異界崩壊の一件から数日後、また黒い車が来た。
応接間という名の私の居間で、カタギリさんは書類の束を置き、単刀直入に言った。
「常勤になってください」
まあ、そうなるだろうなとは思っていた。空中から出現して異界を踏み潰す協力者をたまに呼ぶ係のままにしておけるほど、役所というのは度胸のある組織ではない。明らかに私は異常なので、管理下に置きたい。囲いたい。できれば毎朝九時に出勤させて安心したい。
「社畜になるのは嫌だなあ」
「待遇は考慮します」
そう言って彼女が紙袋を差し出した。中を見て、私は少し黙った。
いぶりがっこのクリームチーズ和え。ホタルイカの沖漬け。あん肝。鮒寿司──上から下まで、私の好きなつまみである。それも酒好きに無難なやつではなく、私という個人の急所だけを正確に射抜いてくる布陣だ。
「……なんで知ってるの」
「先日お邪魔した際、冷蔵庫を開けられたので」
そういえば、麦茶を出す時に開けた。あの数秒か。あの数秒で、庫内の在庫から嗜好を割り出したのか。目敏いね。監理局は怪異よりこの人の観察眼を指定した方がいいんじゃないか。
「それと、台所の棚の日本酒の並び順から、発酵系がお好きだと推定しました」
推定まで合っている。怖い。
正直に言うと、迷った。迷いまくった。社畜は嫌だ。月曜日は嫌だ。朝礼は嫌だ。しかし鮒寿司は良い。この蔵の鮒寿司が待遇に含まれる人生は、検討に値する。私は永遠の中でいくつもの国の興亡を見てきたが、ここまで迷ったことはそう多くない。
私が三度目に「うーん」と言った、その時だった。
窓の外の光が、質を変えた。
夕方でもないのに世界が茜がかり、その茜が、見てはいけない側の茜になった。同時にカタギリさんの端末が聞いたことのないほど大きな音で鳴り……鳴った直後、沈黙した。テレビも点かない。スマホも圏外。通信系が、根こそぎ落ちた。
「こ、降臨系……!」
カタギリさんの顔から色が引いた。手帳を落とすほど慌てている彼女は初めて見る。曰く、電波や回線が祈りの経路として先に食われるため、降臨系の初動では通信が全滅するらしい。そして落ちた方角からして、顕現点は本部のかなり近くだという。
「避難します! 直ちに!」
彼女がさっさと玄関に向かうので、私もつっかけを履いてついていった。プロが青い顔で走る時は、素人も走るのが礼儀だ。
カタギリさんは俯きながら、決して上を見ようとしない。
けれども外に出て、私はつい、上を見てしまった。
いた。
ビル群の向こう、本部のあたりの空に、それは降りてきていた。言語化はできない。強いて言えば、空の一部が上座になっていた。そして例によって、視線(?)と目(?)が合った。
合ってしまったものは仕方がない。私は立ち止まり、しばし見つめ合った(?)。
向こうの視線(?)は、これまでの連中とは格が違った。頭の中身を裏返すどころではない。存在の帳簿を開いて、勘定を検めてくるような圧である。私の内側の、普段は誰にも触らせていない深いところが、みしりと軋んだ。
そして、お腹が痛くなった。
そこか。
存在の根源でも魂の座でもなく、腹に来た。それも、崇高な痛みではない。冷えた牡蠣を疑いながら食べた翌朝の、あの、極めて現世的な差し込みである。降臨してくるほどの格の存在が、私の帳簿を検めた結果、揺らがせることに成功したのが、腹。
中々やるじゃないか。ここ千年で私に物理的な影響を与えた存在は、あれと、去年の牡蠣くらいのものである。大したものだ。敬意を表したい。
表したいのだが、便意が凄かった。
見つめ合い(?)を続ける精神的余裕はあった。余裕はあったが、腸に余裕がなかった。永遠を生きる者にも譲れない一線というものがあり、それは尊厳という名の、要するにトイレである。
私は視線(?)を切り、さっさと避難した。歴史上、私が何かから退いた記録はほとんどないが、今日のこれは退却ではない。転進である。誰が何と言おうと転進である。
避難所になっている近所の公民館のトイレは空いていた。世界に感謝した。
その後、降臨系は監理局の総力戦──遠くから読経と祝詞と、なぜかサイレンと雅楽が同時に聞こえる、賑やかな夜だった──の末にお帰りいただいたらしく、通信は翌朝にはちゃんと回復した。復旧一番のニュース速報が通信障害のお詫びだったのが、この国らしくて良い。
そして、常勤の話は有耶無耶になった。
本部は事後処理で戦場、カタギリさんは三日帰宅できず、書類の束はどこかの決裁の海に沈んだらしい。
私は紙袋のつまみだけをありがたく頂いた。有耶無耶の間に食べてしまえば、それは手付金ではなく、お土産である。
鮒寿司は、素晴らしかった。この蔵は良い。千年前から良い。
いつかカタギリさんが束を抱えて再訪してくるのだろうが、それはその時に迷えばよい。迷う楽しみが残っているうちは、人生は上等である。