翌日、宣言通り、本部の食堂にやって来た。
ちなみにここは、職員でなくても一般の人が食べに来ることができる。省庁の食堂が一般開放されているのと似たようなものだ。
昼時の食堂はほどよく賑わっており、一般人らしき方もチラホラ。
そして、皆さんの脳味噌は露出──はしておらず、今のところ無事である。頭部はどなたも定位置に収まり、咲いている方は一名もいない。結構なことだ。
肝心の折り目の具合だが、検分したところ、くしゃみしそうな中間、といったところだった。
伝わるだろうか。「ふ」と「ふぁ」の間。鼻の奥がむずむずして、出るか、出るか、と身構えて、まだ出ない。世界の深い階層が、今、あの状態にある。出そうで、出ない。この均衡が崩れて開いてしまえば、空が黄金色に染まるかもしれないし、神々しい光が雲の隙間から柱のように降りる可能性も、無きにしも非ず。ああいうのは開き方の癖によるので、開けてみるまで演出がわからない。
とりあえず私は、ハマチの定食を頼んだ。
検分といっても、やることは近くで、深いところを、じっと見るだけである。傍目には、窓際でハマチを食べている中年だ。完璧な擬態である。私は箸を割り、ハマチを一切れ、口に運んだ。
むちっ。ぷりっ。
「……素晴らしい」
ちなみに、今の感想はハマチに対してのもの。脂の態度が決めかねているどころか、白身と青魚の間で優雅に舞踏会を開いている。美味い。楽園の検分に来て魚に感動している場合ではないのだが、美味いものは美味いのだから仕方がない。
さて、と私は箸を置かずに、視線だけを深く沈めた。
緩みの中心は、思ったより近い。構造を検めるために、もう少し、深く──
「あっ」
開いてしまった。
その瞬間、ベルが鳴り響いた。
火災報知器の系統だろうが、音が凄まじい。食堂全体がベルの音で満たされ、一般の方が立ち上がり、職員たちが弾かれたように動き出す。センサーの何かが、さすがに拾ったらしい。網も、決壊なら捕れるのだ。
そして、開いたせいで、私も含めて皆さんの頭が……
咲かない。
咲いていない。誰一人。
なぜかというと、私がちょっと、抑えているからである。
白状すると、開いた瞬間に理解した。原因の何割かは、私だ。くしゃみしそうな鼻の奥を、私が真正面からじっと見た。見られると応える、というのはやばいやつらの基本原理だが、世界の折り目も根っこは同じだったらしい。私の視線の重さが、むずむずの最後のひと押しになった。ちょっと見すぎて、くしゃみを刺激した可能性が、ある。可能性というか、ほぼ、ある。
なので、責任を取って開口部に私の存在を蓋として当てている。滝の落ち口に、岩を置く要領である。座ってハマチをつつく姿勢のままに堰き止めている。傍目には、避難の喧騒の中で一人だけ悠然と定食を食べ続ける不審な中年である。
断っておくと、これは膜のようなものなので、私の脳味噌が咲くことはない。原液が直接かかっているわけではないのだが──蓋というのは、要するに圧を全部引き受ける係である。私という存在の、やられちゃいけないところが、今、やられちゃいけないことになっているのは、自分でも理解できる。
人間の身体で喩えるなら、スプラッターな状態。
私に連なる存在がもしこの光景を視たら、顔を青くすることだろう。「何をやっているんですか」と言われるに違いない。何をやっているかというと、定食を食べながら世界の蓋をやっている。説明しても青いままだろう。
窓の外は、大変なことになっていた。
空が、すごく黄金色である。その空には、よく分からん幾何学模様が浮かんでいた。魔法陣的な、と言えばいいのか。円環と、放射と、どこの文明のものでもない文字列が、雲の高さでゆっくり自転している。開き方の癖としては、かなり演出過剰な部類だ。近隣の住民のSNSが今頃えらいことになっているだろう。
今は私が抑えているから、皆さんの器は無事だろうけど、この蓋、いつまで持てばいいのか。
皆さんは大慌てで行動していた。職員が走り、無線が飛び交い、その喧騒の向こう──食堂の奥の方で、カタギリさんが口元をナプキンで拭きながら足早にどこかへ向かうのが見えた。
あ、いたんだ。
彼女も昼食中だったらしい。トレイの上は蕎麦だったと思う。
私は最後の一切れを食べたあと、立ち上がった。ついでに、コップの水を流し込む。
空は相変わらず黄金色である。
さて、と改めて考えてみる。そもそもなぜ、よりにもよって本部の近くで開いたのか。ここには、職員のうち本当にごく一部だが、軽い神性と接続している者がいる。確認済みだ。名前は出さないでおく。あの人やあの人が、まさか、と知れると色々と気まずいからである。
そこへ、以前の降臨系。
まず間違いなく、あの神性持ちの人たちもあの日、普通に出勤していたはずだ。降臨のあった、あの騒ぎの日に。であれば、話は繋がる。格の高い降臨と、地上でうっすら神性を帯びた人間たち。両者が同じ場所に居合わせれば、本人たちに自覚が無くとも、世界で小さな綱引きが起きる。その余波が、たまたま折り目を揺すってしまった。今日のこれは、その時に入った罅が、ようやく表に出てきたものなのだろう。
そもそも楽園は、自然に現出することはほぼ無い、と言い切っていい。あれが動くときは、大抵何かが触れている。今回は、それが降臨と、人と……もしかすると私の視線。
そう考えると、以前降臨したやつは分かっていた通り、楽園に近い側の存在だったし、中々に格が高かった可能性がある。というか、私のお腹が痛くなった時点で相当なものだ。
よく、おかえりいただいたものである。監理局の総力戦は伊達ではなかったらしい。
私は、窓の外の魔法陣みたいなのを、もう一度見上げた。
円環と放射と、どこの文明のものでもない文字列が、黄金の空でゆっくり自転している。
……正直、ちょっとだけカッコイイな、と思った。
こういうのは、素直に認めることにしている。綺麗なものは綺麗なのだ。
私はトレイを持って、返却口へ向かった。