7月10日の月曜日。
なんでもないというには少しだけ特別な日。『昏』を直前に控えた年の、1学期最後の登校日。
校門をくぐる前から、学校全体が浮ついているのがわかった。
土日を碧・兎邸で過ごし、4人で朝からわちゃわちゃしながら登校してきた私たちが言えたことではなかったけど。
「午後から!始まるねぇ、昏休み!」
「『昏』自体は13日の予報だったけどな」
「ならさならさ!搬入日!凪乃が明日で、わたしが明後日でもいい、かな!?」
3人は既に予定を立て始めている。
それを横目に、入職祝い(アルバイトだけど)にと砂溟先輩から頂いたスケジュール帳を開く。
まぁ、私の方は、
7/10 荷造り(帰宅後すぐに!)
7/11 凪乃 荷物搬入日 ¥28,000
7/12 廻琉 荷物搬入日手伝い
7/13 『昏』/第1回鹿々桜花火大会/
15:30~きもの勝ち旗 ¥15,000
もう立てている。
…ちょっと高いか。
昨晩、寝付けないから、と勢い余って浴衣のレンタルまでしてしまった。4人分。
柄は当日選べるらしい、何色にしようかな。
「凪乃!荷造り、3人で手伝うからね!」
スケジュール帳を開いたまま、少しだけ惚けていた意識が廻琉の声に引き戻される。
「ん?あぁ、ありがと。助かる」
多くはないとはいえ、1人では手に余る量ではあった。ありがたい申し出だ。
隣でにこにこと笑う廻琉、少し前を碧と兎が歩く。暑いな、今日は。
頭上の太陽が少しだけ眩しい。
そっと空を見上げてみる。
蒼い空。遠くには影の深い入道雲。
さらに向こうには、堂々と聳える界桜樹。
今はまだ桜は噴いていない。大きい木のような、ただの山だ。
改めて、綺麗な景色だと感じる。
ちら、と目だけを隣に向ける。
ああ、でもやっぱり。
綺麗だな。と、
……何色が似合うだろう。と、
そんな事ばかりを考えるようになった。
***
11:15。役目を終えたホームルームにて。
「ではこれにて、1学期!完!」
さっちゃん先生の威勢のいい締めの言葉と共に、教室を歓呼の声が満たす。
大きくガッツポーズをとる者、ひとり静かに喜びを噛み締める者、喜びのあまり抱き合う者、中には机の上に乗って踊る者もいた。
一方、兎は碧を肩車で担いで走り回っていた。元気だなぁ。
ん、薄食さん踊ってる。意外、ちょっと可愛い。あ、危ない危ない。あっぶつかる。あぁ…。
「へへへっ。じゃ帰って荷造り、だね!」
隣から。
片隅でひとり小さく喜びを表現していた薄食さんにぶつかり、もみくちゃになった3人の様子を笑いながら廻琉が話しかけてきた。
「余ってるダンボール持ってこよっか?」
「ん、大丈夫。ある分で足りると思う」
ダンボールはなにかと便利である。
余程汚れたり、余ったりしていない限りはなるだけ綺麗に畳んでとっておくようにしている。
それにしても荷造り、か。久々かも。
当たり前だけど、一人暮らしを始めて以来だ。
ん。やはり役に立つ、ダンボール。
「行こ、廻琉」
「うん!へへ」
忘れ物なし、と。よし。
荷物を纏めて、未だもみくちゃの碧と兎、巻き込まれた薄食さんの元へと足を運ぶ。
3人とも怪我はなさそうでなによりだ。
「ふえぇえ。ひ、ひどい」
「わ、悪い。まさか居るとは」
「ふえええぇ。ひどいぃ!」
「うぅ、兎。ひどいよぉ」
…元気そうだ、なによりです。
それにしても可哀想に。
「薄食さん、大丈夫?」
アホの2人を差し置いて、ふえふえと泣きじゃくる少女に手を差し伸べる。
寝不足なのか、タレ目に常に残る濃いクマ。
仄かに青味がかった黒い長髪。
低めに結われたロングツイン。
綺麗な輪郭に沿って、少し長めに垂れたおくれ毛が特徴的な文学系少女。
「あっあ、あ、夜明さっ。ありがとうぅ」
少しだけ吃りがち。
これも彼女のチャームポイント、ではある。
触れる指先はやや冷たい。
立ち上がる為、ぐっと体重がかかるが、それでも軽い。ちゃんと食事を摂っているのだろうか、と時々心配になる。
「凪乃ぉ、わたしもぉ」
「あたしも。立たせてくれ〜」
……。自分で立ちなさい。
「じゃ、私たち先帰っとくね」
「待ってる、ね!」
「「うぃ〜っ!」」
明るい返事を返しつつ、のそのそと立ち上がる2人を尻目に廻琉と共に教室を去ろうとした時、
「よっ、よよよ、夜明さん!」
傍らで一息ついていた薄食さんに呼び止められる。どうしたのだろう。
「あっあたあた、あたし。お願いがあ、あって」
まさかとは思うが、また犬が逃げ出したから探すのを手伝って欲しい、とか?
