B組の教室に忍び込むオレンジ色の影があった。ネイピアだ。
「密書......東風の密書」
ローズのことは知っている。何度か話したこともある。正直に言うと気が進まないが、背に腹は代えられない。ローズと東風の密通の証拠をつかむのだ。
「し、仕方ないよ! これはクラスのためだもん!」
そう言い聞かせるも、やはり後ろめたい。
教室内をざっと見て、お洒落な真紅のバッグがかけてある机を見つけた。アクセサリーは真っ赤なトンボ玉。これはローズのものだ。以前、夏祭りの時にローズが見せてくれたのを覚えている。
「......」
ローズのバッグを前にして、見慣れぬ飼育員からもらった餌を前にしたリスのように、慎重に近づいては離れ、を繰り返すネイピア。この中に密書があるのか? さすがに東風に密書を返さねばマズい。しかし......
つん......つん、つん。
つついても仕方がないのに、何度か指先で触れてみる。
「いやあー、やっぱりコレはダメだよ......」
しょぼくれてうなだれるネイピア。
「仕方ない。東風にはほんとのこと言って謝ろう。密書のことは......内緒にするかあ......その代わり、ローズとは手を切るようにちゃんと言うんだから!」
東風が密書を送っていたとなれば、悪いのは自分だけではない。そのことが少しだけネイピアの罪悪感をやわらげた。
もう帰ろう。
そう決めて、踵を返したその時。
「おや? 何をしているのだ?」
教室の入り口でこちらを見つめている少女。
手を伸ばせば入り口の欄干に手が届くほどの上背。女子にしてはかなり大きい方だ。グレーの生地に青いアクセントが入ったスポーツウェアの上からでも、細身で筋肉質の引き締まった体型がわかる。大理石の彫刻のような端正な面持ち。やや細い目に黒真珠のような瞳が埋まっていて、はっきりとした眉が凛々しい印象を与える。髪の色も瞳と同じような黒だが、動きやすいようにサイドに束ねて結っている。
「ぴゃあああーっ......!」
「あ、こら待て!」
脱兎のごとく逃げ出そうとしたネイピアだが、入り口には少女が陣取っている。背丈は170センチ近くある。女子としてはかなり大きい方だ。ネイピアが抜けるはずもなく、襟のあたりを掴まれて捕獲された。
「お前、このクラスの者ではないな? ローズの机の近くで何をしていた?」
当然のごとくネイピアに詰め寄り詰問する黒髪の少女。ネイピアは何も言えず、ただあわわわと目を白黒させるしかなかった。
「そ、そう泣くなよ......お腹が空いているのか?」
端正な顔立ちが少し困ったように笑う。ネイピアの幼児的本能が、この人は悪い人ではないと告げていた。そして、マーマレードの魔女の脳内では、悪い人ではない=よい人=甘えてもよい人、という等式が成立するのである!
