コンコンとノックの音がした。エミリアが「どうぞ」と答える。
建付けの悪いドアをまるで高級旅館の襖のように音もなく開けて見せる。先ほどのよく訓練された水平移動カチューシャ、オリヴィア・オースティンはエミリアのメイドだ。
「お嬢様、例の件ですが......」
「ええ、わかっています」
エミリアが少し真面目な顔になった。
「木枯さん、ルイスさん、ピアちゃん。あなたがたに依頼があるのです」
「依頼?」
三人はエミリアの顔を見つめる。
「はい。皆さまには、わがグリーン家の魔導書を回収して頂きたいのです!」
グリーン家の魔導書。エミリアの館グリーンズハウス別館の図書室に秘蔵された禁書。読む者を悪の道に誘い、堕落させる禁断の書。
「その本を何者かに盗まれてしまって......」
およよとエミリアが目元を抑える。
「お嬢様、嘘はよくありませんよ」
エミリアの涙がぴたりと止まった。あれ? ウソ泣き?
「ことの発端は一週間前の台風に遡ります......」
オリヴィアが語り始める。
一週間前。大型の台風が襲来し、学校はあっぱれ休校となった。雨戸を閉じて庭の植木鉢やら椅子やらを玄関に入れ込めば、あとは自由気ままな引きこもりライフである。
この贅沢な時間を、なぜか下らぬ好奇心に犯されて台無しにしたお嬢様がいるらしい。
「某グリーン嬢は、お館の図書室でポテチを食べながら、いかがわしい本をお召しになっていました......」
「そ、そうなのよ!」
隠しておきたいであろう秘密をメイドにバラされ、なぜか得意げなエミリア。
「わ、私ってポテチ食べながらいかがわしい本読んだりするんですよ! 意外と、その......」
ちらちらとこちらに期待を込めたまなざしを送ってくる。俺はなんとなく彼女の心理を察した。
「ははあ......みかけによらず案外庶民的ですね」
少し感心した風に答える。
「でしょう? そう思うでしょ!?」
若干ネイピアっぽい表情になって、目を輝かせる。
「え......どういうことだぜ......?」
倍速再生のオセロ動画のように目を白黒させるルイス。やれやれ、神父のくせに人間心理を知らん奴だな!
エミリアのようなガチモンのお嬢様育ちは、ある種の反転したコンプレックスを抱くのだ。生まれてこの方恵まれた環境に育ち、人々からは羨望の眼差しで見られ、上流階級の家庭環境で身に着けた何気ないふるまい一つ一つが、周りから浮く原因となる。故にこの手の人物は、気が優しいと、庶民への反転した憧れを抱くようになる。そしていかに自分が庶民的であるか、世間の荒波を知っているかをアピールしたがるのである! カップラーメンを作っては自分は料理ができるお嬢様なのだと吹聴したがり、満員電車に(ボディガードに守られて)搭乗したことを、古参兵が新兵に吹かす戦場風のようにびゅうびゅう吹かして胸を張る! ネイピアが胸を張ると逆上がりの台に見えるけれど、エミリアが張ると結構壮観ですよ。ともあれ、庶民が上流階級にコンプレックスを抱くのとは逆に、エミリアクラスになると庶民へのコンプレックスを抱くのだ。
「名付けて姫コンプレックス! これは発達心理学でも提唱されている説だぞ」
ウソです。でもね、こういう反転した劣等感ってあると思うの。これは後天的お嬢様と先天的お嬢様を見分ける最大のポイントである。ピアノを弾けることを誇るか恥じるかという態度の差こそが、その人の出自を残酷に、かつ明瞭に物語るのである。
「なるほど、勉強になるぜ......」
「おおかたオリヴィアに誇張した庶民の暮らしを吹き込まれたか、何かの漫画かドラマで見たか......」
なんかこの人が大きなネイピアに見えてきた!
