宮園かをりを救いたいだけなんだ 作:最終話で脳が焼かれたばかりの人
どうやら、ここは単なる現代日本ではない。
ゆりなが、それに気が付いたのは5歳の頃の話だった。
「ゆりな。今日はピアノコンクールの発表会よ」
「えー、行きたくないよ」
瀬尾ゆりな。
それが
さらさらした肩まで伸ばした、雪のような銀髪。あどけない顔立ち。
彼女は転生者である。
前世は平凡な男であった。なにか夢があるわけでもなく、特にこれといった秀でたものがあるわけでもない。そんな人物だった。
『せっかく転生したし、2週目の人生はイージーモードで楽して生きるか』
それが、瀬尾ゆりなの掲げる、ざっくりとした第二の人生の目標であった。
★
その日、ゆりなは母の言葉に従い、車に乗せられ、ピアノコンクールの発表会へ向かった。
そこで彼女はこの世界の真実を知る。
「こうせいー、がんばれぇー」
教室いっぱいに響く、幼い女の子の応援の声。
「次の子! 有馬公生君の番です!」
ピアノの前で、ぺこりと一礼する、眼鏡をかけた小柄な男の子。
彼はきょろきょろと緊張気味に、座椅子に座り、ピアノと向き合う。
おいおい、なんということだ。
ゆりなは思わず、暴れだしたくなった。
どこか既視感のある少年の姿。そして有馬公生という名前!!
ゆりなは確信する。
ここは『四月は君の噓』の世界だ。
★
「すごい演奏だったよ。有馬君」
演奏会のあと、ゆりなは有馬公生に接近した。
「えっと、きみの名前は?」
「瀬尾ゆりな」
「ゆりなちゃん……ありがとう!」
公生は俯きながら、そう言った。
原作通り、この頃は人見知りな性格なのだろう。
「君の演奏が一番素晴らしかったよ」
「えっ!! ううん、そんなことないよ! ゆりなちゃんのピアノが一番すごかった!!」
それはまあ仕方がない。
ゆりなの中身は大人だ。
ここは周りに合わせて手を抜くべきなのだろうが、ゆりなは本気でやってしまったのだ。
「ゆりなちゃん、すごい!」
「しょうらいは、せかいてき、ぴあにすとだ!!」
公生を話していれば、いつのまにか周りに囲まれてあれやこれや言われだす。
しかし、ゆりなはそんな周囲を気にもくれず、周りを見渡す。
そう、この演奏会には宮園かをりがいる。
せっかくだし、彼女とも知り合いになっておきたい。
だが、コンクールの教室内を探しても、かをりの姿は見当たらなかった。
★
それ以来、ゆりなはなにかと有馬公生と関わるようになった。
それはつまり、公生の幼馴染である、澤部椿と渡亮太と交友関係を持つということだ。
「おーい、椿が鬼だー、にげろー!」
河川敷の橋の上。
子供たちの無邪気な声がする。
椿が怖い顔をしながら、涙目の公生を追いかけまわし、そんな二人をげらげらと渡が笑いとばしている。
ゆりなはというと、欄干のすぐ近くに座り込んで本をめくっていた。
「ねえー、ゆりなちゃん、それなんの本?」
公生がゆりなへ近寄ってくる。
「ああ、これはアマデウスという、海外の古い本なんだ」
「アマデウス!? なんだかカッケーな! 伝説の戦士的なアレか?」
渡がはしゃぎながら、こちらにやってくる。
「ううん、違う、二人の音楽家の話。すごく有名な映画でもあるから、聞いたことくらいあるんじゃない?」
ゆりなは、5歳児でも通じるように、わかりやすく教えてあげた。
二人の音楽家モーツァルトとサリエリの物語を。なるべく子どもの精神衛生上よくない部分をかいつまみつつ。
