理想郷でぬくぬく生活〜将来安泰の快適ライフ〜 作:新紀元史
1話
第1章:鳥籠の中の模範生
管理都市アウレア・クナブラに関するレポート
1. 厄災の霧と、失われた世界
私たちが生きているこの世界の歴史は、およそ三百年前を境に二つに分かれている。
かつて文明の絶頂にあった人類は、突如として訪れた「大破局」によってその生存圏を大きく狭めることになった。その原因は、世界を覆い尽くした「厄災の霧」だ。
地平の果てから突如として噴き出したその紫色の澱みは、エネルギーの濁流であり、ひとたび吸い込めば生身の人間など一瞬で肉体を侵され、身体が結晶化して死に至る。
なぜそれが発生したのか、その発端や詳しい原理を記した正確な記録は、いまやどこにも残っていないとされている。
ただ一つ分かっているのは、外の世界は人間が生存できる環境を失い、死の荒野と化しているという厳然たる事実だけだ。
旧世代の人類が滅びかけたその絶望の淵から、人々を救い出したのが「管理都市アウレア・クナブラ」である。
分厚い高密度装甲と幾何学的なエネルギーのドームによって外部と完全に遮断されたこの都市の中で、人類は辛うじて命脈を繋ぎ、失われかけた文明の光を再構築した。そして三百年が過ぎ去った今、この都市は外の過酷な荒野とは隔絶された、完璧な安全領域として君臨している。
2.都市内のインフラ
都市の中の生活がどれほど快適であるか、それを語る上で外せないのが徹底的に管理されたインフラ環境だ。
アウレア・クナブラの内部は、気候も天候もすべて人工のコントロールシステムによって完全制御されている。季節の変わり目に体調を崩すようなことは一切なく、一年を通じて室温は常に二十二度、湿度は快適な五十パーセントになるように調整されている。
窓の外の天蓋には、過去のデータから再現された最も美しく、最も穏やかな青空の映像が映し出されている。にわか雨が降ることもなければ、突風が吹くこともない。年に一度の恩寵祭では、花のホログラムがゆらりと空中を舞う光景を見ることが出来る。
もちろん、外の世界にあるような有害な紫の澱みがこのドームの内に漏れ出すことなど、システムの安全保障上、絶対にあり得ない。
街路樹は常に青々と葉を繁らせ、整然と区画整理されたホワイトストーンの歩道にはゴミ一つ落ちていない。
朝になれば、心地よい鳥のさえずりのホログラムとともに優しいアラームが響き、夜になれば星空の映像へと滑らかに切り替わる。飢えや寒さに震えることも、突発的な災害に怯えることもなく、人間が生きる上で不快と感じる要素は、この都市の設計段階ですべて排除されている。
誰もが「生きているだけで幸福である」と信じて疑わない、文字通りの理想郷(ユートピア)がここに広がっている。
3. 世界を支える技術
この理想郷を、一体何が支えているのか。
それは「高度な科学技術が生み出したクリーンな発電プラントのおかげ」である。
発電プラントは都市中央部に位置し、旧時代からの技術を連綿と受け継いできた「大聖堂」が管理している。
この発電プラントで生成されたエネルギーが都市中に送り届けられることで、理想郷が実現している。
300年前の偉大な先人達が生み出した技術がなければ、シャワーから温水が勢いよく流れ出ることも、夜の街を彩る幾何学的な光のグリッドが輝くこともなかっただろう。
都市の住人たちは、そのエネルギーがどこから来て、どのような仕組みで自分たちの手元に届いているのかを深く知らない。知っていなくても、ただスイッチを押し、蛇口をひねるだけで、無限の恩恵が約束されている。
まさに、300年の歴史に裏打ちされた管理都市の安全神話がここにある。
「……授業課題のレポートはこんなものかなっと」
アルトは端末の電源を落とし、明日のスクールに備えて眠りについた。
完璧に管理された街の一角で、今日もアルトの朝が始まった。
室温二十二度の快適なベッドルームで、優しいアラームの音とともに目を覚ます。
「うぅーーん」
甘美な二度寝の誘惑を払うべく上半身を起こし、軽く伸びをすると背骨からポキポキと小気味よい音がした。カーテンを開けると、窓から光が差し込む。いつもと変わらぬシステムによって調節された光だ。整然と区画整理された街並みを、穏やかな光が照らし出していた。
自室で制服に着替えた後は、お楽しみの朝食の時間だ。
リビングに移動すると、コーヒーの香りがクスリと鼻腔をくすぐる。両親揃って、ゆらりと湯気が立ちのぼるコーヒーカップを片手に、朝のニュース画面を見入っていた。テーブルには既にバランスの取れた朝食が並んでいる。
「おはよう。父さん、母さん」
