「た、大変です! ルイスさんが魔導書に......」
時計台に向かって走る道すがら、晩餐会から抜け出すシンデレラのようにドレスの裾をつまんで駆けるエミリアと合流した。背後にはオリヴィアもいる。
「神父なのに魔導書に心を奪われるとは、情けないやつですね。一緒に行った木枯さんもネイピアさんも誘惑に打ち克ったというのに」
見下げはてた男です、とオリヴィアが吐き捨てるように言う。俺もネイピアも黙っていた。ルイスが闇に落ちた原因の一端は自分たちにあるのではないかと、カゲロウのように儚い良心が囁くからだ。俺の胸の内にもまだ天使は潜んでいるのである。最近寝たきりだけど。
購買前の花壇にいた時は針のように細かった時計台が、今ではきちんと塔の姿を現している。目を細めてその頂きを睨めば、既に目視で立ち並ぶ鐘が確認できる。
あたかもその時、雄渾、青銅の鐘の清澄な光のうちに、塩シャケの皮の破片が白磁の皿にへばりついたかのように、黒い僧服の揺らめきが見えた。
霊験あらたかにして、人みな鳥飛魚躍して讃える我らが神父、慈悲と寛容の権化たる現代の聖者。
ルイス・マーティスである!
風を受けてはためく僧服から星屑の瞬くように、ルイスの手元が光った。反射的に身をかがめると、頭の上を何かがかすめていく。チャリンチャリンと軽い金属質の音がした。
ーー聖別の銀貨......!
ルイスが魔力を込めた聖なる銀貨は銃弾のような威力をもって敵を穿つ。やる気だな。7の7の7倍も許せと言うだろうが! 俺は7000円チャージしただけだぞ!
「オリヴィア、ルイスさんを確保して!」
エミリアの透き通った声が響く。
そうだ。こちらにはグリーン家のメイドがいるのだ。
オリヴィア・オースティン。
庭園の魔女エミリア・グリーンに仕える闇の眷属。
メイドは案外重労働なのだ。毎日のベッドメイキング、料理、洗濯、掃除で鍛えられた戦闘力は伊達ではない。幼き日のエミリアを襲った暴漢を見事撃退し、チェスでネイピアを3手で破り(逆に3手で負けたネイピアがすごい。自爆したとしか思えん)、グリーン家の庭園にできたハチの巣を素手で握りつぶしてホットケーキの蜜を絞り、ピクニックで遭遇したヒグマをナイフとフォークのみで追い払い、目から破壊光線を放ち、身体を吹き飛ばされてもコアさえ残っていれば再生するのだ。
「後半、捏造しないで下さいます?」
オリヴィアに睨まれた。あれ、口に出てました?
でもその言い方って前半は正しいってことですよね。
というわけで、ルイスごとき薄給の憐れむべき神父が魔導書に落ちたところで、こちらにオリヴィアがいる限り勝ち目はないのだ。身の程を知らぬ奴よのう。
「申し訳ありませんが、お嬢様、オリヴィアは有給を頂きます......」
「え?」
エミリアも俺も固まった。
「ルイスさんの銀貨を拾ってみたんです。何が刻まれてたか分かります......?」
聖別の銀貨には歴史に残る聖者の顔が刻まれている。そんなハズレの聖者っていたっけ? オリヴィアってば実は面食いで、イケメン以外視界に入れたくない人? そりゃ聖者の中にはしわくちゃのお爺さんもいるけどさー。
不思議そうな顔をしたエミリアは、オリヴィアが口元を手で押さえて渡した銀貨を受け取り、それを見つめた。刹那、庭園の魔女の上半身は、強風に吹かれた五重塔のようにゆっくりと傾き、メトロノームのように倒れ、そのまま毒リンゴを盛られたお姫様のように瞼を閉じた。天幕付きのベッドでもあればさながら童話の中のワンシーンだが、往来激しい校庭に倒れんでも。
少しだけ王子様にでもなった気分で、気絶したエミリアの固く握られた手を取る。意外と指を開くのに苦労しました。こういう時って、お姫様は手に握られたものを、すぐに力なく落とすものじゃないの? 包丁で切れ込みを入れたオレンジの皮を手で剥くより力が必要だった。
カラン......
