理想郷でぬくぬく生活〜将来安泰の快適ライフ〜 作:新紀元史
時間は止まってくれない。
無情にも、アルトが廃棄区画でシステムの真相を知ってから、すでに二日が経過していた。
室温22度、湿度50パーセント。
システムが完璧に管理する快適なベッドルームで、いつもの優しいアラームの音とともに朝が訪れる。
天井の天蓋には、今日もシミひとつない澄み切った青空の映像が広がっていた。
「……」
アルトは上半身を起こし、ベッドの縁に腰掛けた。
頭の中は、一睡もしていないかのように重く、そして奇妙なほどに冷え切っていた。あれから二日間、寝ても覚めても脳裏から離れないのは、あの暗いモニターに映し出された地獄の図面と、エミリの運命だった。
だが、どれほど思考を巡らせ、どれほど頭を抱えても、出される答えは常に一つだった。
逃げ場はない。システムを壊せば街全体が滅びる。助け出す手段など、今の自分にはどこにもない。
「……行くか」
アルトは独りごちると、感情の抜けた仮面を無造作に顔へと貼り付けた。
いつも通りの朝が始まる。
いつも通りの制服にきっちりと袖を通し、乱れのない身なりを整える。
リビングに移動すると、コーヒーの心地よい香りが鼻腔をくすぐった。
テーブルには既に、栄養バランスの考え抜かれた温かいスープとサラダ、トーストが並んでいる。両親は揃ってコーヒーカップを片手に、朝のニュース画面を見入っていた。
「おはよう、アルト。よく眠れたかい?」
「おはよう、父さん、母さん。うん、ぐっすり眠れたよ」
いつも通りの挨拶を交わし、食卓に着く。スープの味はただの温かい液体にしか感じられなかったが、アルトは決してそれを表情に出さず、規則正しくスプーンを口へ運んだ。
朝食は必ず家族揃って食べること――その微笑ましい我が家の決まり事すら、今は冷酷な歯車の一部のように感じられた。
準備を整えて家を出る。
マンションのロビーの前では、待ち合わせの約束通り、エミリとルカスが楽しそうに喋りながら待っていた。
「おっす、アルト!」
「おはよ、アルト!」
「おはよう。ルカス、エミリ」
いつも通りの通学路。
整備されたホワイトストーンの歩道を、他愛のない冗談を言い合いながら並んで歩く。
その間も、アルトの目は無意識にエミリの横顔を捉えていた。
(頭がおかしくなりそうだ……)
(誰でもいい……お前は妄想に取り憑かれていると、そう言ってくれれば)
(人柱のシステムなんて存在するわけがないと!)
太陽のように明るく笑い、明日への不安など微塵も感じさせないその少女は、あと二十四時間後には「適性審判」の名の元に大聖堂へ引き渡され、人柱としての残酷な運命に組み込まれる。
それを知っているのは、世界で自分だけだという残酷な事実が、アルトの胃を締め付けた。
授業が終わり、放課後の帰り道。
西に傾き始めたドームの人工太陽が、街全体を柔らかい茜色に染め上げていく。
いつものようにルカスと別れ、エミリと二人で駅前の大通りを歩いていたとき、ふと、エミリが足を止めて空を仰いだ。
「ねえ、アルト」
「ん? どうしたの、エミリ」
「明日はついに、適性審判だねー」
エミリはどこか遠くを見るような、しかしどこまでも晴れやかな、気のない笑顔を浮かべて首をかしげた。
「どんな職業が割り振られるんだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、アルトの心臓が冷たく凍りついた。
適性審判。システムによる最終配属。それは彼女が「生体フィルター」として大聖堂へ直行することを意味する審判にほかならない。
しかし、当の本人にはその恐怖も、過去に幾度となく脳を書き換えられてきた記憶の欠落すらも、綺麗さっぱり残っていない。彼女はただ、人生の新しい節目を迎える学生のように無邪気に笑っている。
声を震わせないよう、アルトは精いっぱいの平穏なトーンで問いかけた。
「……エミリはさ、何かやりたいこととか、夢はあるの?」
エミリは少しだけ小首をかしげ、自分のこめかみに人差し指をあてて考え込んだ。
「んー、特にないかなぁ」
そして、あっけらかんとした調子で笑ってみせる。
「システムが決めてくれた事なら、それにはちゃんと適性があるってことだし! 私みたいな忘れっぽい人間が考えるより、よっぽど確実で安心でしょ?」
胸の奥が、鋭い刃物でえぐられるように痛んだ。
システムが彼女の脳を都合よく調整し、「疑問を抱かない理想の部品」へと仕立て上げた結果が、この言葉だった。
「あっそうだ!」
エミリは突然、何かを思いついたようにパッと両手を叩いた。
「タルト職人とかどうかな? 私、甘いもの作るの絶対に向いてる気がするんだよねー!」
無邪気にそう言って笑うエミリの横顔。
その少女に向かって、アルトはどれだけ心のなかで叫び声を上げたことだろう。
―明日、お前はそこから連れていかれるんだ。
誰も知らない地下の暗闇で、街の明かりを灯すための生きた人形にされるんだ。
逃げろ、ここから離れろ、と叫び出しそうになる喉元を、アルトは必死の力で噛み締めて抑え込んだ。
「……そうだね、エミリなら、きっと素敵なタルト職人になれるよ」
絞り出すような、けれどどこまでも優しい声で、アルトはそう答えた。
「でしょ? アルトも今度食べに来てよね!」
駅の改札前で、エミリはくるりと振り返り、いつもの無邪気な笑顔で手を振った。
「うん、約束するよ。また明日ね、エミリ」
「また明日!」
エミリの弾むような背中が、夕暮れの街並みの中に消えていく。
その姿が見えなくなるまで見送ったあと、アルトは静かに踵を返した。
自室に戻り、扉を閉めた瞬間、全身の力が一気に抜け落ちた。
床に崩れ落ちるように膝をつき、アルトは冷たいフローリングに両手をついた。
(どうすればいい……)
頭の中で、無限のループが再び回り始める。
大聖堂の警備を突破することはできない。
システムを止めれば街の全員が死ぬ。
エミリを連れて逃げる場所など、この世界のどこにも存在しない。
いくら知恵を絞り、いくら論理を組み立てても、導き出される結論はいつも同じだった。
―何もできない。
自分には、この街の構造を覆すだけの力も、権限もない。
ただの学生である自分にできるのは、明日、エミリが大聖堂へ連れていかれるのを見届けることだけだ。システムが残酷な歯車を回すのを止められず、ただ無力に、彼女を死地へ送り出すしかない。
(エミリを……見殺しにするしかない……のか)
その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、あまりの無力感に、アルトの喉から乾いた笑い声が漏れた。
目から熱いものがこみ上げそうになるのを、彼は歯を食いしばって力任せに押し戻した。涙を流す資格は自分にはない。
見殺しにすることしか出来ないのだから。
(この都市は”理想郷”なんかじゃないっ)
外の空は、今日も変わらず幾何学的な光のグリッドに包まれ、静かな夜間モードへと移り変わっていく。
誰もが明日への平穏を信じて疑わない理想郷のなかで、アルトはたった一人、冷たい床の上にうずくまり、絶望のなかに沈み込んでいくしかなかった。
―適性審判は明日に迫っている。