ出していたのだ。
「......くそっ」
涙を拭い去り、ゆっくりと身を起こし、そのまま小屋から外へと出た。
朝の冷たい空気が、火照った身体を心地よく冷やしていく。
「......マスター。おはようございます」
小屋のすぐ外で、静かに焚き火をしていた秦良玉が、僕に気付いて立ち上がった。
その表情はいつも通り、穏やかで凛としている。
僕が彼女の凄惨な過去を夢に見たことなど、微塵も察していない。
「......君は、本当に馬鹿だね」
僕は焚き火の前に腰を下ろし、炎の揺らめきを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「はい?急にどうなされたのですか?」
彼女は小首を傾げ、不思議そうに僕を見る。
その姿は、夢の中で血まみれになって戦っていた女将軍と同一人物とは思えないほど、静かで、落ち着いていた。
「......見たんだ。君の生前を」
僕の言葉に、彼女の目がわずかに見開かれた。
だが、そこに羞恥や怒りの色はない。
「......そうですか。見苦しいものをお見せしてしまい、申し訳ありません」
彼女は小さく頭を下げた。
「見苦しいものか。本当にそう思うよ。夫を殺され、家族を奪われ、国に裏切られ......それでも君は、最後まで国のために槍を振るった。頭がおかしいんじゃないのか?」
僕はわざと冷たい言葉をぶつけた。
彼女の生き方を否定しなければ、僕自身のこれまでの生き方が、根本から崩れ去ってしまうような恐怖があったからだ。
「ええ。そうかもしれませんね」
だが、彼女は反論するどころか、僕の言葉を優しく肯定した。
「ですが、マスター。私は、あれで良かったのだと思っています。私が護りたかったのは、国の上層部にいる権力者たちではなく、その土地で生きる民草の笑顔でしたから」
彼女は焚き火に薪を一本くべながら、穏やかな口調で続ける。
「どれほど理不尽な目に遭おうとも、私が誰かを恨み、憎しみに囚われてしまえば、私の信じた『正しさ』までが失われてしまう。それだけは、決して手放したくはなかったのです」
その言葉は、刃のように僕の胸に突き刺さった。
憎しみに囚われ、世界を呪うことでしか自分を保てなかった僕。
己の弱さを隠すために絶対的な力を求め、他者を見下すことで自己を正当化してきた僕。
彼女の生き方は、僕を否定していた。
「......ふざけるな」
僕はギリッと奥歯を噛み締め、右腕に青白い雷光を走らせた。
バチッ、バチバチッ!
周囲の空気が焦げ、殺気が膨れ上がる。
だが、彼女は逃げることも、槍を構えることもしなかった。
ただ、僕のその威嚇を、慈愛に満ちた瞳で静かに見つめ返しているだけだ。
「君のその生き方が正しいと言うのなら、僕の生き方はどうなる!母を憎み、自分を正当化するために世界を統べようとする僕は、間違っているとでも言うつもりか!」
僕は声を荒らげた。
それは怒りではなく、どこにもぶつけようのない叫びだったのかもしれない。
「いいえ。間違ってなどいませんよ、マスター」
彼女は静かに立ち上がり、僕の目の前まで歩み寄ると、その両手で、僕の雷光を放つ右手をそっと包み込んだ。
「......ッ!何をする!火傷をするぞ!」
神代の魔力を宿す僕の腕は、常人が触れれば瞬時に炭化してしまうほどの危険な代物だ。英霊といえど、タダではすまない。
だが、彼女はその痛みに耐えながら、決して僕の手を離そうとはしなかった。
「マスター。あなたがこれまでに受けてきた痛み、悲しみ、そして世界に対する怒り。それは、決して間違ったものではありません。あなたが生き延びるために、必要だった『強さ』です」
彼女の手のひらから、確かな熱と、優しさが伝わってくる。
「ですが......もう、大丈夫です」
彼女は僕の目を見つめ、静かに微笑んだ。
「私がいます。私が、あなたの矛となり、盾となりましょう。あなたの抱えるその重い鎧を、少しでも軽くできるように」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
圧倒的なまでの包容力と忠義。
僕は、自身の右腕から放たれていた雷光が、少しずつ弱まり、やがて完全に消え去っていくのを感じていた。