「私ってば、案外わいるどなんですよ!」
ふんすと鼻息も荒いエミリアである。オリヴィアが少しにやけた表情をしている。おそらく戦犯は彼女である。
「ははあ......意外とお嬢様でもないんですね」
世間ずれしていらっしゃる、と持ち上げてみた。この場合、世間ずれという言葉がエミリアの自尊心をくすぐるのだ。
「でしょう!? でしょう!! 皆さんに言われるほどお嬢様ではないですよ!」
裏を返せば、この種のコンプレックスを抱くことこそ、彼女が真のお嬢様であることの証なのだが。偽物の姫は逆に庶民を毛嫌いします。自分がつい最近までそこにいたからね。こちらを名付けてニセモン・コンプレックスという。エミリアのはガチモンコンプレックス。面白いことに(残酷なことに?)お嬢様という属性は、偽物にも本物にもある種の劣等感を抱かせるようなのである。
「本題に戻りますが、お嬢様はともあれ図書室で自堕落な生活を楽しんでおられ......」
「そうなのよ!」
ふんす! ふんす!
これで得意げになれるのが姫である。
オリヴィアによれば。
エミリアは自堕落な生活を送っていた。外で聞こえる台風の音。館がぎしぎしと音を立てて歪む。その軋む音、唸る風にどことなく胸を躍らせるエミリアであった。子どもか。
彼女は思った。
ニュースによると、台風というのはとても恐ろしいものなのだという。家が吹き飛ばされ、避難住宅に通う老人もいるのだとか。それなのに自分は、こんな図書室でぬくぬくと。
「そ、そのオリヴィア。このお部屋って吹き飛んだりしないかしら......?」
「古い家ですが、昨年補強工事をしたばかりです。空爆されても問題ないと保証書が」
「そう......」
オリヴィアは図書室を後にし、お茶を入れるために台所に下がった。
「この家は壊れないのね。古いのに......」
一人取り残され、しゅんとなるエミリア。彼女は停電に備え、懐中電灯付き手回し発電ラジオを家宝のように抱きかかえていた。これを使ってみんなと避難生活を送るのだ、と意気軒高のエミリアであったが。彼女の家には自家発電機が複数備えられており、税金で立った避難所よりもこちらの方が安全なのである。最寄りの火力発電所が吹き飛んでも停電などしない。
寂しげに手回しラジオのつまみをいじる。猫じゃらしにパンチを繰り出す猫のようにぐるぐると取っ手を回すと。
ーーえー、こちら地区体育館ですが、既に避難された方々がちらほらと......
ーー今現場におりますが、あ、堤防から水が溢れました。軽自動車が流されてゆきます......
ーー現場の高田さん。あのですね、専門家の方より危険だから退避せよと。はい、視聴者の皆様には申し訳ございませんが、スタッフの安全のため一時避難を......以降の放送はスタジオより......
ーーあ、スタジオが停電いたしました。えー、はい、スタジオが......
姫コンプレックス発動!
「私もお屋敷を飛ばされてみたい......!」
彼女は雨戸に閉ざされた図書館の窓を開けた!
「お嬢様、お茶をお持ちしました......って何を!?」
恍惚とした表情で窓をあけ放ち、両手をY字に開いて暴風を受け止めるエミリア。まるで長年遠距離恋愛をしていた恋人を駅で迎える乙女のような光景であったという。
「お嬢様、危険です......!」
「これが台風......‼ これが避難所生活......!」
「違いますウウウ! バカ姫、とっとと窓閉めろつってんだろ!」
口調も忘れて怒鳴るオリヴィアに対して、エミリアは晴れやかな笑顔で振り向いて言った。
「手回しラジオを使う時が来たようね!」
結局。
グリーンズハウスの別館はびくともせず。停電も起きず。
はあはあと興奮さめやらぬエミリアと、茫然自失のオリヴィア、そして桜吹雪のように宙に舞っては螺旋を描いて下降する大量の本だけが残された。
「で、魔導書が吹き飛んだ、と......」
この人バカなの? ネイピアと同レベルなの?