「まっ、マルルのっ。マルルの尻尾に…た、タグが」
「タグ?」
予想は外れた。あまり好ましくない方向に。
マルルは薄食さんの飼う犬の名前だ。
タグ、これは啓示を受けた動物の証。
人間でいうカードと同じもの。
違いは形状の他に、文字による能力の判別が不可能、という点。
面倒というよりは、厄介な相違点。
飼育下にある動物にタグが出現した場合、原則として、飼い主には特定機関への報告義務が生じる。場合によっては、保健所に強制保護となる事がある。というより、その場合の方が多い。
「けっ研究所で働いてるって…言ってたから。
のの、能力の特定…お願い、できないかなって」
「でもさぁ、それって保健所に言った方が良いことなんじゃ」
碧が純粋な疑問を口にする。当然の疑問である。
私に頼むよりは、早いし確実だ。
特定機関、たしかに百目鬼研究所も含まれているが、あくまで私はアルバイト。
一度、所長か副所長、もしくは羽々斬先輩に話を通さなければならない。
彼女は常に挙動不審ではあるが、馬鹿じゃない。思慮深く、なにより心優しい事を知っている。
それでも私に頼んだ、ということは、なにか理由があっての事だろう。おそらく、それはすぐに明かされる筈だ。
「で、でっ、でも。ふぇ…」
「ん。大丈夫、続けて」
目に涙をためる少女に向けて、優しい声で語りかける。
大丈夫、その気持ちはなんとなく理解できる。
「…ま、マルルと、離れ離れになるかもなのは、い、いやだ…から」
そうだろう。ある程度の予想はついていた。
断る理由はない。必要がない。
彼女自身の言葉で聞けたから。
「いいよ。今からでもいい?」
「離れ離れになるのはいやだ」と。
それならば、あるのは引き受ける理由だけだ。
少女の顔が、ぱぁっと明るくなる。
視界の端で、廻琉が小さく頷くのが見える。
「あっ、ありがとうぅ」
「それは終わってから。
絶対に大丈夫、とは言えないから」
冷たいかもしれないが、最悪のケースは想定しておく必要がある。無論、薄食さん自身も。
「ふぇ…」
「最悪の場合、ね。できる限り頑張るよ」
「ふえぇ。あっありがとううぅ」
終わってから、ね。
まずは、所長に相談かな。
スマホを取りだして、連絡帳を開く。指を軽くスライドさせた時、少し離れた位置から声が届く。
「今回で6回目だ。マルル関連だけで6回目」
「6回目ぇ!」
「なぁ薄食。
あたしがなにがいいたいか、わかるか?」
兎が月炉の椅子に腰掛けてふんぞり返っている。その横で碧が腕を組み、小さく胸を張っている。
「……ふ、ふええぇ」
6回目、薄食さんの依頼数。
5回目までは逃げ出したマルルの捜索だった。
呆れているのだろうか。それにしては2人とも顔が随分にこやかだけど。
「偶数回って事だ。凪乃、手伝うぜ」
「わたしもぉ!」
「わたしも、ね!」
廻琉も飛び出してきた。
…まぁ、予想通りか。有難い申し出だ。
たぶん、1人じゃ手に余るだろうから。
すっかり空《から》になった教室を見渡して、置いていた鞄を手に取る。
「じゃ、改めて」
ペット、ひとつの家族の形。
「行こ。薄食さん、みんな」
今日の私は、ただ、それを守る為に。
CHR-0008 薄食 瀧奈
閲覧制限:一般公開可
分類:人物資料
氏名:薄食 瀧奈 (はくじき たきな)
戸籍名:薄食 瀧奈 (はくじき たきな)
生年月日:奏元3年3月3日
性別:女性
年齢:15歳
身長:149cm
体重:44kg
能力登録:
登録済
能力名称:
″走る時 足音が小さくなる″
能力概要:
額面通りである。
比較対象4名の走行時における足音が平均約67dbであったのに対し、対象の走行時における足音は30dbまで減少している事を確認。
これは対象が時速8km以上の速度で移動する場合に限り発動し、土質に影響されない事も確認された。
危険度評価:
E-5
転化可能性:
12%
観察記録(抜粋):
対象は極めて内向的な性格であり、学内において目立つ行動を好まない。
しかし能力の特性上、背後から接近される事例が複数報告されている。
これについて、対象本人に悪意は認められない。
記録者:
研究員 丹蓯《にかぶら》 楠莉《くすり》
研究員所見:
能力自体に高い危険性は認められない。
一方で対象能力は隠密行動との相性が良く、転用先によっては第三者への脅威となり得る。
しかし、対象自身は著しく体力に乏しい。
試算上、対象が全力で追跡行動を行った場合、対象能力における優位性が失われる前に対象自身が行動不能となる可能性が高い。
これらの性質上、現時点においては上述の可能性は低いものと判断される。
記録者:
上級研究員 卜部《うらべ》 飾《かざり》
追記:
対象は能力を利用したかくれんぼ大会において、高い成績を記録している。
なお本人は参加を断れなかっただけであり、競技への意欲は確認されていない。
記録者:
上級研究員 卜部《うらべ》 飾《かざり》
承認者:
副所長 望月《もちづき》 七彩《なないろ》
資料状態:
有効
最終更新:
奏元18年6月29日