暗闇の中、遠くに丸い光が見えた。深い水の中にいるように息苦しい。次第に光が大きくなり、狭いトンネルを抜けるとそこは保健室だった。
「あー! 起きたー!」
目を覚まして早々、ネイピアの八重歯が見えた。よほど手を突っ込んでへし折ってやろうかと思ったが、あの八重歯って意外と鋭くて痛いんですよ。噛まれたことがあるから間違いない。背後にはルイスとエミリアも見えた。
「ネイ......もご」
文句の一つも言ってやろうとして、舌が何かに押さえつけられていることに気づいた。冷たい金属の感触がある。スプーンの類だと気づいた矢先、その金属的な味が次第にコショウのような辛みになり、タバスコのような激辛になり、刺すような痛みになり、焼くような熱さになった。
「元気になった!? スタミナマーマレードだよ!」
俺は口の中に詰められていたものを天に向かって吐き出した。赤いねばねばしたもの......血反吐ではなくジャムだと祈りたい。スプーン(妙に大きい)、ほうれん草(なんで?)、ビニール袋(だからなんで!?)。
「ネイピア......」
「なあに!? やっぱりスタミナマーマレードが効いた?」
「ほんとうによく効いたよ。後学のため、スタミナマーマレードの材料を知りたいな」
「ええー......でも企業秘密だしい」
指を胸の前でつんつんとして目を背けるネイピア。この反応、間違いない。
「ネイピア。食品を扱う業者にはな、原材料については開示義務があるんだぞ。企業秘密なんて通用しません」
「じゃあトップシークレット!」
「ほほう......」
トップシークレットなどという単語を使いおって。子どもって覚えた言葉をすぐに使いたがるよね。おおかたスパイ映画でも見たのだろう。なんかドヤ顔だし。同級生の知らない単語を知ってることがステータスの年頃ってあるんだよ。中二くらいで。
「コードネーム・ブレインジャム。落ち着いて取引をしよう」
「ぶれいんじゃむ......!」
ネイピアの目が輝いた。頭の中に脳の代わりにジャムが詰まってるという意味だけど。ほらな、やっぱりスパイ映画の影響だよ! 困るんだよね、子どもが真似するから!
「どうして私の......こ、こむ、こー......」
「コードネーム」
「そ、そう! コードネームを......」
スパイがコードネームという単語を忘れるんじゃない。
「君の経歴を少々調べさせてもらったよ。何、君は業界では有名人だから容易いことだったがね......」
「え? えへへ......あ、いや、どこからそれを」
今喜びませんでした?
「そこの男だよ。金に目がくらんで君のことを売り渡したようだ」
「え? 俺?」
ルイスに飛び火した。いや、放火したのは俺だけども。
「ルイスさん......組織を裏切ったのですね......」
エミリアが加わってきた! ていうか組織だったの?
「ま、まあそういうことだ。そこでだ、ブレインジャムよ、そこの裏切り者の情報と君のトップシークレットを交換する気はないかね?」
「ま、待って、俺裏切ってなんか」
「ふふん......なかなか面白い申し出だね。でも、ボクのトップシークレットとルイスの情報じゃあ釣り合わないよ!」
「確かに」
「取引上手ね、ピアちゃん!」
「なんでだよ!」
「じゃあこうしよう。ルイスの情報に加えて新しいコードネームをやろう。これならどうだ?」
ネイピアの目がダイヤを埋めたように輝いた。天然もの120カラットの輝き。
「いいよ! 取引成立ね!」
敵にコードネームをもらって喜ぶスパイって何?
「新しいコードネームは!?」
「そうだな......イモータル・ジェリーフィッシュ」
和名ベニクラゲ。オレンジの髪でちっこくてふわふわしてるからなんかベニクラゲっぽい。覚えられるかな?
「イモータル・ジェリーフィッシュ......!」
子どもって自分が興味あることはすぐに覚えるよね。その記憶力をセイウチの授業にも活かそうね。
「ルイスの情報は?」
俺はネイピアの耳に口元を近づけた。
「そいつ、ネイピア経由でエミリアとお近づきになりたいって」
「お、おい! それは男同士の秘密......!」
「へえ、そうなの。イモータル・ジェリーフィッシュ......!」
反応薄っ! まあルイスの色恋なんて興味ないか。
「お、男同士の秘密って? ああ......お二人は始めからグルで、組織を見捨てたのね......」
エミリアには聞こえなかったようなのが救いだ。ていうか、あんた意外と乗ってくるね。勝手にグルにしないでくれる?
「で、ネイピア。お前のトップシークレットは?」
「うん! あのね......」
俺の拳がネイピアの頭を挟み、こめかみを抉った。
「......俺の舌は牛タンではない」
あの焼けるような熱さの原因。聞かなければよかった。