「うっわー、こわいぃぃー!」
「ゆりなって、いっつも頭の良さそうな本ばっか読んでんな!」
公生、椿、渡、ゆりな。
4人そろって同い年だ。
しかし、精神年齢ではゆりなが圧倒的に年上なので、必然的に、彼女が年上のお姉さんポジションにおさまる。
そして彼ら三人を見守るのが、いつものことだった。
「なるほど、つまりゆりなが『もーつあると』。で、公生が『あまでうす』ってわけね!」
「なんで!」
「だって、演奏会の時、ゆりなが一番うまかったじゃん! 『もーつあると』が一番なんで
しょ?」
「そうかもしれないけど、ぼく、ゆりなにそんなことしないよ!!」
「そうだぜ! 公生はじんちくむがいだってーの!!」
ゆりなはつい面白おかしくなって、その場でクスクスと笑う。
「今日はわたしが飛んでみよっか」
そう言ったゆりなは、本をその場に置き、欄干に足をかけた。
そのままゆりなは、橋の下へ飛び降りる。
「おおっ、珍しい! いつも椿が先陣を切るのに! ゆりなが飛んだぞ! おいっ椿も飛べっ」
「いくわよっ、こうせーも一緒に飛ぶっ!」
「椿、ちょっと待って、うわー!」
いつしかゆりなは、公生たちと友達になっていた。
原作キャラとは関わらず普通に生きていく。
ゆりなは最初は思っていたはずなのに、一緒につるんでしまっている。
どうしてだろう?
ああ、そうだ。
彼らと一緒にいるのは居心地がいいから、自分のポリシーを捻じ曲げてしまったのだ。
しかしそのたびに、チラつくのだ。
宮園かをりの姿が。
この先の、原作の物語が。
★
その帰り道、ゆりなと公生は同じ帰り道を歩いていた。
2人は体中がずぶ濡れだ。さっき川へ飛び込んだせいである。
その際、ゆりなはこう尋ねた。
「公生君、ちょっと腕をまくってみて……」
「ん? どうしたの、ゆりなちゃん?」
「いいから」
公生は右腕をまくる。
そしてゆりなは、溜息をついた。
長袖で隠されていた二の腕は、痛々しい青あざがついていた。
「……もしかしてお母さんにやられたの?」
「う、うん。けど、ぼくが間違えちゃったから、できないから」
公生は今にも泣き出しそうだった。
自分が責められている、と思っているのか。
ゆりなは、そっと公生の両手を、自分の両手で包み込んだ。
「よく我慢したね」
ゆりなは、穏やかな声で公生をなだめた。
★
最近、ゆりなが公生の家に通りがかるたびに、ピアノの旋律が聞こえる。
それと同時に、鬼のような女の怒声と、子供の委縮したような泣き声を耳にするのだ。
こっそりとゆりなが、公生の家へ立ち入り、窓から室内をのぞいた。
「あなたは私の代わりに、ヨーロッパへ行くのよ!!」
そこには、直視したくない光景があった。
必死でピアノにかじりつく公生。
そのすぐそばには、車いすに座った、やつれた女。
公生の母である、有馬早希だ。
「ふざけているの!? それでいいと思っているの!? 公生!? いい加減にしなさい!」
早希はヒステリックな金切り声をあげる。公生は鍵盤の上で手を走らせる。
メロディーが違った。
早希は杖を振るって、公生の背中をうった。
テンポが崩れた。
早希は杖を前に突き出し、公生の右肩をつついた。
リズムが狂った。
早希は杖を大きく振りかぶって、公生の頭にたたきつけた。
ピアノを止めて、その場でうずくまり、泣きじゃくる公生。
早希はまくしたてる。
「あのゆりなって子の方がずっと上手いじゃない!
