時計の針が19時を差す頃、豪邸で待つ兎と碧の元へと帰り着く。
茜に群青の滲む空の色、
一寸先の顔も闇に朧む時間帯、
曰く、誰《た》そ彼時《がれどき》。
空にはいくつかの星が瞬いている。
『昏』が近いからか、夏だというのに日は短い。
「暑涼しいね!風が温くて!
楽しみだなぁ〜、ぐれ?…く、『昏』!」
廻琉といえば、所長の話を聞いてからずっとこの調子であった。帰路の間、体力の続く限りぴょこぴょこと跳ねてはお祭りの話を繰り返していた。
「最初はスイーツだっけ!?あ、花火大会だったね!!第1回?ってことは2回目もあるの、かな!?」
ん。と小さく発声し、合わせて小さく頷く事でやり過ごす。それでも満足気な笑みを浮かべてくれるのだから、ひとまずは良しとしておく。
幼子のようで微笑ましいといえば微笑ましいが、2時間近く付き合うと、まぁ疲れるものだ。
5棟連なるテラスハウスの真ん中の鉄扉に手を掛け、重たい音を立てて扉が開く。
「おかえりぃ〜〜っ!」
わざわざ玄関前で待ってくれていた碧が、威勢のいい声で出迎えてくれた。
「いぇいのいぇいの!いぇーい!」
「いぇいいぇい、いぇーい!」
2人で左右交互に前腕を組んでハイタッチ。
廻琉に負けず劣らずのハイテンション具合で些か胃がもたれそうになる。
「ご飯できてるからねぇ!
今日は兎リクエストでハヤシライス!」
碧がそう言い残して、小さい歩幅でてこてことリビングの方に駆けていく。
…昨日カレーだったのに?いいけどさ。
兎リクエストか、相変わらずよくわからないチョイスをするものだが、碧の作るものなら、味に疑いはない。
それに今日は随分とお腹が空いている。
そっとお腹に手を当ててみると、くぅ。と小さく胃が鳴いた気がした。
聞こえてはいないだろうか、と廻琉の方に目だけを向けると、視線がかち合う。
どうやら、
「お腹空いたね!えへへへ!…へへへ」
考えていることは…同じらしい。
「…凪乃、お先っ!」
「あっ!ずるっ」
一拍早く廻琉が駆け出した。
マズい、食べ尽くされてしまう。
くっ!先に着いてドカ盛りにしようと思っていたのに!
個人宅にしては長い廊下を、廻琉の背を追って駆けていく。
つい最近もこんな風に走ったっけ。
バイトの時、少しだけ急いていたあの時。
傷付けてしまうかもしれない罪悪感、捕らえたとして、後の事を知らない無力感。
あの時のように背を追っているけれど。
あの時とは違って、少し楽しい。
息を切らしながら。時々ちょっとだけ笑って。
こういうのも良いな、って。そう思えた。
***
時刻は20時過ぎ。
激ウマだったハヤシライスを食べ終え、4人でぼつぼつと食器を仕分け、片付けている頃。
黙々と形状ごとに食器を分けている廻琉と兎、それらを洗い場へ運ぶ私の横で、碧がにこにこと愛らしい笑顔を浮かべていた。
そうだよね、多いもんね。要るよね、手伝い。
「今日はぁ!4人で!寝るよぉ!」
シンクを叩く流水の音に負けじと、碧が声を張り上げる。ふふんと鼻を鳴らし、鼻歌交じりに洗い物を続けている。枕投げ、と小さく聞こえてきた気がした。
枕投げ。
なるほど。昨晩不機嫌だった理由はそれか。
おそらく、碧は昨日もみんなで遊びたかったのだろう。私と廻琉だけ別部屋で寝てしまったから。
あの不機嫌は、きっとそのせいだ。
良いだろう、遊ぶくらいなら。
今朝のツイスター、まぁ悪くなかった。
ご飯前の追いかけっこも、少しは楽しかった。
ちなみに、どちらも私が勝利を収めた。
一通り運び終え、食器を乾燥機に移し、ガラス製のものの水滴を拭きあげている時、
洗い物を終えた様子の碧に、すっと私の袖口を引っ張られて、小さな声が耳に届く。
「凪乃ぉ」
「ん?」
「お風呂!一緒に入ろぉ!」
──がたん!