挨拶をしながら食卓に着き、三人揃って食べ始める――朝食は必ず家族揃って食べること。これが我が家の決まり事だ。
「ねえ父さん、昨日のエネルギー分散プラントのニュース、見た?」
「ああ、第3セクターの効率がまた数パーセント向上したらしいな。お前の将来の勉強にも役立つだろう」
「うん、実務演習のときにも応用できるか考えてるんだ」
「はは、さすがだな」
そんな他愛のない会話を交わしながら、和やかな朝の時間が過ぎていく。
温かいスープとサラダ、トーストを美味しくいただき、準備を整えて家を出る。
マンションのロビーの前では、待ち合わせの約束通り、友人のエミリとルカスが楽しそうに喋りながら待っていた。
「おっす! アルト」
「おはよう! ルカス、エミリ」
「おはよ! ねぇアルト、明日の歴史の小テスト、予習バッチリ?」
「もちろん。第4章の技術史のところでしょ? エミリは、ちゃんと見直した?」
「う、うーん……それがさ、昨日家で新しいハーブティー飲んだら美味しくて、そのこと考えてたら教科書開くの忘れちゃった!」
「またそれかよ! お前、いっつも肝心なときに抜けてるんだからな」
ルカスがやれやれといった風に呆れてみせると、エミリは
「えへへ、なんとかなるって!」と元気に笑う。
他愛のない冗談を言い合いながら、整備された美しい街路を歩いてスクールへと向かった。
教室の席につき、規律正しくも和やかな雰囲気の中で授業を受ける。
教師の問いかけにしっかりと答え、休み時間になるとルカスやエミリの席に集まって、次の休みの予定や教科書の分からないところについてワイワイと盛り上がる。
「ねえねえ、来週の週末ってさ、中央プラザで新しいホログラムアートの展示があるんだって。みんなで行かない?」
「お、それ面白そうだな。行こうぜ、アルトもいいだろ?」
「うん。新しい映像技術の参考にもなりそうだしね」
お昼休みには、カフェテリアでみんなと日替わりランチプレートを囲み、
「今日は当たりだね! このデザートのゼリー、すごく爽やかで美味しい」
「ほんとだ!」
「ちょっ! 嫌いなものしれっと押し付けんなって!」
「午後からの体育、持久走だからやだなあ」
「じゃあ、一緒に走ろうぜアルト」
「それ絶対に置いてくやつじゃんか」
と笑い合う、ありふれていて充実した時間が流れていく。
放課後は、クラスメイトたちと一緒にメインストリートへ足を運ぶ。
新しくできた話題のカフェに入ると、穏やかな音楽がアルトたちを迎え入れた。くるりと店内を見回すと白色を基調とした物で揃えられており、提供されるデザートの色が映えるだろうという印象だ。
席に案内された後、各々がメニュー表を開く。
「うわ、これ見てよ! メニューに『高さ50センチを誇るバカみたいに長いパフェ』って書いてあるよ!……これホントに売る気ある?」
「スゲェ!デカすぎんだろ !」
「食べきれる自信あるの? 絶対途中で溶け出すよ」
「うーん、それもそうか。じゃあ無難にこっちにしよっと」
ワイワイとメニューを見比べた挙句、結局アルトはエミリお勧めの甘いフルーツタルトを注文した。
「んーっ、これすごく美味しい! アルトもひとくち食べる?」
エミリがフォークを差し出してくる。
「僕も同じもの頼んでるし……それに……ねぇ?」
アルトの思いとは裏腹にルカスがすかさず囃し立てる。
「おいおい、人の前でそれはいちゃいちゃしすぎだろ!」
「ちょ、ルカス変なこと言わないの! ただ美味しいから分け合おうってだけじゃん!」
エミリが頬を赤らめてルカスを小突き、周囲の友人たちがどっと笑う。
甘いタルトの風味と、他愛のないおしゃべりに心が弾む、楽しい放課後のひととき。
夕方に帰宅し、「ただいま」「お帰り、今日もお疲れ様」と母親と今日の出来事について軽く言葉を交わしてから自室に戻る。
夕食を済ませたあとは、机に向かってスクールの課題や、将来目指しているシステムエンジニアに向けた技術の勉強に取り組む。
「この回路の制御アルゴリズム、もう少し効率よく書き直せないかな……」
真面目にペンを走らせつつも、時折ラジオから流れるお気に入りの音楽に耳を傾けながら、穏やかな夜の時間を自分のペースで過ごしていく。
深夜になり、街全体の明かりがゆっくりとトーンを落として夜間モードへと切り替わる。
ベッドに横たわりながら、今日も一日平穏無事に終わったことに静かな満足感を覚える。
(快適な生活だが……私は……)
“あの日”を境に生まれた感情を今日も心の底に押し込む。
明日もまた、いつもの仲間たちと笑い合える穏やかな一日がやってくることを信じ、アルトは眠りへと落ちていった。