あなたの演奏は完璧じゃないといけないの。
譜面は神様。あなたの演奏はメトロノームのように正確に、ひとつもずれもない。それ以外は価値はないのよ」
公生は涙と痛みで顔面をぐしゃぐしゃにしながら、必死で首を縦に振る。
それから、公生はまたピアノに向かい、演奏を始める。
ピアノの音色は、まるで感情を失ったように無機質だ。それは演奏者が痛みを必死で堪えているようにも感じる。
「ふざけるな」
ゆりなはその場で、か細くつぶやいた。
「母親だからなんだ?」
全身を覆うような怒りが、ゆりなを突き動かした。
★
「お邪魔します、公生君のお母さんですか?」
「ああ、あなたは……」
玄関口で出迎えたのは、有馬早希だった。
「公生君にはいつもお世話になっています」
「ふふ、まだ幼いのに本当に礼儀正しい子なのね、さあ大したものはだせないけれど……」
早希に招かれ、ゆりなは公生の家に上がった。
そのままリビングに通され、テーブルへ座るように言われた。
公生は家にいない。
近頃、小学校の音楽発表会があるから、その練習で居残りしているのだろう。
早希は車いすを動かし、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、ゆりなの前に置いた。
「自分でやりますよ」
「いいの、公生のお友達だもの」
レッスンの時とは別人のような穏やかな笑顔だった。
(……なおさら、タチが悪い)
それから、ゆりなと早希は他愛もない話をする。
とくに、ゆりなが公生について話すと、早希はまるで慈しむように目を細める。
そのたびに、ゆりなの心境は複雑になっていく。
「公生君の腕に、ひどいあざがありました」
「……そう」
「早希さんがやったんですよね?」
一瞬の沈黙。早希は答えた。
「すべてはあの子のためよ、あの子がピアニストになるためなの。子どものあなたには分からないことだわ」
「最低だ」
「え?」
あ、やばい。
ゆりなはそう思った。
なんとかブレーキを踏もうとするが、もう止まらない。
「怒鳴っていますよね。何時間も休憩を挟まず、精神を圧迫するような練習を強制していますよね。杖で叩いてますよね。明らかに虐待ですよね?」
ゆりなの精神が、子どもの肉体に引っ張られ、感情的になっていく。
早希は、豹変したゆりなに戸惑っているようだ。
「なによ、いきなり!」
ゆりなの口から、溜まりにたまった怒りが吐き出されていく。
「自分がなにをしているのかわかっているのですか? 友達が手を出されて、黙って見てられると思っているの?」
「ちょ、ちょっと」
「こっちがガキだと思って舐めている? その杖で公生君みたいに私も叩きますか? いいですよ、その時は110番に通報するので」
「あなた、いい加減にしなさい!」
早希も、我慢できないと言った様子で反論する。
それを嘲笑うかのように、ゆりなはこう告げる。
「────そんなことしていたら、いずれ公生君に嫌われますよ」
そしてとどめを刺すように、こう言い放った。
「血が繋がっていただけの人間のクズ。将来、大人になった彼はきっと、あなたのことをそう思うかもしれませんね」
そう言った直後、ゆりなは言葉を失う。
そして自分の発言に深く後悔した。
早希の瞳から、涙があふれて、頬を伝っていた。
ああ、今ぶつけた言葉は、この人の心を最も傷つけるナイフだったんだ。
「い、言い過ぎました! ついカッとなって! ごめんなさい!!」
ゆりなは即座に謝罪した。
ぺこぺこと頭を下げて、今にも土下座でもする勢いである。
早希は、はっとした表情でゆりなを見ていた。
「私の方こそ」
と、彼女も謝った。
★
「私は将来、あの子のいないずっと遠くへ行ってしまうの」
早希は、静かにそう語った。
「それってつまり、死ぬってことですよね? 『あ、子ども相手だから遠回しに言わなきゃ』とか思わなくてもいいんで」
「あなたって本当に5歳児なの?」
一方、ゆりなは相手の気遣いを正面からぶち壊していく。
「あの子はピアノの天才。だからその才能を生かして、幸せになってほしいの」
「けど、今の公生君どうなんですか? 辛そうですけど」
「けど、将来のことを考えたら……」
「このままだったら、確実に良くない方向に進みますよ」
早希は、公生のためにと思っているのだろう。
しかしそれはそれとしてやり方は間違っているように感じる。
「なので、やめましょう。体罰は絶対禁止。叱るのはほどほどに」
「……」
「あとは客観的に判断できる第三者に協力してもらった方がいいと思います。私でよければ」
「……本当にあなた、5歳児?」
冷静になったゆりなは、ここにきて、ちょっぴり焦りだしていた。
(あとで公生君とギクシャクしたりしない? 大丈夫だよね?)