「ふ......ふええええええええーん!」
マーマレードの魔法......秘儀・ウソ泣き‼ 裳裾御前やエミリアとの交流から、自分はどちらかというと可愛がられる容姿をしているという自覚のあるネイピアは、追いつめられるとこの技を使うのだ! 悪質なのは、意識の9割がたは本当の涙で、残り1割ほどで冷静に相手の心理状態を観察していることである。美味しいマーマレードに隠し味の塩が入っているように、可憐なちびっこたるネイピアの涙にも、世知辛い塩っ気が隠されている。できるだけ長く、かつ効果的に甘えられるように自分の心理状態を慎重に操作し、しかもその心理操作をした事実すら都合よく忘れるというあざとさ。忘れるなかれ、彼女もまたれっきとした魔女なのである! 悪魔との契りを交わした、純真無垢とは程遠い存在なのだ。もっとも彼女がこの種の才能を開花させたのは、東風やオリヴィアといった連中による実地訓練の賜物であるのだが。
「私の名は黄桃姫(ホァン・トゥジ)。クラスは2-Bでバスケ部だよ。君は?」
黄桃姫。名前から察するに中国系だろう。日本人よりも背が高いのはそのためだろうか。
気づいた時にはネイピアは黄の膝の間に収まっていた。背後から腕を回され、ぬいぐるみのように抱っこされている。背が高い黄の顎がちょうどネイピアの頭頂に乗っかる。
「そうかそうか、君はネイピアというのか。ここはお姉さんたちが勉強する場所だから勝手に入ってきてはいけないよ? 見つかったのが私だからいいが、ローズだったら怒られてしまうよ」
確かにローズは厳しそうに見える。そろそろ持久走から帰ってくる頃か。
「ローズ......?」
「そうだよ! ローズはね、こわーい劫火の魔女なんだ......」
黄桃姫はローズの話をしてくれた。彼女が使う魔法、ホムンクルスの調査が思うように進まずカッカしていること、などなど。
「私も図書室の魔導書調査に駆り出されてね......いや、結局ホムンクルスの生態は分からずじまいだ。もう、カルニヴァーレはぶっつけ本番でやるしかないね」
そう言ってハハハと笑う黄。
「ところで君はここで何をしていたんだ? ローズのカバンのそばにいたように見えたが。忘れ物かい?」
「......!」
ネイピアは思わずびくっとした。
ローズ、という単語に反応したネイピアの様子を見て、黄は何か思い当たる節があったらしい。けげんな表情をしてネイピアの顔を見ている。
「君は、もしかして......」
ヤバい、バレた? C組のスパイであると感づかれたか?
ネイピアが覚悟して目を瞑ったその時。
「ローズの妹さんじゃないか!?」
「ふぁ......ふぁひっ?」
予想外の展開に、思わず変な声が漏れた。が、聞きようによっては「はい」と言ったように聞こえなくもない。
「そうかそうか! やっぱりか......いや、そのオレンジの髪、火炎系の魔法が使えるのではないかと思ってね! お姉さんに用事があって学校まで来たんだね?」
一人合点して笑う黄の膝に抱えられながら、ネイピアは知略を巡らした。こういう時、東風やオリヴィアならどうするか?
「いやあ、知らなかったよ! あのローズにこんな可愛らしい妹さんがいたとはね!」
「いや......ローズ姉はお姉ちゃんなんかじゃ」
「ははは、今さら隠してもダメだよ! 劫火の魔女め、厳しい顔して、自分の妹には『ローズ姉』なんて呼ばせてたのか? シスコンじゃないか!」
はっはっは、と愉快そうに笑う黄。
ネイピアは恥ずかしそうに俯きながら、しかし内心では自分の作戦が嵌ったことに安堵していた。わざと『ローズ姉』と呼んで弱点をさらけ出し、そこを突かせることで相手を誤誘導する。期せずして、東風と同じ手口を使ったマーマレードの魔女であった。
「ロ、ローズ姉には言わないで......学校には来るな、って言われてるの......」
ぐす、と涙ぐみながら嘘が露見することを封じる。黄は少しいぶかしげな顔になった。
「お、お姉ちゃん......腹違いの妹がいるとか知られたくないみたいで......でも、普段は優しいお姉ちゃんだから」
黄は先ほどまでの愉快そうな笑い声をひそめ、心配そうな顔になる。
「そ、そうか......そんな家の事情が。いや、フランソワ家も魔術の名門だからな、色々難しいこともあるのだろうよ......」
