理想郷でぬくぬく生活〜将来安泰の快適ライフ〜 作:新紀元史
古いジャンクモニターの青白い光が、アルトの蒼白な顔を照らし出していた。
画面に並ぶ機密データ―人間を生体フィルターとしてすり潰し、街の明かりを維持しているという非道の真実。
そして、エミリがその「次の生体パーツ」として仕留められようとしているという事実。
(いや、単に忘れっぽいだけという可能性もある)
(だが、本当にフィルターとして使い潰す予定だったら)
頭の中で、無数の思考が狂ったように回転し、そして次々と「不可能性」に突き当たって砕け散る。
(どうする……どうすればいい?)
エミリを連れてこの街から逃げ出すか?
―無理だ。そもそも「外」にはあの「厄災の霧」が広がっている。仮に都市の外へ脱出できたところで、霧に晒されて生身の人間が生き延びられるとは思えない。逃げ場など、この世界のどこにも用意されていないのだ。
じゃあ、大聖堂に忍び込むか?
―無理だ。都市の中枢であり、システムが他の何よりもセンサーを向けている心臓部。一般市民が近づくことすら許されない鉄壁の要塞であり、警備の厳重さは尋常ではない。
仮に奇跡的に侵入できたとしても、それで何ができる?
システムの中枢を破壊する?
―無理だ。そんなことをすれば、都市のシールドやエネルギー循環が一瞬で停止する。エミリを生体フィルターから救い出すどころか、外の厄災の霧が一気に都市内へ流れ込み、防壁を失った都市の住民は数時間もしないうちに全員死滅する。
エミリを救うために街の全員を殺すのか、それともエミリを見捨てるのか。
そんな最悪の二者択一のどちらを選んでも、結局は破滅しか残されていない。
「……くそ……! くそっ……!!」
アルトは震える拳で硬質なデスクを激しく叩きつけた。
コンクリートの底冷えが骨の髄まで染み渡る。どれだけ優れたシステムエンジニアの知識を持っていこうと、どれだけ精巧な自製デバイスを隠し持っていこうと、目の前にそびえ立つ構造的絶望の前では、自分の無力さがただ冷たく突きつけられるだけだった。
打つ手がない。
どう転んでも、エミリは救えない。この街の欺瞞を暴くことも、システムを止めることもできない。
頭が真っ白になり、思考が完全に焼き切れる。息が詰まり、胸の奥が痛いほどに締め付けられた。
どれほどの時間が経ったのか。
廃棄区画の冷たい闇の中で、アルトは膝を抱えたまま固まっていた。
頭上の遠くから、恩寵祭の終わりに向けた祝砲の音が低く響く。
街の住民たちは今もなお、明日が訪れることを疑わずに笑い合っている。
その平和な日常の歯車の下で、自分だけが底なしの絶望の沼に沈められていた。
(……いや、ここで動けなくなったら、本当に終わりだ)
冷たい思考の断片がかろうじて理性を繋ぎ止める。
ここでパニックを起こし、挙動不審になれば、それこそ街の監視網が微小な脳波の揺らぎを捉え、即座に「警戒リスト」から「記憶の調整」へと直行させられる。
そうなれば、エミリを救うどころか、自分が真っ先に排除されるだけだ。
アルトは深く、深く呼吸をする。
体内の震えを無理やりねじ伏せ、感情のすべてを心の奥底の金庫に鍵をかけて閉じ込める。
いつもの「優秀で、真面目な模範生のアルト」という仮面を、まるで皮膚に貼り付けるように一枚ずつ慎重に、顔面へと装着し直した。
ジャンクパーツを元の場所へ隠し、秘密の点検口の鍵を閉める。
廃棄区画の冷気から、再び管理された都市の空気に満ちた路地裏へと這い出した。
―平然を装うんだ。
いつも通りに家に帰り、いつも通りに夕食を食べて、ベッドで眠る。
足取りは鉛のように重かったが、アルトはしっかりと前を向き、華やかなメインストリートの端をかすめるようにして自宅方向へと歩き出した。
「ただいま」
自宅の玄関をくぐると、リビングからはいつもの温かい家族の気配と、テレビから流れるニュースの音声が聞こえてきた。
「お帰り。もっと友達遊んでいても良かったのよ?」
キッチンから顔を出した母親が、優しく微笑みながら声をかけてくる。
「うん、少し頭が痛くなったから早めに帰ってきたんだ。心配かけてごめんね」
一切の澱みもない、いつも通りの穏やかな声。
母親は
「そう、無理しちゃダメよ。早く休んだほうがいいわ」
と笑って引き返した。
鏡に映った自分の顔は、完璧な模範生のそれだった。蒼白さも、絶望の影も、綺麗に塗りつぶされている。
夕食のテーブルにつき、父と母の他愛のない会話に相槌を打ち、美味しいスープを喉に通す。その味がどんなものだったのか、今のアルトには何も感じられなかったが、ただ機械的に手を動かした。
自室に戻り、デスクに向かう。
机の上には、将来のシステムエンジニアを目指すための分厚い教科書が綺麗に積まれていた。
ふと、アルトは机の隅に置いてあったカレンダーに目をやった。
そこに赤く記された日付、そしてシステムから通知されたスケジュールが、冷たく目に飛び込んでくる。
【適性審判―配属決定まで、あと3日】
残された時間は、72時間しかない。
エミリの記憶が最後の仕上げとして完全に書き換えられ、彼女が「人柱」としての役割を疑問に思うことなくプラントの深部へと連れ去られるまで、もう猶予は残されていなかった。
(どうすればいい……)
答えの出ない問いを頭の中で反芻しながら、アルトはベッドにもぐり込む。
外ではいつもと変わらない、美しい夜間モードの明かりが街を包み込んでいる。
ただ無力感と焦燥だけを胸に抱き、アルトは3日後の断頭台へ向かう時間を、孤独の中で耐えなければならない。