友達のお母さんにこんな説教をかましてしまってよいのだろうか?
早希はくすりと笑う。
「公生のことが大事なのね」
「はい、友達ですから」
「……そう、だからあなたはそこまで怒っているの」
「それに、公生君のピアノはあなたが目指すものとは別ベクトルですよ。大会で点数を取るためだけの機械的な演奏は、きっと公生君に合わない」
「あなたも紘子と同じようなことを言うの?」
原作では、公生は長い間、トラウマに苦しみ続けていた。
母親からの体罰じみた過酷なピアノレッスン。そして母との決裂と、決裂したまま迎えた母の病死。
もし親子関係が拗れていなければ、公生はトラウマを抱えることはなかったはずだ。
「だからお願いします! 公生君の思うように、自由にピアノを弾かせてあげてください!」
ゆりなは、心底思う。
大切な友達が苦しむ未来があるなら、なんとしても阻止したい。
「幸せ、ね……」
早希はなにを考えているのかわからない、平坦な声だった。
「今日はもう引き取ってもらおうかしら? もうすぐあの子が戻ってくる」
早希にそう言われて、ゆりなは、公生の自宅を去った。
帰り際に、早希はゆりなへこう言い残す。
「これからも、あの子とはよろしく」
──────────────────────────────
有馬早希にとって、息子である公生は、人生の宝物だった。
『早希! この子は天才よ!』
きっかけは、早希の幼馴染であり、日本屈指と評されるピアニストである、瀬戸紘子の一言だった。
紘子は、公生の演奏を目にして、天才的なピアノの素質を一目で見抜いたのだ。
そして紘子は「この子はピアニストになるべきだ」と早希に進言する。
早希は思った。
残された自分の命を使えるだけ使って、この子をピアニストにしてあげたい。
早希は大病を患い、医師からも「長くは生きられない」と宣告を受けている。
だから心を鬼にした。
譜面に忠実に弾かせ、体罰もいとわない厳しい指導をおこなった。
息子への純粋な愛は、死の恐怖と病の苦しみで、醜い執着へと変わり果てていたのかもしれない。
けれど、早希の中にあった執念がわずかに揺らぐ。
そのきっかけを作ったのが、瀬尾ゆりなというあの少女である。
公生の友達で、とても5歳児とも思えない、言動をする子ども。
────「そんなことしていたら、いずれ公生君に嫌われますよ」
公生に嫌われる。
それは、早希にとって、この世で二番目にあってはならないことだ。
────「今の公生君どうなんですか? 辛そうですよね?」
公生が幸せじゃない。
早希にとって、この世で最もあってはならないことだ。
ゆりなが立ち去った後、早希は考えこんだ。
異様に大人びたあの子供の言葉の数々が、なぜか自分に突き刺さる。
────「お願いします! 公生君の思うように、自由にピアノを弾かせてあげてください!」
早希は、帰宅した公生にこう言った。
「今日のレッスンは休みだわ」
公生は目をまん丸にして驚いているようだった。
それはそうだ。レッスンは毎日欠かさずやっているのだから。
「今日は好きなだけお友達と遊んでいらっしゃい。日が暮れるまでには帰ってくるのよ」
すると公生は、はにかんだ笑顔を浮かべて、元気いっぱいに外へ飛び出していく。
早希は、公生の背中を目にして、こう思った。
(こんな風に無邪気に笑ってくれたのは、いつ以来だったかしら?)