落ちた銀貨を拾い、その面を真正面から視界に入れたことを俺は後悔した。
ルイスの顔が(妙に神々しい表情なのがむかつく)でかでかと刻まれているではないか! ゴルア造幣局! 聖人の顔は描いてはならないんじゃねえのか! 偶像崇拝だぞ!? いやこの場合、悪魔崇拝か。
「なになにー?」
「やめろネイピア!」
電池を飲み込もうとした子どもを止めるように、ネイピアを制止する。
「子どもは見てはいけません!」
エミリアもオリヴィアも既に戦闘不能。
闇に落ちた神父を倒せるのは俺とネイピアしかいない!
ルイスとは以前、校内の謝肉祭(カルニヴァーレ)で手合わせしたことがある。奴は遠距離攻撃は強いが、接近戦はそれほどでもない。近づけばチャンスはある。しかし......
「伏せろネイピア‼」
ネイピアの頭を地面に押し付けると、そのすぐ上を銀貨が掠めてゆく。
「ルイス......やったなー!」
ネイピアが八重歯を剝き出しにしている。
「太陽のマーマレード!」
ジャム瓶が数個、弓のような放物線を描いて宙を飛んだ。カランコロン......と乾いた音がして。コロコロコロとこちらに戻ってくるではないか。
「あれ......?」
「馬鹿やろオオオオオオ!」
こっちは向かい風なのだ。渡り鳥のように古巣に戻ってきたジャム瓶を、反射的に蹴飛ばドゴオオオン!
「すごーい! 東風サッカー選手みたい!」
黄金の右足だね、とか言ってはしゃぐマーマレードの魔女。その黄金の右足、もう一歩で吹き飛ぶところでしたけど?
「何とかしてあの銀貨を封じ込めないと」
そうだ。あの銀貨さえなければルイスなどシャケの皮に過ぎないのだ。銀貨さえなければ......!
作戦その1。ネイピアを肉の盾にして徐々に戦線を押し上げ、時計台直下にまで到達する。ベニクラゲだから不死身だろうし、賢明な案だが、問題はこいつが小さすぎて十分に盾の役目を果たさないことだ。あと、ネイピアを抱きかかえて走るのは爆弾を抱えて走るよりも危険ではないかという疑念が湧く。却下。
作戦その2。ネイピアをおだてて時計台に単騎特攻させ、太陽のマーマレードで爆破する。孔明も唸る名案であるが、いささか胸が痛む。俺は紳士なのだ。世界の残酷さを知るには、まだ幼すぎる。仕方ない、ここは俺が先陣を切るしかないか。エミリアを泣かせたくはないしな。それに、ネイピアを使い捨ての駒にするなんて、胸が痛む......ていうか足が痛い。ものすごく痛い!
ズボンをめくると、あら不思議。インドア趣味で青白かった俺の足が真っ赤に染まっていました! 優しい魔女が、血行の悪い俺の脛を哀れんで、生き血を恵んでくれたのです! ぐおらネイピアあああああ!
「てめー! さっきの爆弾のせいだぞ! どうしてくれんだアアア」
「爆弾じゃないよ! マーマレードだもん! 刺激を与えると発火するだけ!」
「それを爆弾というんじゃ! そのマーマレードと一緒にあの塔に突っ込んで来い!」
え......とネイピアは一瞬悲しそうな顔をした。そういうチワワみたいな目をしてもダメだ。
「もうマーマレード残ってないよ?」
この役立たずが!
ふと後ろを見ると、少し回復したらしいオリヴィアが花壇の裏にベンチを積み上げて即席のバリケードを作っていた。エミリアはその影に横たわっている。あそこにいけば安全だ。
「わーい! オリヴィア、ボクも入れてー!」
「待てエ、ネイピア! 俺に肩を貸さんかい!」
黄金の右足を見捨てて自分ひとりバリケードに駆けだしたネイピアの首根っこを抑える。こいつの襟ってちょうど掴みやすい高さにあるんだよな。
「わあああ、ボク怖いよオオオ! オリヴィアに甘えたいよー!」
「それは俺をあそこまで引きずってからにしろ、この薄情者!」
「ここは俺に任せてお前は先に行け、とか言えないのオオ!? そんなんだからモテないんだよおおお! レディ・ファーストでしょおおお」
「てめーがレディを名乗るのは100年早い! 真の淑女は負傷した騎士を見捨てて逃げたりはしないものだ!」
「自分で自分のこと騎士とか言ってるううう! ルイスと変わんないよー!」
「んだとコラあああ! 銀貨に顔刻んだりはしとらんわい!」
その時。
塔の頂に再び閃光が煌めいた。