母さんは静かにどうしてかと聞いた。
だから私は素直にこう答えた。
「置いていかれるのは辛い。」
ヒトとウマ娘の脚は違う。
彼女たちの脚は脆い。だけど、地面を翔ぶように走ることができる。歩くことと走ることを同時に覚える。物心つく頃になると追いかけっこは勝負にならなくなった。ベンチに座って遊ぶ妹たちを見守るのは苦ではない。
でも、混ざりたかった。
それを聞いた母さんは、
「置いていかれたと思ったら、待ってと云いなさい。私はあなたが追いつくまでいくらでも待つわ。」
と何でもないように云った。
厳しい人だと思った。
でも、変な同情よりも心にしみた。
そうか。待ってと云えば、追いかければ、諦めなければ追いつくのか。
「あなたも待ってと云われたら待ってあげなさい。」
「わかった。」
遠くから歓声が聞こえる。
少しボオーとしていたらしい。
あの子のトレーナーはライブの準備があるからということで会場のほうにいっている。本当のところは気を遣ってくれたのだろう。走ってもいないのに心臓がバクバクいっている。
「お待たせしました。」
頬を紅潮させた可愛い妹が帰ってきた。
「頑張ったね。ずっと見ていたよ。」
この子がデビューして、強敵に出会って打ちのめされて、それでも立ち上がって挑んでいく姿をみてきた。
彼女はライバルに待ってと言わなかった。
言わずに追いかけつづけた。
その集大成がまさに今日のレースだったのだろう。
「お姉さま。」
感極まったヴィルシーナが泣きだした。
子どものように泣きだした。
「私、ずっとお姉さまに観てもらいたかったんです。」
「お願いされなくても観ていたよ。だって私は姉だからね。でも、観たと言ったら悪いかなと最近まで思っていた。」
「私はお姉さまにずっと酷い態度をとってきました。避けられても当然です。でも、私は昔みたいに仲良くなりたいです!」
膝が震えているのはレースの疲れだけではないだろう。私たちはいつの間にこんなにすれ違っていたのか。
「人付き合いって難しいよ。家族でさえ何を思っているのか本当のところはわからない。わからないと私はどうすればいいのかわからない。」
妹があんなに格好いい姿をみせたのだから、私が頑張らないでどうする。
「大事なものを傷つけたくなくて、臆病になりすぎてしまった。」
妹の背はいつの間にか私を越していた。「大嫌い」と言われてからこの子に近づくのが怖くなってしまった。
ヴィルシーナの姉はこの世で私だけなのに。
この子が生まれてくるまで、私の世界は簡単なもので溢れていた。集団生活は得意なほうだった。周りに合わせればいいから。本を読めばすぐに答えられる疑問、予想通りの展開、いい子でいれば波風がたたないと小賢しくも早いうちに気づいていた。
つまらない子どもだった。
レストランで凝った料理が並んだメニュー表をみても美味しそうだと思うだけで、学校の給食のほうが自分で選ばずにバランスよく食事がとれていいと思った。服も制服が一番好きだった。
両親からの愛を一心に受けた穏やかな、安定した生活。だけど、そんな生活が少しだけ息苦しく感じていた。
私はなぜ生きているのだろう。
これから何を成すのだろう。努力しないとできないこともあった。本を読めば、知らないことが周りに溢れていることに気づいた。でも、努力をすれば調べれば望むものは手にいれられた。
私はなぜ生きているのだろう。
動物は自分の子孫を残すために必死になって生きている。しかし、私はそういう機微に疎いらしい。誰かを好きになったことはないし、母親に憧れたこともない。
そんなとき、ヴィルシーナがきてくれた。ふわふわの産着にくるまれた赤ん坊は小さかった。
「さあ、お姉ちゃんだよ。」
両親はそういって私に抱っこするように云った。
お湯がはいった皮ぶくろみたいだと思った。柔らかくて腕の中で自在に形を変える。
「こわいよ。」
「大丈夫、大丈夫。」
両親はそういって笑ったが、私はこのか弱い生きものを傷つけないか心配だった。
この一連のやりとりの間、ヴィルシーナは初めてみる家の中をキョロキョロ見渡していた。だから、抱っこしづらかったのだが、そのうちヴィルシーナはじっと私の顔を眺めていることに気づいた。
私に似ていない青い瞳。
だけど、目もとの黒子の位置だけは偶然にも同じだった。
「はじめまして。」
私はこの子に何も話しかけていないことに気づいて、ようやく挨拶をした。ヴィルシーナはまだ言葉がわからない。
でも、
「キャッキャ。」
笑ってくれた。
このときの笑顔は今だに覚えている。
なのにあの時から私はこの子の笑顔をちゃんと見たことがない。
久しぶりに見たこの子の顔は母親に似た大人の女性に近づいていた。
長い月日が経っていた。
「ヴィルシーナ。」
「はい。」
「どのレースでも、ヴィルシーナはかっこよかったよ。」
腕を広げた。
ヴィルシーナが飛び込んできた。
「お姉さま。」
「うん、ヴィルシーナの姉さんだ。」
ああ、いつの間に大きくなったんだね。
昔は君を抱っこしながら歌ったり、寝かしつけたりすることもできたのに。今はできそうにない。君は自分の脚でたつどころか、私よりも速く地をかける。
「泣き虫なのは相変わらずかな。」
「姉さまだって泣いてます。」
腕の中の温もりがこの世のなによりも愛おしい。私はこのあたたかさを再び抱きしめるときを夢見ていた。
「ねえ。」
「なんですか。」
「私、実は大学で栄養について学んでいるんだ。」
「初めて聞きました。」
「今度、学園祭があるからさ。観に来てよ。」
思いきって誘ってみた。若干、声が上ずってしまって情けない。
「二人も誘ってもいいですか?」
「いいよ。シュヴァルもヴィブロスも誘って三人で。」
「それから、癪ですがあの貴婦人も。」
「ジェンティルちゃんか。観に来てくれるかな。」
「あの人なら絶対、観に来ますわ。」
ヴィルシーナが艶やかに笑った。
この子は笑うとえくぼができる。それは赤ちゃんのころから変わらない。
この子とボタンをかけ違えても、彼女の姉であることだけは譲れなかった。この子の笑顔を守るためなら、どんなこともできた。それくらいヴィルシーナの姉であることは譲れなかった。
その想いが今、実を結んだ。