それから早希は数日間、考え続けた。
そのせいで、公生のレッスンに身が入らなかったりもした。
以前のように感情のままに、激昂することも杖で叩くことも減っていく。
すると、公生がこちらへ笑いかけることが多くなった。
そんな日々が続いた数週間後、ある晩、早希は、布団をかぶっている公生の元を訪れた。
そして起こさないように、やつれた手で公生の頬をなでた。
「ごめんなさい、公生」
早希の頬から、涙がつたった。
「怒鳴りつけてごめんなさい。杖で叩いてごめんなさい。心を追い詰めて、あなたを傷つけて、っ本当は悪いことだってわかっていたのに……」
自分は間違っているのではないか?
いやこれしか選択肢はない。
だけど、この子の未来を優先したとしても、それは今の幸せに繋がるものなのか?
そんな二つの思考が、早希の頭の中でせめぎあう。
早希はそのせいで、しばらく眠れない夜を過ごした。
心が不安定になって、泣き叫びたくなった。
そんな時に、早希はふと、あの少女の言葉を思い出す。
────「客観的に判断できる第三者に協力してもらった方がいいと思います」
そして早希は、ある決断を下す。
「紘子、お願いがあるの」
早希は、紘子に連絡を取った。
「あなたには公生のコーチをしてもらいたいわ。月に一度でもいいから。そして、わたしと一緒に公生の才能を伸ばすための、レッスンプランを考えてほしいの」
瀬戸紘子は、最も信頼できる親友であり、日本屈指のピアニスト。
息子の育成を任せるなら、彼女ほどの適任はいない。
「え? 『旦那とイチャイチャする時間は?』……。うるさいわね、親友の人生最後のお願いぐらい、少しは聞きなさい」
紘子との電話を切った早希は、肩の荷が下りたような気分だった。
「……あの子には、あんなに大切に思ってくれる友達がいたのね」
早希は自分が死ぬのはもちろん怖い。
けど、公生を置いて先立ってしまうのが、何百倍も恐ろしい。
だが、それは杞憂だったのかもしれない。
────「自分がなにをしているのかわかっているのですか? 友達が手を出されて、黙って見てられると思っているの?」
自分に対して恐れも知らず、堂々と啖呵を切った、幼い少女。
早希は、公生を甘く見ていた。
公生には友達がいる。
将来自分が去っても、きっと彼らが公生を支えてくれるはずだ。
なら、安心だ。
だけど、こうも思う。
「生きたい」
もっと我が子の成長を見届けたい。
「1年でも、1か月でも、1週間でも、1日でも……」
どうせ死ぬなら、苦しくても、みっともなく足掻いて、生きる時間を少しでも増やしたい。
早希の中にあった死への恐怖は、別の感情に塗りつぶされた。
それは、生へ強い渇望だった。
────────────────────────────────
時間はあっという間に過ぎていく。
そうして5年が過ぎ、ゆりなは10歳になった。
あれからゆりなは、公生たち3人と同じ小学校に入学し、そこで彼らと共に時間を過ごした。
この5年間で、周囲の環境が大きく変化した。
まず、公生の家庭事情についてである。
早希が公生に対しておこなっていた、レッスン内容が大きく変化した。
それが瀬戸紘子の参加だ。
瀬戸紘子が週2日ほどのペースで、公生宅を訪れ、早希と共に、公生にレッスンをほどこす。
紘子と早希は、二人がかりでレッスン内容を組んでいるようだった。
それは、公生の精神に負担をかけず、早希がほどこしていたスパルタレッスンより、はるかに効率的だ。
それに早希も以前のように激昂したり、公生に暴力を振るうことはない。
ただ求める基準が厳しいのは変わらないが……。
「違うわ! 早希! やり方が固すぎるわ」
「紘子! ここだけは譲れないわ! 公生! 私の方が正しいのよ!」
二人は、たびたび口ゲンカをおこす。
目指すべき方向が違う二人が衝突するのは当然だった。
そんな大人たちをわき目に、公生があたふたするのがいつもの光景である。
最終的に両者は親友同士なのもあって、折衷案を出したり、和解したりで、毎回ことはおさまる。
