歴史の追試のために朝のホームルームの前から、多目的教室に呼び出された哀れな奴は俺のほかにももう一人いた。
オレンジの髪の小さな彼女は、テスト用紙を手にした試験官の富永先生を前に見苦しく泣きじゃくっている。
「神様ああああ! どうかボクを試みに合わせないで」
「私は神様ではないし、試練ではなくて追試です」
歴史の富永先生は、頬にかかった黒くて長い鬢を少し掻きわけて呆れたように言う。
少女は、ぐすぐすと嗚咽をもらしながら、観念してテスト用紙を受け取った。
まったく、往生際が悪いにもほどがあるぜ。先生を神にたとえ、聖句をもじって訴えれば、情けをかけてくれるとでも思ったかね?
クールビューティな富永先生は、オレンジの少女にテスト用紙を押し付けると、ファッションショーのモデルのように姿勢を正してつかつかと歩み寄り、俺の机の前で止まる。
ふう、やれやれ。
中間はそこまで難しくはしませんと先生が言うから、それを信じて理数系を優先したのに、思わず赤点を取っちまった。いたいけな生徒を舌先三寸で騙すとは何という悪辣な教師であろうか。まあ、追試対策なんてもうできてるから、何も慌てることなんてないんだけどね。俺は見苦しく情けを乞うたりはしない。
「......去れ、サタン。みだりに主を試してはならないと書いてある」
「私は悪魔ではないし、みだりに試してもいません。これは必要な追試です。それ以前に、あなたは生徒であって、神様ではありません。ふてぶてしいにもほどがある」
小粋なユーモアで追試を逃れる作戦は失敗した。
ぎりぎり2人とも追試は合格したけれど、魔術の受容史なんて勉強して、社会に出てから役に立つのかよ? と言いたくもなる。
魔術の存在が学会で囁かれ始めたのは、俺が生まれたぐらいの出来事であったと学校で習った。
今でこそ魔術師も魔女も大して珍しい存在ではなくなったが、親が学生の頃はまともな学校で魔法がーとかいえば笑いものになるか、下手すれば病院送りだったという。
でもそれは昔の話。
俺の隣の席にだって、マーマレードの魔女がいる。
ネイピア・ネースター
通称・マーマレードの魔女。
「東風ー」
くるみのように丸っこい栗色の瞳と、オレンジ色のくせ毛が特徴的な彼女が、俺の名前を呼んだ。
「この問題、わかるー?」
ネイピアが学校支給のタブレットを見せてきた。そこには、あまりお洒落とはいいがたい公務員的なレイアウトの画面に、目が悪い人でも読みやすいフォントで楷書体の字が表示されている。
「ああ、これね。玉の選び方を場合分けすることができて......」
俺の解説をネイピアは分かったような分かっていないような表情で見つめている。入学以来の付き合いだが、彼女には少し抜けたところがあって、きちんと理解しているのかいないのか心配になる。
「ああー」
今の生返事で理解していないと確信した。
どうも一気に話を進めすぎたようだ。
「だーかーらー、簡単な場合は分かるよな? 一番簡単な例、じゃあ3つのうち1つが赤玉だとしたら」
ネイピアは不思議そうな顔をした。あわれ籠の中のリスが人間様の作った機械仕掛けの餌やり器を前にしたらこんな具合に首をかしげるだろうか? ここのレバーを回すのかしら? どうして上からビスケットが落ちてくるの?
「うきゅ……」
俺の有難い説明がついに彼女のニューロンのコンデンサ容量をオーバーしたようである。
チャイムの鐘がなった。タブレットが連動してぶるぶると震え、次の授業の画面に置き換わる。公共基礎論。
「はい、2時間目、公共基礎論を始めますよ」
ダイエットに成功したセイウチのような先生が現れ、教壇に立つ。
「はい、今日は魔術の発見と受容に関しての授業を進めていきます。前回の復習ですが、我が国において、世界で初めて魔術の実在を証明した人は......」
エミリアさん、と先生はある女子生徒の名前を呼ぶ。
「はい。巻津豊久(まきづとよひさ)博士です!」
エミリアの透き通るような声が教室に響く。どことなく生まれの良さを感じさせる、抑揚に富んだ、しかし芝居がかってはいない声。
「正解です」
セイウチ教諭はくぐもった聞き取りにくい声で答える。わが校の公正無私の新聞部が調査したリスニング試験の難易度評価によれば、3位は学進模試の英語リスニング、2位は音楽の先生が時々歌うシューベルトのドイツ語、栄えある1位はセイウチ教諭の日本語である。彼の言葉を聞き取れたならば共通模試のリスニングで9割は取れるというデータがある(本当か?)
魔術の存在が公に認められたのはここ数十年のことだ。
第一発見者は、日本の物理学者巻津豊久。
彼は素粒子論の研究をつづける過程で、どういうわけか、ある種の精神的エネルギーの存在を確信するに至る。やがて彼は自身の研究成果を論文として発表、それが魔術の実在を示した最初の嚆矢となったのだとか。
当初は批判にさらされるも、彼は堅実なデータと実験によって自身の学説を実証、
詳細な研究が始まり、世界各地で魔術師と思しき人々の存在が受容されるに至った。
はじめは10万人に2,3人の割合とされていたが、やがて1万人に2,3人となり、今では100人に2,3人程度は魔術の素養があるというのが公式の推定値となっている。もっとも若手の研究者の間では潜在的には2,30人に1人は魔法が使えるという説もあるそうだが。
で。
その2,30人に1人程度の魔術師がこいつ。
ネイピア・ネースター。
通称はマーマレードの魔女!
なんでもマーマレードを駆使した魔法を使うらしい。そのまんまだが。
「くかー」
マーマレードの魔女ことネイピアは安眠を貪っている。セイウチ教諭の授業にはクロロホルム並みの誘眠性があるため仕方ないにせよ、もう少し粘ってはいかがか? 見ろ、先ほどセイウチ教諭に当てられたエミリアなんて......
右斜め前の席に、エミリアの豊かな深緑の髪が見えた。彼女もまた魔術の素質があり、二つ名を庭園の魔女という。先ほどの受け答えでも明らかになった通り、庭園の魔女はやんごとなき家系の出身であるから、授業中に惰眠を貪るなどという不躾な真似はしないのである。
現に今も威儀を正して授業を傾聴しておられ......
緑色の髪の毛がオジギソウのようにゆっくりと前に傾いた。きっとタブレットをよく見るためだ。そうに違いない。
庭園の魔女の頭部が机に接地したように見えるが、気のせいであろう!
これは、マーマレードの魔女ネイピア・ネースターと愉快な仲間たちが織り成す(俺の些末な被害を除けば概ね)小春日和のように穏やかで満ち足りた学園生活を記録した物語である。