『昏』
午前10時。
遥か蒼空、見下ろすように鎮座する煌々たる太陽に照らされて、鹿々桜の街が動き出す。
見上げる空はいつになく雲足が早い。
まるで無理矢理時計の針を進めているかのように、不自然な程に流れて消えていく。
『予兆』である。
「先代迄に95回、継いで4回」
狭い部屋で独り言が小さく響く。
手にした『世杖《せじょう》』を机に立掛け、羽々斬の淹れた珈琲を口に運ぶ。
「此度も、恙無く」
6年に1度訪れる、空の刻を止める2ヶ月間の宴。
一寸先も朧む夕の刻、黄昏時。
暮れない夕焼け、明けない宵闇。常の黄昏。
────曰く、『昏』。
「──と、そう言えるならば……結構なのだが」
直に空は止み、
────『昏』が訪れる。
***
「廻琉、そろそろ行くよ」
「ちょっ、ちょっと待って!すぐ行く!」
時刻は14時。
浴衣レンタルの予約時間まで残り1時間と少しを切った頃。
広々とした自室でもう少し時間を潰しても良かったが、私は予定の時間より早めに着いておきたいタイプなのだ。
残すは廻琉が支度を終えるのを待つのみで、碧と兎は後ほど現地で合流する事になっていた。
「えへ、えへへ。……おまたせ」
ようやく支度を終えた廻琉が慌ただしく姿を見せる。
どうやらメイクに時間が掛かっていたらしい。
白い肌に紅い瞳、通った鼻筋。
丸みを帯びながら整った輪郭。
ほんの少しだけ紅潮した、柔らかそうな頬。
いつものように、あどけない笑顔を湛えて。
「じゃ!行こっか!」
なのに、なぜだろう。いつにも増して、
「……ん」
見慣れた筈の笑顔が、眩しいと感じた。
***
異様な程に雲足の早い空を見上げながら、賑やかな街並みを歩く。
すれ違う人の多くは和装に身を包んでいた。
街灯には提灯が吊るされ、花芽ラの店頭にはお祭りを報せるポスターが所狭しと貼り付けられている。
「なんかさ。ザ・お祭りって感じだ、ね」
その通り。
『昏』とはお祭りであり、『予兆』はその幕開けを意味していた。
「もうそろそろだねえ」
「今夜の花火8000発くらい上がるらしいッスよ」
「俺は今日、この日の為に生きてきた」
耳に入る声は全て期待に満ちていた。
鹿々桜で生きる人々にとっての『昏』は、世界に多く見られる異常事象の1つであると同時に、この地に根付いた文化の1つでもあった。
「えへへ。なんかお腹空いてきた、かも」
「まだ開いてないし。もうすぐ着くから……力つよっ」
商店街を抜け、駅前通りを超えた頃。
【準備中】の木札が掛けられた拉麺屋に吸い寄せられていく廻琉を引き摺りつつ丁字路を右に曲がった時、聞き慣れた声が耳に届く。
「おぉ〜い!ふたりともぉ!こっちこっち!」
きもの勝ち旗と書かれたのぼり旗の隣に、既に浴衣を着てぴょこぴょこと跳ねる碧の姿が見えた。
「へへ。先に着付けしてもらっちゃった!
兎ももうすぐ出てくる頃だよぉ!」
予約時間からはだいぶ早いが、碧の話を聞くにどうやらスムーズに客はけが済んだ為に、前倒しで入れたようであった。
「似合ってるね、かわいいよ」
「えへへへぇ。そうかなぁ、そうかも。
へへ、そうでしょぉ!」
「……む」
碧が選んだのは淡くくすんだ薄荷色を基調とした牡丹柄の浴衣。爽やかで、夏らしい清涼感を感じさせる碧らしいチョイスでとても似合っていた。
「おいす、おまたせ。次どっち先行く?」
カウベルの乾いた音と共に兎が姿を見せる。
落ち着きのある深緑に芍薬柄の浴衣。くすんだ緑黄色の帯と引き締まった肉体により、一層大人びた印象を受ける。
碧と同じくとても似合っている。
違う点といえば、かわいいというより、
「綺麗だね、似合ってる」
「照れるぜ。もっと言えよ」
「……むむむ」
廻琉が小さく頬を膨らませる。
わかりやすく眉間に皺を寄せて、じっと私の方を見ている。
「廻琉。先、はい───」
「……凪乃っ!」
先を譲ろうとしたその時、
返事よりも早く、右手を掴まれた。
「こっち!」
───ばたっ。
─────からんからんからん。
「あらぁ、お待ちしておりましたよお」
ぐいっと引かれるまま、景色が一変する。
カウベルの音に続いて、店内からどこか聞き慣れた年嵩の女性の声が鼓膜を叩く。
勢いそのまま、気が付いた時には勝ち旗の店内に招かれていた。
「あ、白鳩さん。どうも、お手伝いですか?」
「正解!友達に着付け技能士の資格を取ったって話したらね、今日だけ入ってくれないかって頼まれて!!」
声の正体はプロ・アルバイターとも称される白鳩さんであった。『レジ打ちが早くなる』能力を活かして近隣のあらゆる店舗でヘルプ無双をしているなんともパワフルで気の良いおばさん。
レジ打ち以外の部分は自前の筈なのだが、経験の賜物か生来の性《さが》故か、あらゆる動作が早い。
