とある日のことである。
私はベーコンを焼いていた。カリカリにする派だ。カリカリ派の真髄は弱火にある。強火で急ぐ者は永遠にカリカリに届かない。脂をじわじわと引き出し、脂で脂を揚げる。時間ならある。私ほど時間のある存在もいない。
そこへ端末が鳴った。監理局支給の、例の協力要請である。
ただ、ベーコンには弱火の都合がある。私はまずフライパンと相談し、頃合いを見て一枚食べた。
……かなり良い。歯を入れた瞬間にパリッと鳴り、その後に脂の甘みが来る。九十点。気分が良くなったので、要請にOKを出した。世の中の重要な意思決定の何割かは、たぶんこういう理由で下されている。
座標の場所は、郊外の雑木林の入り口だった。
一歩踏み込んだところで、目が見えなくなった。
正確に言うと、視覚が「取り上げられた」。暗闇ではない。暗闇なら「黒が見えて」いる。これは視覚という機能ごと、受付で預かられた感じである。ついでに音も遠く、上下の感覚も曖昧になった。
なんだろうと思って少し歩き、なるほど、と合点がいった。異界系だ。現実の土地に貼り付いたポケットのような空間で、入った者の感覚を取り上げ、出口を溶かし、中で弱らせてゆっくり食うタイプ。監理局の分類だと「胃袋型」とか言うんだったか。要は、私は今、消化されている最中らしい。
それはそれとして、歩きながら考えていたのは、ベーコンのことである。
九十点と言ったが、あと十点はどこにあったのか。おそらく、最後の三十秒だ。余熱に任せる勇気が足りず、火の上に置きすぎた。脂が一段だけ焦げに寄った。次はフライパンを先に降ろそう。感覚を全部取り上げられると、人は思考が捗って困る。
そうやって出口の継ぎ目を手探りで辿っていると、前方に気配があった。
「だ、誰かいるんですか……!?」
若い男の声だった。監理局の作業服を着ている、と声の感じでわかる。そいつは新人だと名乗った。先輩とはぐれて、もう何時間も歩いている、と。
絶望顔をしていた。声だけで絶望顔とわかる声というものがある。
放っておくわけにもいかない。「継ぎ目はあっちだから、ついておいで」と連れて歩いた。彼は途中から泣いていた。出口らしき明るみが見えたあたりで、泣きながら感謝された。ありがとうございます、ありがとうございます、あなたは命の恩人です、と。
良かった良かった。若い子が助かるのは良いことだ。
……と、思ったのだが。
明るみをくぐった先は、出口ではなかった。
そして隣を歩いていた新人さんの感謝が、内側からめくれた。ありがとうございます、の「ざいます」のあたりが伸びて、人間の声が出してはいけない周波数に落ちていく。作業服の気配だったものが、気配ごと開いた。ああ、なるほど。
こいつも、あっち側だったらしい。
つまりこうだ。この異界の本体は雑木林ではなく、新人さんのほうである。遭難者を装って合流し、感謝で気を許させ、出口だと思わせた場所……胃の一番深いところまで、獲物に自分の足で歩かせる。効率的で、性格が悪い。感覚を取り上げていたのも、こいつの声の違和感を隠すためだろう。道理で、視覚がないわりに彼の絶望顔だけ妙にわかったわけである。わからせられていたのだ。
普通の人なら、ここで死ぬ。希望を見せられてから食われるのだから、味付けまでされている。実際、私も普通の人なら死ぬような思いをした。主に、善意を利用された悔しさで。
しかも、ここからが図々しいのだが、脱出もできなかった。継ぎ目を辿り直しても、辿った先から編み直される。編む速度が私の歩く速度より速い。永遠に歩かせる気だ。永遠なら私の専門なのだが、こういう永遠は好みではない。
仕方ない。
私は、本当に脱出することにした。
やり方の説明は難しい。強いて言えば、それまで私は異界のルールに礼儀として付き合って歩いていたのだが、その礼儀をやめた。ドアを探すのをやめて、ここに壁があるという合意から降りた、と言えば近いだろうか。
一歩、踏み出した。
足の下で、世界が薄い音を立てた。
気がつくと雑木林の入り口で、夕方だった。視覚が返却されている。空が茜色で、たいへん結構である。
規制線の向こうで、カタギリさんが口を開けてこちらを見ていた。監理官が現場で口を開けるのは、たぶん良くないことなのだと思う。
「……今、どこから出てきました?」
「中から」
「入り口は、封鎖と観測で固めていました。誰も出てきていません。あなたは今、何もない空中から」
「まあ、そういう出方になるよね、あれは」
そして、私の背後で音がした。
振り返ると、雑木林に貼り付いていたそれが、崩壊するところだった。音としては、氷の張った湖に無理な重さが乗った時のあれに近い。空間の継ぎ目という継ぎ目から罅が走り、内側の暗がりが自分の重さを支えきれなくなって、静かに、畳まれていく。最後に、あの新人さんの声が一瞬だけ漏れた。感謝の声ではなかった。
異界は、私に耐えられなかったらしい。
胃袋というのは、消化できるものを飲むから胃袋でいられるのだ。飲んではいけないものを飲むと、ああなる。気の毒なことをしたとは思うが、先に善意を利用したのはあちらである。おあいこ、ということにしておく。
計器を抱えた職員たちが走り回り、お坊さん……また彼が数珠を取り落とし、カタギリさんは私の顔をじっと見て、それから諦めたように手帳を開いた。
「報告書には、何と書けば」
「自然崩壊、でいいんじゃないかな」
「自然……?」
「私は自然物だよ。たぶん、この国の何よりも」
カタギリさんは何か言いかけて、やめて、「自然崩壊」と書いた。書いてから、小さく「絶対違う」と呟いたのは聞こえなかったことにする。
家に帰って、ベーコンを焼き直した。フライパンを三十秒早く降ろした。
九十八点。
残りの二点は、たぶん、気分の問題である。今日はいろいろあったから。