「......君は、本当に底抜けのお人好しだな。僕みたいな人間に、そんな無駄な忠義を誓うなんて」
僕は顔を背け、震える声でそう吐き捨てるのが精一杯だった。
「無駄かどうかは、これからのマスターの覇道次第ですよ」
彼女は悪戯っぽく微笑み、僕の手からそっと手を離した。
「さあ、朝食にしましょう。今日は、私が腕によりをかけて山菜の汁物を作りました。少しは胃を休めないと、これからの戦いに響きますからね」
彼女はそう言い、戻っていく。
僕はその背中を見つめながら、自身の胸の奥底で、何かが静かに、しかし確実に溶け出していくのを感じていた。
世界を呪い、他者を踏みにじることしか知らなかった僕の魂。
そこに、秦良玉という清廉な光が差し込んだことで、僕は初めて、自分自身と向き合うための足場を得たのだ。
「......言っておくけど、僕は君の前の主たちみたいに無能じゃない。君を便利な道具として使い潰す気もない」
僕は彼女の背中に向かって、精一杯に取り繕った声で告げた。
「僕は王になる。聖杯を手に入れて、僕の力を世界に証明する。君は、そのための最強の槍として、僕の隣で最後まで戦い抜け......死ぬことなんて、僕が絶対に許さないからな」
それは、僕なりの彼女に対する誓いであり、敬意の表れだった。
僕の言葉を聞いた彼女は、振り返ることなく、しかしはっきりと聞こえる声で答えた。
「......はい。我が主。この秦良玉、命の限り、あなたの覇道にお供いたします」
その声には、強い決意が込められていた。
僕は自分のためだけに戦うのではない。
この、お人好しで不器用な忠義の槍の生き様を、この世界に肯定させるためにも勝つ必要がある。
ああ、君で2人目だよ。恐れ多くも、この僕を受け入れた人間は。
「......そろそろ、冬木の街に降りてみるか」
聖杯戦争は既に始まっているだろうか。参加者たちは戦っているだろうか。そんなことを考えながら、僕は1歩踏み出した。
そう思い、冬木の街に降りたわけだけど──早々に囲まれている。警察に。
山を降りてアスファルトを踏みしめ、人気のある市街地へと足を踏み入れた途端、遠くからけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
それも1つや2つではない。四方八方から押し寄せるパトカーが、瞬く間に僕たちの行く手を遮り、退路を断ったのだ。
数十台のパトカーが乱暴に横付けされ、ドアを盾にするようにして重武装の警察官たちが次々と飛び出してくる。
彼らの手には黒光りする拳銃が握られており、その銃口のすべてが、中心に立つ僕へと向けられていた。
「マスター、下がってください」
横を歩いていた秦良玉が、瞬時に僕の前に立ち塞がった。
手には白杆の長槍が握られ、その切っ先は周囲を取り囲む警察官たちを牽制している。
「無駄な抵抗はやめるんだ!少しでも動けば撃つ!我々には発砲許可がでている!」
拡声器を通した警察官の怒声が、冬木の冷たい空気を震わせた。
彼らの顔には極度の緊張と、明らかな恐怖が張り付いている。無理もない。
彼らにとって僕は、テレビ局のスタジオを占拠し、特殊部隊を瞬く間に消し炭にした得体の知れない怪物なのだから。
僕はその怒声を聞いて、ひどく間の抜けた疑問を抱いていた。
「質問なんだけど、僕はなんの罪で捕まるのかな?そもそも、指名手配はされてないんじゃないの?」
僕は首を傾げ、純粋な疑問を口にした。
そう、葛木宗一郎は確かにこう言っていたのだ。
『警察はお前を指名手配しなかったから、犯罪者ではない』と。
テレビ局での惨劇において、僕がどのような手法を用いたのか、常人である警察機構に証明できるはずがない。
証拠不十分、あるいは超常現象として処理され、少なくとも公に指名手配されることはないのだろうと、僕はその言葉を鵜呑みにしていた。
「何を言っている!テレビ塔を占拠したその日のうちに、既に全国へ特別指名手配済みだ!」
拡声器を持った男が、僕の言葉を嘲笑うように、あるいは僕の正気を疑うように叫び返した。
その言葉が耳に届いた瞬間。
僕は、数秒間だけ完全に思考を停止させ、そして──次の瞬間、腹の底から湧き上がる衝動を抑えきれずに吹き出した。
「──ハッ、ハハハハハッ!これは笑える!」
