マーマレードの魔女   作:へきいさむ

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間章 グッドオレンジ杯の悲劇

 グッドオレンジ競馬の直前は、俺はどうも、落ち着かないことが多い。

 

 一週間前。

 

 ネットで毎回周回遅れで、甲羅をはがされたカメのような速度でゴールインする万年最下位の、チップスターが、今回ばかりは一世一代の馬生をかけて奮起するとの情報が入った。

 そのニュースを友人のルイスも見たというので、俺は革命の到来を確信した。

 

 

ーーチップスターはやってくれる。

 

 俺は信じていた。ネイピアのような劣等生にも神様は等しく太陽の光と雨を注いでくださる。時には落雷や霰もだが......いや、ネイピアにはもう少し雷や霰を落としても罰は当たらんと思うが(てか神様だから罰はあたらんわな)

 

 そうだとも。

 

 神はネイピアにすら慈愛を注ぐのだ。ましてチップスターだ。

 

 俺はルイスに電話した。

 

「勝利は確実だ。俺は、チップスターに賭けるよ」

 

「おお東風、お前もそう思うか! 俺もチップスターだよ! これで当てれば一財産できる。次の日曜日には大金持ちだな!」

 

「ふふふ、税務署対策を打っておかねばならんな」

 

「おう!」

 

 というわけでチップスター単勝に全財産を賭けた。勝利は明らかだった。些かの懸念もない。晴れ渡る青空のように、雲一つなく、チップスターが見事、馬杯を制する光景が映画のように瞼に浮かんだものだ。

 

 ところが、映画はフィクションである。

 

 馬券を購入した後、雲ひとつなかった青空は急に山の天気のような移ろいを見せた。

 

 下馬評ほどチップスターの調子はよろしくないというのだ。噂を確かめるべく現地に直行した記者がいたが、彼はチップスターのやる気は一過性のもので、ちょうど成績の悪いぐうたら学生が何かの伝記小説か何かで一時的に勉学に励むようなものではないかと言い始めるではないか。

 

「ああ、もしもし? ええ、その馬券のことですが、変更などは......」

 

 

「できない。あ、そう。いやそこを何とか......」

 

 で、今日にいたる。

 

 ネイピアにどことなく似て、物事を深く考えた経験のなさそうな、大学の哲学科や数学科には絶対にいないタイプの、暖かい海で泳いでいる間に生存本能を忘れて自ら漁師の網の中に入りに行く魚のような感じの馬。

 

 ......さっきからちょくちょく出てくるネイピアってのが誰かって? まあ俺の知り合いなんだけども、ちょっと魔法が使えるタイプの。いや、おかしな子じゃないよ? 少しまともではないだけで。

 

 

 

「おい東風。俺、チップスターの勝ちは固いって言ってたけど、少しだけ、ほんの少しだけなんだが、雲行きが怪しい気がしてきてな......」

 奇遇だねルイス。俺には暗雲が立ち込めているように見えるんだが......

 

 

 まあ事ここに至っては仕方ない。坐して結果を待つのみだ。

 

 スマホの音量を上げる。ナレーターと解説の声が聞こえてくる。

 

 

「さあやって参りました、グッドオレンジ杯、運命の瞬間......ネット上では大荒れの予想も飛び交っていましたが......スタート! チップスター、チップスター......いきなり出遅れた! 合図が聞こえなかったのでしょうか!? 信号が変わったことに気づかない、年寄りの運転する車のようです!」

「いやまあ......いつも通りでしょう」

「ここから巻き返すか!? 若干遅いようだが......まだ勝負は分かりません」

「いや......いえ、そうですね。勝負は分かりません。前の馬群が軒並み追突事故でも起こせば......」

 

「先頭はブルーホーク、続いてヒラノパンサー! 続いて......そして、半周遅れでチップスター‼」

 

 

「ゴール! 順当にブルーホークの勝利となりました! 番狂わせは起こらず! チップスター、まだゴールしていません!」

 

「あの情報はいささか出所が怪しいものでしたから......まあ実力が出たということでしょう」

 

「というわけでグッドオレンジ杯、栄光に輝いたのはブルーホーク‼ ガセ情報に踊らされてチップスターに賭けた連中は、大バカ者です‼」

「いやさすがにアレに騙される奴はおらんでしょう......ジョークサイトの記事ですよ」

 HAHAHAHAHAHAH ドガっ!

 

「死ねっ! 死ね死ね死ね死ね死ねっ!」

 

 ルイス! あんな奴の言葉を真に受けたのが間違いだった!

 

 その時、チャイムの音がした。おそらくオリヴィアがスイカを届けに来てくれたのだろう。後でウチに立ち寄ると言っていたからな。

 

「やっほー木枯さん。お邪魔しまーす......」

 オリヴィアは俺にスイカを渡した。

「ありがとう。しかしさすがにタダではもらえんよ。いくらかお礼を」

「いえ構いませんから。お嬢様が木枯さんに渡すようにと。ただのおすそ分けですから」

「しかしだな」

 俺にだって自立した一人の男としてのプライドはある。女性からスイカをもらって何のお礼もしないわけにはいかないのだ。

「それに木枯さんって懐寒いでしょう? お嬢様と話してたんです。木枯さんのことだから今週のグッドオレンジ杯でチップスターに賭けたりしてないか心配だって。まあいくら何でもありえませんよね‼」

