花芽川に架かるからくさ橋より。彼方の黄昏空に花火を臨む三つの影が提灯に照らされて揺れていた。
「ここら辺でいいでしょう」
からくさ橋の橋台を前にして、羽々斬が立ち止まる。橋の影に覆われて一段と暗いその場所には、これといって特別なものがあるようには見えなかった。
兎の隣に佇む廻琉は目を伏せたままに力なく両手を垂らして沈黙を貫いていた。呼吸は落ち着きを取り戻し自身の足で歩けるまでにはなったものの、未だに生彩を欠く友人の姿を前にして、兎は無力感に苛まれていた。
「……廻琉、先に帰るか?送ってからでも、」
「ううん」
声を発したというより零れ出た音のような小さな否定を伴い、力なく首を横に振る。
それでも返事は早かった。
能力に依らずとも廻琉の確たる意志を読むことができた。
「そうだな。悪かった」
それが兎の決意をより強くした。
羽々斬が前を向き直り傘で顔を覆い隠す。一瞬の事であったが、弧を描く口元を兎は見逃さなかった。
(なんなんだコイツ……)
ほんの一瞬の事ではあったが、能力は視逃す事を許さなかった。ずっと高いところからみるような、大きすぎる庇護欲を。不気味に思えるほどの博愛を。
「入る前にいくつか注意点があります。
おふたりとも、いいですか?」
羽々斬は2人に背を向けたまま言葉のみを飛ばし、懐から取り出した柄のみの小刀を十文字に切る。
「……んだよコレ」
空《うつろ》が拓けて虚《うつろ》が覗く。穴の先にはひたすらに暗闇が広がっていた。中から零れるように吹きすさぶ生温い風がまるで大きな生物の口内を思わせ、兎の嫌悪を掻き立てる。
「まず1つ、そこらで適当な石でも枝でもいいので、拾って持っていてください」
「……?おう」
兎と廻琉は言われるがままに河川敷に散らばる小石を一つずつ拾って懐にしまう。仔細は読めず、ただ意味がある事が読めた。
「2つ。オレが良いというまで、お互いの手を握っていてください」
「…わかった」
廻琉が右手を差し出し、兎が握る。
兎の手に自然と熱が籠る。使命感か孤独感によるものなのかは兎本人にもわからなかった。
「3つ。狼狽えないでください。これは絶対です」
羽々斬の声が一段落ちる。一層重くなった空気の中で兎の能力が″死″の一文字を弾き出す。
穴より漂う生温い風が全身を包み込み、忠告を破った先の惨事を予感させた。
「じゃ、入りましょう。後に続いてくださいね」
ゆっくりと拡がる穴の直径がちょうど傘ほどの大きさになった時、羽々斬が軽い足取りで歩を進めていく。手は繋いだまま、兎の少し後ろを追う形で廻琉が歩く。虚の覗く穴に左足が掛かる時、全身に冷水を被るような感覚が兎を襲う。
──とぷ。
(……水?水中か?もしかして海の中にでも、)
兎の予想は部分的には的中した。
眼前に拡がる光景は歪み、一層のガラスを隔てた先に並ぶ試験管の列が見えた。誰が言わずとも、視界に映るのは水中から臨む景色そのものだった。
(息は……できる、か)
呼気に合わせて眼前に小さな泡が立ち上り、頭上で弾けて消えていく。
(……!?)
状況を整理する猶予もなく、数秒と立たずに景色が塗り変わる。天と地が入れ替わるようにぐるりと廻り、次に拡がっていたのは兎にとって覚えのあるものだった。
薄暗い広間に、唯一灯る大きな液晶テレビの前で座り込むひとりの少女の姿。少女が背を向けている大机の上には一片欠けたホールケーキ、その横にはくしゃくしゃに丸められた紙が置いてあるのが見える。床には割れた陶器の破片が散らばっていた。
「……ちっ」
兎の手に熱が籠る。下唇を噛み潰す痛みで己を保つ。
今起きている事、そして次に起こり得る事が理解できた為である。羽々斬の忠告を、そして友を、揺らぎかけた自身を守る為、繋いだ手に力を込めた。
光景の中で映る少女が立ち上がる頃、またも景色が塗り変わる。
ひとつ瞬きの間に拡がるは岩肌の牢獄。空の檻の中に不釣り合いな一枚の畳が敷かれていた。砕かれた岩穹から月光が差し込み、岩肌に刻まれた文字を晒し出す。
(満…願……?いや、)
兎の目が陰りに潜む無数の文字列を捉えた。暗がりで読めたのは、
(触れぬ事、忌む事、交わさぬ事……?)