公生のピアノの技量は、日を追うごとに上達していった。
1年、2年と歳月がたつほど、それは結果として叩き出されていく。
最年少で斎木コンクール銀賞……森脇学生コンクール小学生部準優勝……数々の賞を総なめしていく。
それはまさに、神童といえる躍動ぶりだ。
ただし、原作と大きく異なるのは、公生に対する演奏者や観客たちの評価。
『ヒューマンメトロノーム』。
原作の公生は、その正確無比な演奏により、侮蔑と嫉妬をこめてそう呼ばれていた。
だが、この世界の公生は、まったく違う演奏スタイルだ。
だから多少の妬みはあれど、賞賛する者たちが大半であった。
ゆりなの頭の中にある、原作知識とはずいぶん違う経過をたどっている。
★
早希と衝突して以来、ゆりなは公生の家に通りがかるたびに、家の窓をのぞいて、レッスンの光景を確認する。
それがここ数年の、ゆりなの日課だ。
(これでいいのかな……どんどん原作から外れていっちゃっているけど)
公生が、二人に見守られながら、鍵盤に触れて、音を鳴らす。
それは早希が望んだ、メトロノームのような、正確無比な演奏ではない。
かといって、瀬戸紘子が理想とした、自由で生き生きとした演奏でもない。
公生の演奏は、二人のコーチの中間地点。
どっしりとしたスタンダードな正確さと、時折アクセントのように遊び心が音色から伝わる。
公生は、幸せそうな表情で、ピアノを弾いている。
「まあいっか、公生が楽しそうならそれでいいよね」
ゆりなにとって、それが一番望んでいたことだった。
窓から演奏している公生を見届けたあと、ゆりなは安堵の息をつけば──。
「おーい、そこの娘よー、なにを見ているのかねー」
「うわっ」
振り返ると、長身のボブカットの女性がいた。
瀬戸紘子である。
まずい、不法侵入したのがバレた。
逃げだそうとするゆりな。しかし紘子は、ゆりなをがっちりと捕まえて離さない。
「瀬尾ゆりな……ふーん、近くで見るとお人形さんみたいだね」
「放してください」
近くでまじまじと観察されるのは、あまりいい気分ではない。
「……私って、意外と有名人なんですね?」
「あたり前よ。クラシック界隈は狭いんだから」
それにね、と紘子はこう付け加えた。
「公生にとって、あんたは最大のライバルだもの」
紘子は愉快そうにケタケタ笑った。
「ね、もう一人の神童」
……神童。
その言葉を聞くたびに、ゆりなは言いようのない違和感を覚えた。
★
その日おこなわれた、大和田音楽祭の会場ホールは、少年少女と彼らの保護者たちが集まり、賑やかな雰囲気となっている。
彼らの視線の先には、ホールの中央に張り出された掲示板があった。
それは、今大会の結果が表示されたものだ。
3位には2名。『相座武』、『井川絵見』。
そして2位には『有馬公生』。
ゆりなは、それらの結果を見届けて、息を吐く。
1位の欄にあるのは『瀬尾ゆりな』の名だった。
「ゆりなちゃんにまた負けちゃった」
「いいや、公生君の方こそ、前回より仕上げてきているよ。近いうちに追い抜かれちゃうかもね」
「そうかなぁ、えへへ」
すぐ近くにいた公生が、1位を取り逃がしたというのに、悔しがる様子もなく顔をほころばせていた。
(全然、お世辞じゃないんだけどなぁ)
ゆりなはため息をついた。
(だって、人生二回目だから、ズルしているようなものだし……)
その時、叫び声が聞こえた。
「くそー! 負けねえぞ! ゆりな! 有馬」
人混みの向こうから、少年がこちらを指さしていた。
とんがり頭の金髪の少年──相座武である。
その隣には、しくしくと流している、黒髪の少女──井川絵見がいた。
「ううっ、次はっ、次は私が勝つんだから!」
絵見は、ゆりなと公生を、親の仇を見るような目でにらみつけて、走り去った。
原作では、公生のライバルであった二人。
しかし公生を上回る戦績を叩きだしたせいで、ゆりなもライバルの対象として含まれているようだ。
ゆりなは不安に駆られた。
(なんだか……どんどんおかしなことになっちゃっている?)