今日も今日とて、これでもかというほどの笑顔を湛えて元気に働いていた。
「碧ちゃんと兎ちゃんが来たからそろそろだと思ったわぁ!凪乃ちゃんも廻琉ちゃんも、柄は決まってるかしら?」
「あの、実はまだで」
廻琉を待つ間に考えておこうと思っていたのだが、そうもいかなくなってしまった。
満面の笑みで迎えてくれた以上、今から「外で待ってます」なんて、さすがに言いづらい。
「今から決めてもいいですか!」
威勢のいい声と共に、視界の端から廻琉の手が伸びる。
「モチよぉ!今日は2人が最後のお客さんだから、ゆっくり選んでちょうだい!」
待ってましたと言わんばかりに手を叩き、奥のカーテンが開かれる。
招かれた先、赤いカーテンの奥、一見狭く見えた店内に隠されていたスペースには、色とりどりの浴衣が所狭しと掛けられていた。
暖色系、寒色系と二分され、その横に黒と白。
黒、黒か。これは、うん。良いかも。
私たちで最後と聞いて少し不安だったが、これだけ残っているならそれも杞憂に終わりそうだ。さすが、鹿々桜イチの品揃えと言われるだけはある。
「凪乃!」
色ごと柄ごとに丁寧に仕分けられた浴衣を一着、一着と確認している時だった。
「せっかくだし、お互いの、選びたい…な」
先程までのやけにテンションの高い様子から一変して、俯き加減に視線を逸らし小さな声で、はにかむような様子でそう口にした。
お互いに、と。
「……私が?廻琉のを?」
「……ん!!」
廻琉に。私が。選ぶ、似合うもの。
単語を区切り、頭の中を整理する。
お構いなし、とばかりに言葉を続ける廻琉。
「凪乃に似合うの、考えたの。ずっと」
「…私に?」
「ん!!」
私に、廻琉が。ずっと、似合うもの。
「………そっ、か」
少しだけ、胸の奥が跳ねる。
「わかった」
ふと、浮かぶ。
目の前にいる廻琉と、記憶の中にいる廻琉。
白い肌、紅い瞳。
「じゃあ、」
夕陽のような、赤みの差した栗色の髪。
あどけない笑顔、笑う時に首を傾げる癖。
この眩しさに似合う色。
なぜだろう、その後は迷わなかった。
「────これ」
***
着付けを終えて、碧ちゃん達の待つ店の外へ出た時、空は既に暗くなり始めていた。雲はすっかり泳ぐのをやめて、ゆっくりとただ流されるだけに見えた。
昼間に凪乃から教えてもらった『予兆』、『昏』の前触れ。それも終わったみたい。
人波は河川敷の方向へと流れて、どこからか太鼓の音も聞こえてくる。
「凪乃。似合ってる、すごく。可愛い!」
握った手の、少しだけ低い体温を感じながら、真っ赤に染まった凪乃の顔を覗き込む。
「…ありがと」
わたしが選んだ、似合う色。凪乃の為のもの。
「えへ、えへへへ」
紫紺の瞳、群青の髪。凛とした表情《かお》。
時々、恥ずかしそうに目を逸らすところ。
もっと、もっといろんなところも、本当に。
「…可愛い、よ」
白地の浴衣、淡い水彩画のような向日葵の柄。
白い肌が映えて、とても綺麗。
明け方の空みたいで、誰よりも眩しくて。
「あっ!」
お腹の奥に響くような音が届いて、ツンとした煙の匂いが鼻を突く。
街並みに仄かな闇が満ちていく。
雲が彼方に消えて、群青の帳と茜の幕が混ざり合う。
「はじまった、ね!凪乃!」
報せの花火と共に、空の刻が止まる。
黄昏の空に、大きな一輪の花が咲く。
でも、わたしはあの花よりも、ずっと。
「『昏』!!」
隣にいる凪乃《あなた》が好き。
APN-0003 昏
資料分類:異常事象
名称:昏(くれ)
概要:
日本国鹿々桜県でのみ観測される、6年周期で発生する特殊環境現象
発生期間:
約2ヶ月
発生周期:
6年周期/規則的
確認地域:
鹿々桜県全域
県境を超えた発生例は確認されていない
観測事項:
期間中、空の色彩は通常の夕刻に近似する。
しかし、太陽高度との一致は確認できず、日照時間と照度の間に僅かな乖離が発生する。
観測機器上では日中であるにも関わらず、被験者の主観的認識は夕刻に近づく傾向を示す。これはヒト及びその他動物間においても同様の傾向が確認されている。
研究所評価:
昏は現在までに確認されている自然現象の中でも
特異性が低い。
発生から終息までの挙動は概ね一定であるが、発生機序については未解明。
現時点において能力との関連性を示す決定的証拠は確認されていない。
現時点において直接的な危険性は認められない。
また、発生地域における平均寿命・出生率・能力発現率等に有意な偏差は確認されていない。
備考:
霽和2年7月13日初観測
発生周期及び終息時期については、初観測以降大きな変動は確認されていない。
追記:
第■回観測時に異常発生。
詳細については関連資料APN-0003-EX及びCHR-00■■ ■■ ■■-EXを参照。