────がちゃん。
閉扉、乾いた音。
2人分の足音が遠くなった頃、両目のコンタクト…正確にはn番『エディタ』を外す千景さんに向けて、所長が言葉を飛ばす。
「どうだった」
「至った普通スね。見ての通りって感じです」
千景さんの手元、琥珀色に光を放つコンタクトレンズ。
──n番『エディタ』
視界内、任意の対象の感情シグナルを察知、推察される心理状態をオブジェクトとしてAR表示する事で視認可能とするウェアラブルデバイス。
情報収集・推察は強制的に実行、装着者の意識に直接
2人の話題の芯は恐らく陽戸。
普通、ですか。アレが。
特異な能力。未申告。
それでもまぁ、今のところは異論無い。見る限り、言葉を交わした限りは至って普通の女子高生。…劇物を隠し持っている事以外は。
今日の様子、千景さんが『エディタ』で観ていた以上はもっと違う言葉、私と同じ意見を期待していた。
「僕は観ていない。砂溟君に至っては今の今まで君が観ていた事を知りもしなかった。もっと具体的な報告を心掛けたまえ」
「″見″ての通りっつったでしょ。伝わんねーかなぁもう。ずっと凪乃ちゃん凪乃ちゃん、桃色矢印全集中スよ」
桃色矢印、好意のサインか。
アレが。夜明さんに?
追加、異常な執着。
「あぁ、それと」
千景さんが勢いよく事務椅子に腰を下ろし、がしん、と高い音が鳴る。
部屋の奥から珈琲を淹れに行った所長の小言が聞こえ、千景さんが軽口を1つ返す。
その後、ため息を1つ吐いて話し始める。
「左ちゃんのお祭り紹介コーナーの時。めちゃくちゃ花が舞ってましたよ。あとお菓子だったり魚だったり月だったり。勿論凪乃ちゃんに向けて飛んでたスけど」
小さく「余程楽しみなんでしょうね」、と一言零す。付け加えるように。
湯気の立つカップを片手に、所長が戻る。よく見ると、もう片方の手には腕輪が握られていた。
初めて見るモノ。千景さんの新作だろうか。
「危険性は低い、と」
「現時点では。そうスね」
話を続けながら、腕輪が静かに机の上に置かれ、そっと私に向けて差し出された。
「結構、今日のところは陽戸君の件は〆とする」
話を終えた所長の視線がこちらに向けられる。
丸いレンズの奥、暗い瞳。見透かされているような、鋭い光を含んだ切れ長の眼。
「それで、」
落ち着いた口調。怒りの音は含まれていない。
「砂溟君、昏の間はコレを付けておくように」
無地、無装飾、三重に螺旋を描いた銀の腕輪。
軽い、素材は…なんだろう。
「すみません、こちらは––」
「羽々斬の新作だ。
銘は未定だが、今は『失効』と呼称する」
間を置かず返った言葉に、一瞬だけ思考が停止する。
…失効?なにを、
「匣の開錠権限だ。本来の用途では無いが…こうでもしない限り休もうとしないだろう、キミは」
困惑が表情に出てしまっていたのだろうか。
抱いた疑問を先回りしたかのように消化されていく。
「…鹿々桜一部地域における生態系の構造と動態及びその評価に関する研究、拝読した。見事だったよ。特に渡蟻《わたり》のルーツ、面白い着眼点だった」
…論文、私の。先日提出したもの。
話の繋がりが、意図が読めない。
「キミは優秀だ」
所長が手にしたカップを口元に運ぶ。
湯気でレンズが曇る。
「が、だ」
「……」
カップが机に置かれ、所長が1つ息をつく。
「若く、優秀な者ほど、
取り返しのつかないモノを後回しにする」
…取り返しのつかないもの。
言葉にはできない疑問が、いくつか浮かぶ。
「せっかくの無害な異常なんだ。
今を楽しみたまえ。また、それ以上に これからを」
「……」
…これからを、ですか。
自分でもはっきりとしない言葉達が頭の中で浮かんでは、弾けていく。心が膿んでいくようで、澱のように沈んでいく。
数秒、沈黙が落ちる。
────オニーチャン オニーチャン オニーチャン オニーチャン♪
「…?」
場違いな少女の音声が静まり返った部屋に響く。肉声ではない、電子音。一定のリズム…着信音か?