公生を助けたのも、友達が苦しんでいるのを見過ごせなかったからだ。
いつのまにか神童扱いされているのも、前世で高校時代までピアノを演奏していたこともあって「あれ、幼少期のうちにガチればプロになれるんじゃね?」と思い、マジで取り組んだせいだ。
その結果が、原作の公生が抱えるトラウマをことごとく消し去り、なんだか知らないうちに、原作の中心人物に取り囲まれてしまっているという状態なのである。
(……宮園かをりは今どうしているのかな)
あれから、ゆりなは、宮園かをりと何度も接触しようと試みた。
ヴァイオリンのコンクールに見学に来たフリをして、彼女の姿を探したりしたが、ついぞかをりと出会うことはなかった。
別に知り合いというわけでもない。
会ったことすらない。
だというのに、彼女の最後が脳裏に浮かんでくるのだ。
どうしてだろう?
★
それから1年が経ち、ゆりなは11歳になった。
11歳の冬の頃である。
「母さんが危篤状態なんだ!」
電話越しに、公生の悲痛な声が聞こえた。
ここ半年ほどで、早希の病状が悪化し、病院のベッドで一日の大半を過ごすようになった。
そんなある日、ゆりなは、いつものように自宅でピアノの練習をしていたら、公生から電話がかかってきたのだ。
(……やっぱり、こうなっちゃうんだ)
ゆりなは未来を知っている。
有馬早希は、公生が11歳の時点で病死するのだ。
だから「ああ、ついに今日がその時なのか」と、静かに受け入れることができた。
(結局……意味なんてあったのかな?)
この世界で彼女の死は、決して変えられない。
原作という名の運命に決定づけられているものなのだろう。
ゆりなは無常さに襲われるが、すぐに心の中で否定した。
ゆりなは近くで二人をずっと見てきたからわかる。
原作と違って、公生と早希の親子関係は歪まなかった。
有馬早希は病でこの世を去る。
それは避けられない運命なのかもしれない。
だが2人は、最後まで仲睦まじい母親と息子でありつづけた。
きっと、これが最善の結果だったのだ。
「母さん! 母さん!」
「……公生」
「死なないで!」
「大丈夫よ、これからもっと長く生きて、あなたの演奏を聞くもの」
薬品の匂いのする、真っ白な病室。
公生が泣きじゃくっている。
ベッドの上で早希は、病で白く細くなった手で、すぐそばにいる公生の頭をなでた。
病室内にいたゆりなは、絶句し、その場で立ち尽くしていた。
「……ありえない」
有馬早希は生きのびた。
緊急手術に成功し、彼女の命は助かったのだ。
それどころか手術の影響により、症状が快方へ向かっているのだという。
(なんで……?)
数年前から、有馬早希は、本格的にリハビリに取り組んでいた。
それが手術の成功を後押ししたのである。
原作では、早希は自分の病にどう向き合っていたのか、描写されていない。
ゆりなと関わった影響で、早希が本気でリハビリをおこない、それがこの結果につながった可能性が高い。
ゆりなは、ここに至って自分の行動が何をもたらしたのか、気づいた。
自分は、死ぬはずだった人間の運命を捻じ曲げてしまったのだ。
★
ゆりなは、ようやく自分の中にあるモヤモヤを、言語化することができた。
どうしてこの世界に転生してから、宮園かをりのことが頭から離れないのか。
ゆりなは思い出した。
前世で『四月は君の噓』を読み終えたときに、自分はこう思ったのである。
『宮園かをりに生きてほしかった』
死なないでほしかった。
大好きなカヌレをもっとたくさん食べて、ヴァイオリンを演奏して、公生と同じステージに立って、公生との恋を成就してほしかった。
幸せになってほしかった。
それは読者として、フィクションの好きな登場人物に対して、そう思っただけにすぎない。
だが、ゆりなはこの『四月は君の噓』の世界に転生した。
この世界には、宮園かをりがいる。
自分という異物によって、運命は変わり、有馬早希は生存した。
ゆりなはある可能性に思い至る。
宮園かをりの死を回避することができるのではないか?