 アハハハハハ‼

 顔が引きつるのを止めることができなかった。

 

「順当にブルーホークでしたねえ。ま、普通に見てりゃ分かりますけどね。得意なコースですし、ヒラノはちょっと調子悪かったですし。何です、浮かない顔して。もしかしてヒラノに賭けちゃいました?」

「まあそんなところだ。少し冒険しすぎてな」

「ヒラノはちと狙いすぎでしたかねえ。もう少し木枯さんには色々教える必要がありそうですねえ」

 オリヴィアはメイドで、エミリア・グリーンという魔女の使いをしている。彼女がお嬢様というのはエミリアのことだ。

 俺はオリヴィアのことを有能で世事にたけた聡明なメイドだと高く評価している。向こうは俺のことを愚か者の代名詞か、もしくは愚か者そのものだと考えているようだが。いささか承服しかねる評価である。

 

「木枯さん、スマホにヒビが入っているようですが......」

「さっき落としてな」

「そうですか、それはそれは。競馬に負けて叩き割ったとかではなくて何よりです。いやスマホは残念ですが」

 こいつ......‼ さっきから的確に地雷ばかり踏みやがる!

 

 

 

 

 

 俺はオリヴィアとバスに乗った。グリーンズハウスで一緒に夕食を食べることになっているのだ。最寄りのバス停に止まった時。

 

「あ......」

 しまった。金がない。すべてチップスターに賭けたからだ。空港のベルトコンベア以下の速度の駄馬めが! 

 

「あの......もしかしてお金ないんです?」

 オリヴィアが困ったような顔をする。

 

「いや、金がないのではない。ただ手持ちがないだけで」

「それを金がないというんです。キャッシュフローが滞れば破産なんですよ」

「......お金貸してください」

「はい」

 悲しい。こんな惨めな思いをするのはいつ以来か。割とよくある気がする。

 

 

 

 

 

 グリーンズハウスにつくとエミリアがいた。紙くず馬券を勧めてきたルイスもいた。(証券取引法違反で逮捕すべきだ)

 そしてエミリアの膝の上にはネイピアが載っていた。

「東風ー! 来たー!」

 ネイピアが黄色い声を上げた。

「今日の競馬! どうだった?」

 子どもには難しい話だよ。 

「エミリアさん、スイカありがとうございました」

「いえいえ。庭園で取れたものですのでお構いなく」

 エミリアは膝の上のネイピアをあやしながら、こちらに微笑みかける。

 

「ねえ、東風‼ 負けたの? 負けたんでしょ!」

「あのスイカですけど、切って食べたら美味しそうですね。煮つけにするよりも普通に生で頂いた方が正解ですね、絶対」

「木枯さん、通常スイカは生で食べますよ」

「ねえ東風‼ チップスターに賭けたんでしょ‼ そうでしょ、絶対‼」

「......俺の家ではよく塩を振って食べたものです。文化の相違というやつですな」

「私もそうですわ」

 エミリアは怪訝そうな顔をした。会話はそこで止まる。

 

 ......おかしい。

 食べ物の話は誰でも盛り上がる鉄板ネタだと聞いていたのに。ところで鉄板って盛り上がるの? 平べったくね?

 

「そ、その、木枯さん。もしかしてスイカを見たことがない?」

 日本では手に入らないのかしら? エミリアは首をかしげた。それに合わせて膝の上のネイピアも首をかしげる。

 

「いやまさか! ただ、緑と黒のスイカもあるんだなあ、と。日本では赤いスイカが主流でしたので」

 ボフ、とついにオリヴィアが噴出した。

「木枯さん......スイカは日本でもイギリスでも緑に黒線ですよ。さてはスーパーのカットスイカしか食べたことありませんね?」

 あの丸い球を切ると中身が赤いんですよ! スーパーの容器に入ってる奴はカットした後‼

 オリヴィアが力説した。

「そ、そうだっけ......? いや、それくらい俺もわかって」

 

「ねえ東風‼ チップスターに賭けたんでしょ!?」

「やかましいぞネイピア......俺は今、少し混乱している......頭が働いていないようだ」

「働いていないというよりも、すでに廃業してる感がありますけどね。脳の作業員さんが全員、同時に有給取ったので?」

 

「チップスターのジョーク記事書いたのボクだよ!」

 ......は?

 一瞬、耳を疑った。ルイスも手負いの熊が猟師の影を睨むように、のそりと首を回す。

 

「な・ん・だ・っ・て?」

 

「いい子だね、ネイピア。怒らないから、何をしたのか言ってごらん?」

 

「うん! チップスターが勝つってネタ記事書いたの、ボク‼ 引っかかったでしょ!?」

 

「こ、このガキ......それはフェイクニュースだぞ」

「あ、逃げた! こら待てネイピア!」

「ククク、所詮はガキの浅知恵よ。ガセネタ広げた咎で訴えてやる!」

 法律から逃げられると思うな。大人の恐ろしさ、教えてやろう!

「いやー、無理だと思いますけどねー」

 オリヴィアがスイカを食べながら言う。いつの間に切ったの?

「だって単なる予想記事でしょ? 予想外したってだけでは責任問えませんよ。偽情報じゃなくて、下手くそな予想出しただけですもん」

 うぐっ。

「あんなガセネタ真面目に信じたことが公になって恥をかくのはそちらだと思いますけどねー」

 

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