「おいッ!廻琉!!?どうしたんだ急に!」
リビングの方から椅子の倒れる音と、兎の狼狽える声が聞こえてきた。が、あまり気にしなくていいだろう。
「ん。それはダメ」
「ぶぅ」
当然、きっぱりと断る。そんな顔をしてもダメ。
上手く言えないけれど、お風呂はダメ。
碧と兎とは10年来の付き合いだが、一度も互いの衣服で隠された部分を見た事はない。
理由はよくわからない。
機会がなかったのもあるが、ただ、なんとなくそういう気になれないでいたのだった。
「あ〜ぁ、残念だなぁ。へへ」
落胆、といった顔を見せた後、悪戯っぽく笑って、碧は風呂場の方へ行ってしまった。
扉を潜り、姿が見えなくなる寸前、
「また、あとでね」
碧がこちらに顔を向け、ぱちっとウインクを飛ばし、口パクでそう言って扉が閉まる。
碧は時折、普段の振舞いからは想像もつかないほど、大人顔負けに色香を纏った表情をする事がある。さっきのはどこまで本気だったのやら。
…さて、廻琉の様子でも見に行ってやるか。
***
今日の風呂順は3番手だった。
最後は廻琉。なぜか椅子から崩れ落ちたのち、完全に無気力化していた為であった。
廻琉が風呂場から出てくるのを待ち、廻琉の火照りが冷めぬうちに、碧が首を長くして待っているというマスターベッドルームとやらに足を運ぶ。
リビングを出て客間を抜け、第1倉庫に繋がる廊下をまっすぐ抜ける。
食堂とは反対側の棟。内装はさながら洋館といった様相だった。
ここには初めて足を踏み入れる。
廊下にも空調を効かせているのだろうか。蒸し暑さも無く、開放感に加えて気分が良い。
扉の続く廊下の奥、一際洒落た装飾の木製扉に掛かった【マスターベッドルーム】の板。わかりやすくてなによりだ。
「マスターだって。なんかカッコイイ、ね」
ん。ふ、たしかに。
ノブに手を掛けると、軽い音を立てて戸が開く。
扉の先には半球型の天井に覆われた、教室程の広さの円形の部屋が広がっていた。
中心には如何にもお高いですよ、といった見た目のセミダブルベッドが4つ、頭を突き合わせる形に二対で並んでいる。
柔らかな暖色系の間接照明で壁と天井が照らされ、空間は優しげな雰囲気で満たされていた。
マスターの言葉に恥じない内装の寝室を前に、廻琉が小さく感嘆の声を漏らし、1歩、2歩と恐る恐る足を踏み入れる。私もそれに追随する。
碧と兎の姿は…見えない、どこだろう。
きょろきょろと部屋を見渡してみる。
いるはずもないが、やはり天井に目が向いてしまう。まるでプラネタリウムを思わせるドーム天井。プロジェクターでも置いてしまえばまさしく、といったところだろう。
感心しつつ、右、左、と顔を向けた時、
──ぼふっ。
「んむっ!」
「だははは!やりぃ!顔面3ポイント!」
顔に柔らかな衝撃が訪れた。
兎か、暗がりに紛れていたようだ。
「うわっ!ちょ!どわ〜〜っ!」
「へへへへ!」
──ばふっ。
枕で視界が塞がれなにがなんだかわからないが、なにやら色々な音が聞こえてきた。
枕投げ、なるほど。
顔に乗った枕を引っ掴み、立ち上がる。
枕の飛んできた方向からして、…居た。
ベッドの脇でぶつぶつと計算している兎をロックオン。
「廻琉がカウンターで2Pだろ、あたしが3Pで、碧が1P…。ふっ、1位よゆ──」
──どふっ。
「んぐっ!」
「顔面3P、並んだね」
「凪乃!ナイスショットぉ〜っ!」
部屋の右奥から元気な声が聞こえてくる。
碧、そこに居たんだね。
「そしてっ──」
──ばふん。
「どわ〜っ!」
「これで6P。連続HITボーナスはないの?」
兎、碧の順で立ち上がるのが見える。
2人が視界に収まる位置にポジショニングして、
枕の積み重なった山から1つ手に取り、少しふんぞり返ってみる。
「1位余裕、だっけ?兎」
「つっ、つよっ!」
「クソっ!こうなったらチーミングだ!」
…それはズルくない?
ならこっちだって考えがあるし。
「廻琉、枕もって!」
チーミングだ!
反応して、碧の後方からひょこっと顔を覗かせているのが見える。
「2個!? 3個!?」
「……持てるだけ!」
「もっはおぉ!」
…口で?
その後は、ただ身体を動かした。
ただ体力の続く限りはしゃぎ回った。
誰が勝ったとか負けたとかは、覚えてない。
ただ、楽しかった。それだけで良かった。
4人の体力が切れた頃、一斉にベッドに倒れ込む。疲れているというのに、胸の中だけは充足感に満ちていた。
疲労のせい、だろうか。頭が回っていないのがわかる。
「…引っ越してもいい?」
ふと、溢れ落ちる。
胸の充足感の、ほんの一欠片。
「私も。ここに」
楽しかった、楽しかったから。
「また遊びたい。みんなで」
返事は3つ。響く笑い声は、4つ。
短い夜が更けて、朝日が昇る。
これからこんな夜がずっと続いていくのなら。
私もほんの少しだけ、好きになれるかもしれない。この夜を、それ以上に、これからの夜を。