トレイを返却した私は、とりあえず外に出た。
規模的に、避難だとかは到底無理だからである。あの折り目の直径を考えると、避難区域は関東平野くらいになる。関東平野を避難させる手段は、たぶん監理局にも無い。であれば、避難させない方向で片付けるのが筋というものだ。片付け係は、まあ、私しかいない。
外に出ると、相変わらず魔法陣みたいなのが、空でぐるぐるしている。
そして、見上げてわかった。かつて私が開いた時は本当に小規模だったので知らなかったが──あれが本体なのだ。きっと本来なら、あの円環から頭をハッピーにする波動的なものが、地上に向けて伸びる仕組みなのだろう。というか、もろに伸びているのを感じる。今この瞬間も中心から、至福の原液が柱のように降りようとして、私の蓋に堰かれて渦を巻いている。
空が黄金なのも相まって、なんというか、宗教画っぽい光景である。天使の梯子の、悪い版。いや、良すぎる版か。宗教画というのは案外、昔の誰かがこういうのを遠くから見て描いたのかもしれない。近くで見た画家は咲いてしまって画業を続けられなかっただろうから、遠景ばかり残ったのだ。
通りでは、人々が空を見上げて、写真を撮っていた。
「オーロラ?」「プロジェクションマッピングじゃない?」「バズるわこれ」
呑気なものである。まあ、呑気でいい。君たちの頭上で世界の深層が決壊しかけていて、それを不審な中年が一人で堰いていることなど、知らないでいい。知らないでいられる世界を維持するのが、蓋の仕事である。
私はその人波の端に立ち、閉じていいかどうか、安全確認のために深いところを探っていった。
うーん。
このまま閉じても、問題は無いだろうか。開口部の縁は私が燃え上がらせてしまったせいでまだ熱い。強引に畳むと、縁が千切れて破片が現世に残る。破片といっても楽園の破片なので、落ちた場所が妙に幸せすぎる区画になってしまう。それはそれで観光地になりそうだが、住民の器がもたない。丁寧に、温度が下がるのを待ちながら畳む必要がある。えっと、それから──閉じたあとも、しばらく空は黄金色のままにはなりそうだ。あれは空気の側に染みた色なので、抜けるのに数日かかる。魔法陣も、残像がしばらく──
などと色々考えていたら、
「──そこの、あなた」
いつの間にか、複数の人を連れたカタギリさんに、話しかけられていた。
全員、女性である。カタギリさんを先頭に、白装束が一人、作業服が一人、巫女服が一人。監理局の実働で女性が固まっているのは、例の、昔からのあれである。こういう非常時の最前線に立つのは、結局、力の強い側なのだ。
カタギリさんの目は、据わっていた。
「やはり、あなたはおかしい」
挨拶抜きの直球である。彼女は端末を掲げた。画面には、食堂の監視カメラの映像。ベルが鳴り響き、全員が避難する中、窓際で一人、悠然とハマチを食べ続ける中年が映っていた。私である。角度も良い。最後の一切れを名残惜しそうに見つめる横顔まで、実に鮮明に撮れている。
「非常ベルの中、完食して、水まで飲んで、トレイを返却」
「返却口が混むと思って」
「あなたが犯人なのでは?」
まあ、あんな呑気にしていたら、疑われる。疑う方が正しい。むしろこの騒ぎの中、監視カメラの確認から容疑者の特定、現場での接触まで、発生からわずかでやってのけている。確認が早すぎる。この人、本当に有能だな。やはりこの人は昇進させるべきだ。
一応、私は関係ない──と、言いたいところではあった。
あったのだが。
空を探っていた、ちょうど今、理解してしまったことがある。深部の記録を検めた結果、はっきりした。あの折り目、罅は入っていたが、罅のままなら保つ造りだった。降臨と神性持ちの綱引きの余波も、実は致命傷ではなかった。終わりかけの熾火は、罅くらいでは燃え上がらない。
燃え上がったのは、私が探ったからだ。
どうやら、私が深いところを覗きさえしなければ、特に問題はなかったらしい。あのまま放置しておけば、開くことも無く、静かに消えていったのだ。三人がかりでつついた、と昨日は思ったが、決定打は一人である。視線の一番重いやつが、一番深くまで覗いた。
結局、原因はほとんど私、という。
「……自分のせい……かも」
「なっ……!」
カタギリさんは絶句した。後ろの巫女さんが小さく「えっ」と言った。据わっていた目が、見開かれて、それから忙しく揺れた。カマをかけたら自白が出た刑事の顔である。いや、カマですらなかったのかもしれない。
「いや、その、ちょっと……」
説明が難しかった。「終わりかけの世界の折り目を心配して覗いたら視線が重すぎて息を吹き返させてしまった」を、どこから話せばいいのか。前提だけで日が暮れる。なので私は、説明を諦めて結論だけ言うことにした。
「私が、なんとかする」