静まり返った包囲網の中に、僕の狂ったような笑い声が響き渡る。
警察官たちがビクッと肩を震わせ、銃口を微かに揺らした。
秦良玉でさえも、背後で突然爆笑し始めた僕を怪訝そうに振り返っている。
「......そうか、君は──空っぽじゃなかったのか」
僕は天を仰ぎ、誰に届くでもない言葉を呟いた。
葛木宗一郎。あの、感情の欠落した機械のような男。
彼は僕を匿う理由について『客だからだ』とだけ言い張り、僕が過去に何をしようと興味はないと告げていた。
だが、彼は知っていたのだ。僕が全国に指名手配され、警察が血眼になって追っている凶悪犯であることを。
知っていながら、彼は僕に『指名手配はされていない』と嘘をついた。
それは、僕が不要な警戒心を抱いて寺を飛び出さないようにするためか。
あるいは、僕に一時的な平穏を与え、傷を癒やすための彼なりの不器用な優しさだったのか。
わざわざ僕にこんな嘘をつくなんて。君が生きていたのなら、小一時間ほど胸ぐらを掴んで問い詰めていただろうに。
『私は嘘を吐かない』と真顔で言っていたくせに、とんだ大嘘つきじゃないか。
その矛盾が、そのひどく人間らしい綻びが、嬉しいような面白いような気持ちになり笑ってしまった。
警察は突然笑い出した僕をさらに危険視したのか、全員が拳銃の撃鉄を起こし、じりじりと包囲の輪を縮めてきた。
さて、いつまでそんな態度を取るつもりかな。
「告げる。今すぐに僕の目の前から消えるのなら、命は見逃そう。なおもこの場に残るのなら──後悔する間もなく死ぬと心得た方がいい」
僕は笑いを収め、彼らに通告した。
これは最後の慈悲だ。いつでも周囲の空間ごと彼らを焼き尽くす準備ができている。
「ふざけるな!全員、構えろ!」
しかし、僕の警告は彼らの恐怖を煽るだけで、退かせる効果はなかった。
指揮官らしき男が号令を下し、数十もの銃口が僕の全身を正確に捉える。
......仕方ない。全員、ここで消し炭にしてやる
僕は右腕を振り上げ、雷魔術を行使しようとした。
だが、その瞬間。僕の視界の端に、僕を庇うように立ち塞がる秦良玉の白く華奢な背中が映り込んだ。
『私が護りたかったのは、国の上層部にいる権力者たちではなく、その土地で生きる民草の笑顔でしたから』
彼女の言葉が、脳裏を掠める。
そして同時に、逆らう者を残虐な手段で虐殺し尽くした反乱軍の首魁、張献忠の所業がフラッシュバックした。
(......もし今、僕がここでこの警察官たちを皆殺しにすれば)
それは、彼女が命を懸けて抗い続けた、あの張献忠と同じになるのではないか。
弱者は強者によって蹂躙される存在。それは母から叩き込まれた弱肉強食の理だった。
「......マスター?」
僕の魔力が急激に萎んでいくのを感じ取ったのか、秦良玉がわずかに振り返る。
僕は雷魔術の威力を精密に調節した。
かつて薪割りに失敗し、裏庭にクレーターを作ってしまった時とは違う。
今の僕の魂は、あの日よりもずっと深く、研ぎ澄まされている。
「
僕の指先から、数十本の極細の青白い雷光が、まるで意思を持った蛇のように放たれた。
「撃てぇっ!」
警察官たちが引き金を引こうとした、まさにその刹那。
雷光は彼らの放つ銃弾よりも早く空間を駆け抜け、警察官全員の『銃を構える右腕』の手首から先だけを、寸分の狂いもなく正確に撃ち抜いた。
「ぎ、ああああああっ!?」
「な、なんだ!?腕が......!」
凄惨な悲鳴が連鎖的に上がり、銃火器がガラガラとアスファルトに転がり落ちる。
僕は彼らの命を奪わなかった。
手首を吹き飛ばすと同時に、雷の超高熱によって傷口の断面を瞬時に炭化させ、止血処置まで施した。
失血死すらさせない、完璧な無力化。
「ひっ......化物......!」
片手を失い、恐怖と激痛でパニックに陥った警察官たちは、もはや包囲を維持することすらできず、次々とその場にへたり込み、あるいは無様な姿で後ずさっていく。
僕はその光景を冷ややかに見下ろしながら、小さく息を吐き出した。
「......せっかくだ、少し遊んでいこうか」
僕はパチパチと余熱を帯びる右手の指先を振り、前に立つ秦良玉へ向かって軽い調子で声をかけた。
「......マスター」