その3つのみであった。
理解だけが及ばないままに兎が繋ぐ手に力を込める。廻琉もそれに応えた。重なった震えがどちらのものなのかはもう2人にはわからなかった。
ぐるりと景色が移ろい、ふたつ瞬きの間に夕の空に覆われていた。
青々と茂る山々に囲まれた田園風景。茜に染まる空を紫がかるうろこ雲が流れていく様は一転して幻想を想わせた。
遠く、ずっと遠くの農道をふたりの幼い少女が駆けていくのが見える。声は届かず顔は見えずとも、ふたりの仕草から楽しんでいる事だけが伝わった。駆ける影が交わる頃、景色が白んで色が消えていく。
みっつ瞬きの間に蝉の鳴き声が鼓膜を叩く。次に眼前に拡がっていたのはいっそう深い蒼穹のもと、緑に囲まれた小さな集落であった。
兎が目だけを動かし周囲を探る。三度瞬きをするも景色は変わらず、ここが終点である事を理解した。
「お疲れ様でした。もう手、離していいっスよ」
羽々斬が振り返り、2人に笑顔を向ける。
「おう。廻琉、ありがとな」
「…ん」
同時に手を離し額の汗を拭う。四方から響く蝉の声が五月蝿い。防ぐもののない強い陽射しが刺すように暑い。噛み締めた下唇から口内へと鉄の味が広がり、鈍痛がじんわり増していく。
五感を持ってして、今この光景が現実であることを思い知らされる。
「ところでおふたりとも。
さっき拾った石はまだお持ちですか?」
「…ないな」
「わたしも」
羽々斬が懐の位置を指し示し問いかける。
兎と廻琉が自身の懐を探るも、見付けることは叶わなかった。
一瞬、兎の脳裏に不安が過ぎるも羽々斬の浮かべた表情により杞憂であることが伝わった。
「それでいいですよ。入る時に直近で拾得した物が弾かれるんです。不思議っスよね」
「デコイってことか?」
「そういうことです。過去には胎児や人工臓器が弾かれたケースがありますね」
「……想像したくねえな」
兎の内でひとつの″疑″が晴れる。悪趣味とも思える羽々斬の発言の裏には強い忠告の″語"が読めた。
限られた情報の中で兎が推測した彼の真意、"連れてくるのはこれが最後ですよ"と、そう解釈した。2人さえ連れ戻せるならなんだっていい、兎はそう決した。おそらくは隣に立つ廻琉も同じであった。
「では行きましょうか。
急ぐに越したことはありませんから」
羽々斬の一言で3名は足を集落へと向ける。両脇に田圃を見る畦道は陽射しを遮る影もなく、一歩踏みしめるごとに背には汗が滲むようだった。兎はただ一人傘をさす羽々斬の事を恨めしくも思った。
この場に碧がいればこの暑さも幾分か楽しめるものにもなっただろう、凪乃がいたならば日傘のひとつも出してくれただろう、そう思うと目頭に熱が籠った。
「汗だよ、汗。まったく暑ぃったらねぇな」
「……ほんとに、ね」
心配そうに視線を送る廻琉に笑顔を向ける。兎は心の中で我ながら下手な嘘をつくものだと自省した。それでも笑顔は嘘ではなかった。
廻琉の凪乃に向ける感情は察していた。故に踏み込まなかった。故に、危惧していた。友として彼女が揺らぐ事を、心が崩れる可能性を。
だからこそ自身を案じてくれた事が嬉しかった。故に、笑顔で応えた。
5分と歩いた頃、轍を刻む畦道は途切れ、ひび割れたアスファルトを挟んだ先に小さな合掌作りの家を見る。
「ヒトがいるかもしれません。兎ちゃん、聞き込みをお願いしてもいいですか?」
羽々斬が兎の方へと振り返る。兎の中で弾かれたのは"嘘"であったが、変わらず悪意は読めなかった。なにを考えているのやらと思いつつも、言われるがままに戸を叩く。
が、返事はない。一枚隔てた先に気配はあり、声は聞こえていた。まるで普通の会話を繰り返す声が兎の耳にはたしかに届いていた。
「おかしいっスね?入ってみましょうか」
「おっ、おいマズイって」
止めるも虚しく、羽々斬の手によって戸は開かれる。引き戸は大きな音を立てて内部を晒す。
「……どういう事だ?」
当然家の中には人がおり、当たり前の生活を営んでいるものである。その当たり前を害された時、不届き者の排除を試みるのは当然の反応である。にも関わらず、家の中の彼ら彼女らは兎らに対して何の反応も示さなかった。どころか、各々の営みを続けていた。まるで何事もないかのように、まるで兎の事が見えていないかのように振る舞い続けた。
「意地悪でしたね、すみません」
羽々斬が戸を閉めて兎と廻琉に向けて頭を下げる。顔を上げ、にぱっと笑顔を見せて言葉を続ける。
「これは過去の再現です。先程の彼らもそう。
異常事象がひとつ『望雲之廟《とこしえ》』は、ある1日のまま固着した場所です。ここを形作る主の産まれた想い出の1日を繰り返す刻の廟、」
兎の頬を温い風が撫ぜて過ぎていく。陽射しは変わらず暑いまま、体温だけが奪われていく感覚に陥っていた。
笑顔の羽々斬の言葉に能力が弾くは"真"ただ一文字。
「オレ達の目的は凪乃ちゃんと碧ちゃんの救出。そして、」
"真"、そして。
「此処を均すことです」
"殺"、ただ一文字。