「ああ、すまない。僕のだ」
所長が白衣のポケットからスマホを取り出し、音が鎮まる。
「すまないが用事が入っていてね。
僕はここで失礼するが、砂溟君。
昏の間だけでもいい。存分に遊びたまえ」
所長はそう言い残し、未だ湯気立つ珈琲をぐっと飲み干し、足速に部屋を後にした。
事務室には机に足を乗せ、ホットアイマスクを付けた千景さんと私が残された。
行儀もなにもあったものではない様子の千景さんに向けて素朴な疑問を1つ投げる。
「今のは何だったんでしょうか」
「くくっ。ああ、あれっスよ。祭歌ちゃん…妹ちゃんの小さい頃の音声録音。着信音に…ぷふっ、してるんスよね…あの人。だはははははは」
アイマスクをズラし、傑作、といった笑い声を上げる。
「…ありがとうございます」
なんだそれは、とは言わない。
妹さんと話している姿は何度か見た事があるが、それを思い出して納得できたからだった。
体勢を崩し、文字通り椅子から笑い転げている千景さんから視線を外し、時計を見る。
時刻は18時30分。空は既に暗がりが見え始めていた。『昏』を控えた今、夏にも関わらず日は短い。
「私もこれで失礼します。
千景さん、今日はありがとうございました」
「はー腹いた。あぁ、もう暗いスから途中まで。左ちゃん、足元気を付けてくださいね」
「ありがとうございます」
一通り笑い終えた千景さんが立ち上がり、ドアを開ける。背を追って、3歩後ろを続く。
昼間通った渡り廊下。吹き抜ける風が涼しい。暗がりで見る庭園は、また違う味わいがあった。
渡り廊下を抜けた時、千景さんが口を開く。
「『失効』スけど、昏が終わる頃には外せるようになるんで。安心してくださいね」
『失効』。不可思議な形状の腕輪。私の枷。
「……わかりました」
数分して、出口へ辿り着く。
千景さんに促されて『失効』と呼ばれた物を左の手首に通す。
一瞬だけ掌に熱が灯る気がしたが、瞬きもしないうちにその感覚は消えていた。
一時的とはいえ、これで私の匣の開錠権限は失われた訳だ。
権限を対価に得た暇。一瞬、不安が過ぎる。
…私は、何をすれば、
「左ちゃん、休暇は心置き無く楽しむものですよ」
千景さんの言葉で、ふと我に返る。
「今日はまずまっすぐ帰って寝ること。
ご飯もちゃんと腹いっぱい食べるんスよ」
「…ありがとうございます」
一礼して、支部を後にする。
「ありがとうございます」「わかりました」
今日だけで何度口にしたのだろうか。
やるべき事を見失って、狼狽えて。
一言しか返せない。
誰そ彼時の街並をとぼとぼと歩く。
頭上には星々が瞬いている。遠い光。
届いているのは、過去の輝き。
「楽しむ…今を、これからを」
所長の言葉を復唱してみる。小さい声で。
今、これから?
楽しむ…?私が…?
私は、ずっと過去に囚われている。
私の家族には、今もこれからも無い。
ずっと過去だ。過去の光だ。
忘れもしない、11年前の7月26日。
真実を知ったあの日。
私の世界が、夜に堕ちた日。
DMI-0188 砂溟 左
氏名:砂溟 左(さくら ひだり)
性別:女性
年齢:19歳
生年月日:奏元元年5月13日
家族構成:
父(故)
母(故)
兄(故)
親族 1名
出身地:
傳田《でんた》府
現職:
主幹研究員
前歴:
研究補助員
職員番号:CS-074
在籍状況:在職
所属:百目鬼研究所 本部
権限区分:第三種特別閲覧権限
人物所見:
対象は情報収集及び現地調査に優れる。
学業成績は良好であるが、特筆すべきは実地環境下における適応能力であり、野外活動及び生物採集において高い成果を記録している。
また、観察対象との適切な距離感を維持する能力に優れ、長期的な追跡調査業務への適性が認められる。
一方で、対象は危険性の高い能力事例に対して慎重な姿勢を示す傾向が確認されている。
しかし現時点において調査業務への支障は認められない。
記録者:
副所長 望月 七彩
勤務評価:
調査業務全般において高い成果を維持している。
特に現地調査及び長期観察業務における評価は高く、若年職員の中では安定した実績を有する。
一方で、危険度評価の高い案件については慎重な判断を行う傾向が見られる。
総合的に見て、将来的な管理職候補として期待される人材である。
記録者:
所長 百目鬼 祀
最終更新:
奏元18年4月1日