秦良玉は、周囲でうずくまる警察官たちと、僕の横顔を交互に見つめ、信じられないものを見るように目を見開いていた。
「なにかな。手ぬるいとでも言うのかい?」
「いいえ。そうではありません」
彼女はゆっくりと首を振り、そして、白杆の槍を握る手を緩めて僕に向かって深く、本当に深く頭を下げた。
「マスター......彼らの命を、奪わなかったのですね。無用な殺生を避けるその御心......この秦良玉、感服いたしました」
彼女の声には、確かな敬意と、震えるような喜びが滲んでいた。
僕が彼女の戦った暴君とは違う道を選んだことが、そんなに嬉しいのか。
「殺す価値もない有象無象に、いちいち魔力を割くのが馬鹿らしかっただけだから」
僕は顔を背け、そう言い捨てた。
「ふふ......はい。そういうことにしておきましょう」
彼女は僕の心を見透かしたように、口元に柔らかな笑みを浮かべている。
「さて、と」
僕はポケットから、大金の入った封筒を取り出した。
葛木宗一郎の遺品だ。彼の簡素な葬儀を終えた後、寺の部屋を片付けていた際に見つけたものだった。
教師としての薄給の中から何を思ってこれほどの現金を貯め込んでいたのかは分からない。
でも、今の僕たちにとってはありがたい活動資金だ。
「さあ、行こうか。君にも現代の娯楽ってやつを教えてあげるよ」
僕は封筒をポケットにしまい直し、警察官たちが呻き声を上げる包囲網の隙間を抜け、堂々と歩き出した。
「現代の娯楽、ですか?それは......兵法や武術の鍛錬のようなものでしょうか」
秦良玉は槍を消散させ、小走りで僕の横に並びながら不思議そうに首を傾げた。
「似ても似つかない。平和な遊びさ」
僕たちが歩みを進める上空では、いつの間にか数機の報道ヘリがけたたましいローター音を響かせて旋回していた。
さらに、僕たちから数十メートルほど離れた安全圏には、防弾チョッキを着込んだテレビ局のカメラマンや記者たちが、恐る恐るこちらにカメラを向けているのが見える。
大量殺戮の容疑者である僕が、なぜか中華装束の女を連れて白昼堂々街を歩いている。
彼らにとっては最高のスクープ映像だろう。
「マスター。あのように監視されたままでよろしいのですか?他陣営にこちらの動向が筒抜けになりますが」
「構わない。むしろ都合がいい」
僕はカメラのレンズに向かって、不敵な笑みを向ける。
「一般人の注目が集まっている状態では、他のマスター達は僕たちを襲うことはできない」
なぜなら、魔術は秘匿しなければならないから。衆目の中で魔術を行使するのであれば、それは僕と同じく──時計塔に宣戦布告するに等しい所行だ。
「どこに向かうのですか?」
「着けばわかる」
目指す場所は、繁華街にある大型のゲームセンターだ。
実は僕自身も、ゲームセンターに入るのは初めてだ。
やがて僕たちは、大音量の電子音が外まで漏れ出している巨大な建物の前に到着した。
「......マスター。ここは.....?凄まじい光と音が交錯しておりますが」
自動ドアを抜け、店内に足を踏み入れた瞬間、秦良玉は緊張した面持ちで周囲を見回した。
ずらりと並んだアーケード筐体、ピカピカと光るUFOキャッチャー、そして奥から聞こえてくるリズムゲームの重低音。
「違うよ。ここはただの遊び場だ。まあ、一般人からすれば金を搾り取られる魔術工房みたいなものかもしれないけどね」
僕は両替機に札を入れ、ジャラジャラと吐き出された百円玉の束を手に取った。
「まずは......あれからやってみようか」
僕が指差したのは、巨大な画面とカラフルなボタンが並ぶ、最新式のリズムゲームだった。
画面の上から流れてくるノーツに合わせて、タイミング良くボタンを叩くという単純なルールだ。
「君からやるといい、ランサー」
僕は筐体に硬貨を投入し、秦良玉を画面の前に立たせた。
「は、はい......この流れてくる光の印に合わせて、手元の板を叩けばよろしいのですね?」
彼女は少し戸惑いながらも、真剣な表情で画面を見つめ、両手を構えた。
曲がスタートし、激しい電子音と共に、無数のノーツが滝のように落ちてくる。まあ、最高難易度を選んだからね。
「ッ......!」
秦良玉の瞳が、スッと細められた。
次の瞬間、彼女の両手がブレた。
タタタタタタタタタッ!