カタギリさんは、また変な顔になった。
言語化するなら「やっぱお前変じゃねえか」の顔。疑惑と、困惑と、しかし過去の妙な実績への信頼が、顔面の上で三つ巴になっている。
「なんとか、とは」
「閉じる。あれを」
「閉じ──」
「ただ、閉じても、しばらく空は黄金色のままになる。あと、あの模様も、残像がしばらく残る」
「……」
カタギリさんは何か言いかけ、飲み込み、手帳を出して何かを書いた。書いてから、私をじっと見た。この人のじっとも、だいぶ重くなってきたと思う。
さて。
私は空に向き直り、閉じにかかった。
やり方としては、蓋として当てている私の存在を、開口部の形に沿わせて、縁ごと内側へ折り込んでいく。傷口を縫うのではなく、傷口の周りの世界ごと、優しく畳み直す。規模が規模なので、私の存在の、普段は畳んである部分も、久しぶりに広げに広げて──
そしたら。
「ぎゃっ!」
なんと、私はめくれた。
想像以上に、想像以上だった。規模が、やはり大きすぎたのだ。畳むために広げた私の存在に、堰いていた原液の圧が、全周から一斉にかかった。膜が保たなかった。そして深部で弾けていたやられちゃいけないところの損傷が、存在の側から、この身体の側にまで、波及した。
おかげで、私は激痛を味わう羽目になった。
そう──八重咲きである。
頭がめくれた。頭蓋が萼になり、脳味噌が花弁の形に展開した。前回と違って多幸感は無い。膜越しなので原液のハッピーは来ず、純粋な、物理相当の激痛だけが来た。いつぶりだろう、この鮮度の痛みは。腹痛が愛しいなどと言った過去の私を殴りたい。愛しさには上限があるのだ。八重咲きは、上限の向こうである。
「ひいっ!」
カタギリさんが、腰を抜かした。
尻餅をついたまま、後ずさっている。白装束の人は印を結びかけの手のまま固まり、作業服の人は無線を取り落とし、巫女さんは真っ白な顔で数珠を握りしめていた。そうだろうとも。目の前で中年の頭部が開花したのだ。訓練で想定される事態の、たぶん一覧の外である。
たまたま私を視界に入れていた一般人の方々もとんでもない顔をしているのが分かった。
すまない、と思ったが、口にあたる器官が今、花弁の裏側なので、発声ができない。
そして──その瞬間だった。
空の魔法陣が、高速回転を始めた。
ぐるん、ぐるん、と円環が加速し、放射の文様が残像で繋がり、黄金の空全体が、渦になっていく。
あ、これは……
これは、あれだ。楽園側の仕組み──
そうして、眩い光が世界を包み込み──
気がつくと、私は夕方の路上に、普通に立っていた。
頭は、咲いていない。定位置である。空を見上げると、黄金色は残っているが、魔法陣は消えていた。折り目も──探ると、綺麗に閉じている。
通行人は普通に歩いている。誰も私を見ない。腰を抜かしていたはずのカタギリさんたちの姿も無い。
その後、確認したことをまとめると、こうだ。空は数日で元通りになったし、グロい私の記憶も、誰にも残っていなかった。監視カメラの映像も、あの時間帯だけ大気光学現象による映像障害になっていた。私は何事もなかった顔で家に帰った。
あの高速回転は楽園の、人間に対する自浄作用の一種である。
言い回しが難しいのだが……楽園というのは、その存在を本当に正しく認識されると、認識した側の器が割れる。あくまであれは頭をハッピーにするもの。だから、器を守るために、目撃者の記憶やら記録やらを、まとめて吹っ飛ばして、出来事そのものを天井の裏へ祀り上げてしまうのだ。
おかげで、何もないことになった。
もちろん、ある程度は調整した。自浄作用は雑に全部消そうとするので、良い感じに持っていってもらった。腰を抜かしたカタギリさんの中では、あの時間は屋外で広報対応の打ち合わせをしていた、的な感じになっているはずである。
ただ、あの規模の自浄の流れに逆らって調整するのは、さすがに骨だった。
家に着いた時には、私はかなり疲れていた。存在の深部はスプラッターの直後だし、身体は八重咲きの残響でぎしぎし言っているし、何より、集中というものを久々に長時間やった。
熱燗をつける気力も無く、私は布団に倒れ込んだ。
なんだか、久々に、ちょっと頑張った気がする。
昔から数えて、頑張った日というのは、両手で足りるほどしかない。今日は、その指の一本に入れてやってもいい。原因のほとんどが私であることは、指を折る時だけ、忘れることにする。
いやはや。
見てはいけないものが空から降り、電車は彼岸へ行き、人形が助けを求め、頭が咲く。ずいぶんと物騒な世界である。それでも、こんな世界ではあるが──食べ物は美味しい。
今日のハマチは、ぶっちゃけ過去最高だった。それだけで、この世界には十分に価値がある。
これからも、この世界で私は上手くやっていきたい。
そう思いながら、私は目を閉じるのだった。