「ママ、行ってくるねー!」
「公生君たちと一緒にはいかないの?」
「ううん、今日は一人で行くの! ちょっと用事があるから!」
母親にそう返事したあと、ゆりなは玄関前の姿見で、自分の姿を確認する。
今日は4月1日。中学校の入学式だ。
本日から、ゆりなはぴかぴかの中学生としてデビューするのである。
13歳になったゆりなは、小学生時代より、容姿がさらに磨きがかかっていた。
雪を映したような銀の長髪。理知的な輝きの青の瞳。
身に着けている、市立墨谷中学校の制服姿もよく似合う。
ゆりなはくるりと姿見の前で一回転したあと、玄関から外へ出た。
通学路は、桜の花びらが舞い散っている。
鼻歌を歌いながら、ゆりなは通学路をスキップしながら、進んだ。
────────────────────────────────────
「うー、どきどきしてきた」
その日、宮園かをりは、朝っぱらから緊張しっぱなしだった。
もちろん、これからの中学生活に思いを馳せているのもある。
だけど、一番の理由は他にある。
「公生君に会えるかなぁ……」
当時、まだ5歳だったかをりが通っていたピアノ教室の発表会。
そこで一人の少年が、ピアノの演奏をしていた。
少年の名は、有馬公生という。
公生が一音を奏でた瞬間、かをりは、その演奏に心を奪われる。
他の子たちは、別の女の子の演奏に注目しているようだったが、自分には関係なかった。
──『おとうしゃん、おかあしゃん、ヴァイオリン買って! コーセー君にピアノ弾いてほしいの!』
かをりは、熱心にヴァイオリンに打ちこんだ。
すべては有馬公生と一緒に演奏するため。
それから8年が経ち、かをりは、偶然、同じ中学校に公生が入学することを知った。
どうやって声をかけよう。どうすれば仲良くなれるだろう。
期待と妄想を頭の中で膨らませながら、かをりは通学路を進む。
その道中の公園の前で、かをりは思わず足を止めた。
公園の中に、自分と同じ制服を身に着けた少女がいる。
(すごく綺麗な人……)
かをりは一瞬、見惚れる。
少女は、春とは対照的な、冬のような容姿をしていた。
まるで、桜の花びらの中に雪の結晶が混じっているようだ
少女はこちらの存在に気付いて、近寄ってくる。
「……そっか、まだこの時の君は、そんな風だったんだね」
「え?」
ぽかんとするかをりに、少女は薄く微笑んで、こう尋ねてくる。
「私は瀬尾ゆりな。教えてほしいな? あなたの名前は?」
────────────────────────────────―
ゆりなは目を細めて、目の前の少女をみつめた。
一言でいえば、どこにでもいる女の子だ。
金髪のおさげ。黒縁の眼鏡。うつむきがちな顔は、少し陰気な雰囲気を漂わせている。
ゆりなの知識にある、彼女とは別人にしか見えない。
それでも一目見て、宮園かをりだと分かった。
己の死を受け入れ、覚悟を決める前の彼女は、こんな女の子だったのだ。
(……ここからだ)
ゆりなは、固く自分のこぶしを握り締めた。
タイムリミットは3年間。
解決策は何一つ思い浮かばない。
自分は本来あるべき、この世界の運命を変えようとしている。
自分は間違ったことをやっているのだろうか。
これは善意? それともエゴ?
いや、違う。
これは、たったひとつの、祈りにも似た願い。
宮園かをりを救いたいだけなんだ。
とりあえず書いてみました。続きは気分しだいということで。