理想郷でぬくぬく生活〜将来安泰の快適ライフ〜 作:新紀元史
第1章:鳥籠の中の模範生
いつもと変わらない1日。
この日のカリキュラムは既に終えており、教室の窓からは調整されたオレンジ色の光が差し込む。時刻は夕方。
教室には、他愛もない会話をしている者や帰り支度をしている者、テストの手応えがなかったのか机に突っ伏したままの者等とその姿は三者三様であった。
アルトはいつもの2人と一緒に帰るべく、荷物を手早く鞄に詰めて席を立った。
教室と同じく放課後の廊下にも、穏やかな光が満ちていた。
室温は22度。湿度は50%、窓の外にはいつ見ても同じ、完璧に管理された夕暮れの映像が広がっている。
「ねえ、聞いてよアルト! 今日の歴史の小テストさ、第3章の年号のところ、絶対に出るって言われてたのに全然違う問題が出なかった?」
そう言って廊下をパタパタと小走りで駆け寄ってきたのは、エミリだった。その隣では、もう一人の友人のルカスが、呆れたような顔でエミリの後を追ってきていた。
「お前が範囲を勘違いしてただけだろ、エミリ。第3章じゃなくて第4章の技術史だって昨日話してたじゃねえか」
「えーっ! うそ、マジで!? 私、そこ完全にノーマークだったんだけど……。 やばい、追試で挽回しなきゃ補習確定だぁ」
「自業自得だって。なあ、アルト、お前はちゃんと対策してるって言ってたよな? エミリにノート見せてやれよ」
ルカスがひょいと肩を組んできた。その体温や、他愛のない冗談を言い合う空気は、どこをどう切り取っても、平和な日常のひとコマにしか見えない。
アルトはいつもの柔らかな笑みを崩さず、スッとノートを差し出した。
「いいよ、貸すよ。でも次のテストの範囲はちゃんと確認しなよ、エミリ」
「やった! アルトほんと神! あっ、そういえばさ、もちろん明日の恩寵祭行くよね?」
「上のクラスにいる子たちが噂してたんだけど、白亜のモニュメントの前で告白すると必ず成功するとかなんとか!」
エミリが急に声を潜め、くすくすと笑いながら話題を変えた。
「その手の話は毎年出てるよ」
「ほら、そこ!アルト君ねぇ、そういう風情がないこと言わないの!」
「2人は誰か気になる子とかいないの?2人ともいつもクールにしてさー」
唇の端をつり上げて悪戯げな笑みを浮かべながら、エミリはルカスの脇腹を肘で突っつく。
「なっ、急になんだよそれ」
ルカスが少し顔を赤くしてエミリの小突きをやんわりと払う。
廊下はたちまち
「えー、ルカス図星じゃん!」
「うるせぇなぁ!」
という他愛のない冷やかしの声で賑やかになった。
勉強の難しさに頭を悩ませ、テストの範囲に一喜一憂し、年頃の恋の噂に耳を赤らめる。
誰もが明日も、その次の日も、ずっと同じような平穏な時間が続くと信じて疑わない。システムが完璧に整えた環境の中で、彼らは「青春」と呼ばれるありふれた時間を謳歌する。
その笑い声の輪の中心に立ちながら、アルトは軽く相槌を打ち、当たり障りのないジョークを返す。
―だが、その賑やかな空気のすぐ裏側で、アルトの意識は冷静に自身の言動を振り返っていた。
(まだ悟られてはいけない)
完璧に管理された平和な日常。
不自然なほどに均質で、誰もが疑うことを知らない、あたたかな理想郷。
エミリが楽しそうに笑う横顔を見つめながら、アルトは誰にも気づかれないようにそっと息を吐く。心の中の深い場所に鍵をかけたまま。