常人の目には追えないほどの速度で流れてくるノーツを、彼女は一切の無駄のない動きで、完璧なタイミングで叩き落としていく。
「マスター、これは酷く簡単な遊戯なのですね」
「......ああ、そうだろうとも」
僕は呆れ半分、感心半分で彼女の神業を見つめていた。
英霊としての身体能力と、戦場で培われた異常な動体視力。
それがリズムゲームという平和な娯楽に全振りされた結果、画面には『PERFECT』の文字が表示され続けている。
周囲にいた数人のゲーマーたちが、中華装束の美女の人間離れしたプレイに口を開けて立ち尽くしている。その後は、拍手喝采ってね。
「ふふっ、いかがでしたかマスター。少しは私の有用性を証明できたでしょうか」
「馬鹿言え。ゲームで役に立っても意味がないだろう」
僕は悪態をつきながらも、次に隣の筐体にコインを入れた。
「次は僕の番だ。見てるといい、僕がフルコンボを出すところを」
僕は意気揚々とボタンに手を置いた。
だが、結果は惨憺たるものだった。
「ああっ、くそ!なんで右のボタンを叩いたのに左が反応するんだ!壊れてるんじゃないか!?」
「マスター、肩に力が入りすぎております。もっと丹田に気を沈め、敵の呼吸を読むように......」
「ゲームに丹田なんて関係ない!そもそも、」
僕はイライラしながらボタンを乱打し、あえなくロースコアが表示されている。
「......ふふっ」
隣で、秦良玉が小さく吹き出す音が聞こえた。
「笑うな。これは台の調整がおかしいんだ」
「はい、そういうことにしておきましょう。マスターはこういった遊戯は少し苦手なようですね」
彼女は僕の負け惜しみを優しく受け流し、楽しそうに笑っている。
その後も、僕たちは様々なゲームを回った。
格闘ゲームでは、僕が適当にレバーをガチャガチャと動かして放った必殺技が偶然決まり、秦良玉の操るキャラクターを倒して大人気なく喜んだ。
クレーンゲームでは、ガラスケースの中に山積みになっている丸くて愛嬌のあるぬいぐるみを狙った。
「マスター、あの布の塊......なんとも言えない愛嬌がありますね」
「欲しいのかい?いいよ、僕が取ってあげよう」
アームの角度と降下位置を完璧に計算してボタンを押した。
しかし、アームはぬいぐるみを持ち上げた直後、絶妙な弱さで開き、景品は無残にも元の場所へ転がり落ちてしまった。
「な......計算は完璧だったはず!なんで落ちたんだ!」
「マスター、この機械には恐らく罠が仕掛けられています。持ち上げる力が途中で抜ける仕様なのでしょう。ここは私が」
秦良玉が交代し、アームの揺れを利用してぬいぐるみを少しずつ出口へズラしていくという方法を用いて、見事にぬいぐるみをゲットしてみせた。
「やりました、マスター」
彼女は両手でぬいぐるみを抱え、本当に嬉しそうに微笑んだ。
その姿は、凄惨な戦場を駆け抜けた女将軍でもなく、英霊でもなく、ただの年相応の女性のように見えた。
「......君は本当に、妙なところで器用だね」
僕は少しだけ拗ねたように言いながら、ジュースの自動販売機で冷たい缶を2つ買った。断じて拗ねてはいないけど。
ゲームセンターの入り口付近にあるベンチに腰を下ろし、僕たちは冷たいジュースを飲みながら、店内の極彩色の光を眺めていた。
ガラス張りの入り口の向こう側では、相変わらず報道陣が遠巻きにこちらを撮影している。
大量虐殺の指名手配犯が、警察の包囲を無力化し、その足でゲームセンターに乗り込んでゲームで遊んでいる。
彼らの目には、僕の行動が狂人の予測不能な奇行にしか映っていないだろう。
僕には、こんな普通の若者が楽しむような日常の娯楽は一切与えられなかった。だからなのか、この時間がとても楽しく感じる。
もしかしたら、僕は少し変わってきたのかもしれない。
葛木宗一郎が残してくれた資金と、彼のおかげで芽生えた微かな人間らしさ。
そして、隣でぬいぐるみを抱きしめながら、ジュースの甘さに目を細めている不器用な忠臣。
「......悪くないな」
僕はぽつりと呟いた。
「はい?何か仰いましたか?」
「別に。少しは息抜きができたと言っただけだよ」
僕は立ち上がり、空になった缶をゴミ箱に放り投げた。
「さあ、行くよ。十分遊んだし、そろそろどこかのホテルをとろうか」
「はい、マスター」
秦良玉も立ち上がり、僕の斜め後ろにピタリと追従する。
外に出ると、夕暮れが冬木の街を赤く染め始めていた。
遠くから、再びパトカーのサイレンが微かに聞こえてくるが、もはや僕たちの歩みを止めるような真似はしない。
秦良玉
次回から聖杯戦争に本格的に入っていきます。