うむ、と一人考え込みながら、ネイピアの髪を撫でる。
「安心しなさい、私の名誉にかけて約束するよ。私からローズに、君が学校に来たことは言わないさ。その代わり」
ネイピアを膝からおろし、目の高さを合わせるために半腰になって真っすぐ見据える。
「もし家のことで本当に辛くなったら、私にも声をかけておくれよ。実の姉ほどではないが、私だってネイピアちゃんの力になってあげるよ」
家庭の事情に深く首は突っ込まずとも、いざという時の避難所になることだけは約束する。黄はとても信頼できる、よい女子生徒であった。ネイピアの心も少し痛むが、何のその。スパイとは人を操ってなんぼなのだ。
「悲しいけれど......これが闇に生きる者の宿命なの......」
ふ、と少しだけニヒルな笑みを浮かべてみる。残念ながら、ネイピアがニヒルな笑みを浮かべても、お菓子を他の子よりも多くもらえてほくそ笑んでいる子どもにしか見えない。
が、ネイピアの邪な胸の内など知る由もない黄桃姫であった。
「悲しい? そうか、そりゃそうだよな。家では、お姉さんとは仲良くできているのかい?」
さりげなく探りを入れる黄。
「うん。お姉ちゃん、家ではね、オムライス作ってくれるの! 卵がふわふわでね、玉ねぎだけですごく絶品なの‼ ママの作るカレイよりずっと美味しいんだ!」
「そ、そうかい! そりゃよかった! ローズがオムライスとは、意外だが......いやね、君がお家でひどい目にあっているんじゃないかって少し心配してたんだよ」
ネイピアの花が咲いたような笑顔を見て、黄はかなり安心したようだった。プライドの高いローズが存在すら仲間に隠したがった義理の妹。ローズは高飛車で少々粗暴なところがある。もしかして家庭内暴力など受けてはいないか、いやローズはそんな子ではない、しかし義父などとの関係性によっては、あるいは......と心配していたのだ。
「白いお皿に乗せてね、オムライスを運ぶときはほとんど縦に揺れないの! でね、スプーンでつついただけでいい匂いが広がるんだよ」
「そうかそうか。それは私も食べてみたいなあ。ローズめ、料理なんて得意技があったとはな。いや、友人でも分からんことは多いものだな」
ネイピアの話が細に入ったものですっかり本当のことだと信じ込んだ黄であった。
が、これはオリヴィアのオムライスとエミリアのカレイの煮つけをハイブリッドさせた、真っ赤な作り話である。
ウソをつく際は、真実を半分程度織り交ぜよ。
処世術の大家、某水平移動カチューシャ氏による、一子相伝の奥義である。
ある初夏の夜のグリーンズハウスにて。
『女の人って嘘が上手でないといけないの?』
再放送のアクション映画で、ヒロインが敵の組織のスパイであったことが判明したシーン。ヒロインのセリフを聞いて、ネイピアが薄桃色のカチューシャに問う。
『そうですねえ。賢い女性は嘘が上手とは言われますかねえ』
ふうむ、と考えながら慎重に答える某氏。マーマレードの魔女が目を輝かせている。
『嘘のつき方教えてよ! 上手でしょ!?』
『な......何を仰いますか。私は嘘なんてつきませんよ。正直者のメイドです』
微笑んでさらりと嘘をつく。流石に師範の腕前である。
『私などよりルイスさんの方が、嘘のつき方がお上手ですよ』
『嘘‼ ルイスって絶対ウソが下手だよー!』
『おや、神父様の嘘を見抜けるので? 目ざといですねえ。ネイピアさんこそ、嘘の達人になれますよ』
相変わらず人をその気にさせることにかけては筋金入りのカチューシャ氏である。ルイスの嘘なんて脳震盪を起こしたオランウータンだって見抜ける。が、ネイピアがすっかり乗せられたことは言うまでもない。
知りたがりの子どもほど手におえぬものはない。カチューシャ氏も言い逃れを諦めて、一つだけ秘伝の技を教えることにした。
ーーー大きな嘘の中に、真実の細部を織り込ませよ
明日から使えて、しかも効果的なアドバイス。なんと悪質な師匠であろうか。
「いやそうか......ローズにオムライスをねえ。いや、お家では楽しく暮らせているんだね? お姉さんも安心したよ」
はっはっは、と再び笑顔が戻る黄桃姫。
彼女はネイピアに敗れたのではない。
薄桃色のカチューシャに敗れたのである。