「濡れて…ない?」
砂溟先輩に手を引かれ、全身に寒気が走ったかと思えば、思い出したくもないあの地獄絵図が形を伴って目の前に現れた。降り始めたばかりの雨は身体を透いて地を濡らしている。
見渡してみるも当の砂溟先輩は見当たらず、人の面影を残した残骸が目に飛び込むばかりで吐き気を催した。地面に刺さった機体の残骸の近くで空に向けて手を伸ばす小さな影が見えた。
「あれは…」
目を凝らす暇もなく、ぐるりと天地が入れ替わっていく。瞬きののちに目に映ったのは幼い日に霞んだ想い出の景色だった。
事故に遭う少し前のこと。1週間ほど傳田に滞在した頃の事は、淡く霞む幼い記憶の中でも特に深い霧の奥にあった。記憶を辿ろうとする度に両親の笑顔と事故の惨状が交互に過ぎり、幾度も嘔吐した。医者は事故の影響だと言った。
ずっと奥底に眠り続けた景色が今、目の前にあった。ぼんやりと霧がかかって見えたが、それでも間違いなくあの頃の記憶だと断言できた。
夕焼けの農道がずっと遠くに見える。
夏の始まりにみる長い夕陽で染まった茜の空が好きだった。ゆっくり、ゆっくりと暮れていく群青の空が好きだった。ぽつりぽつりと顔を出す星々を数えることが好きだった。長く伸びる畦道を手を繋いで進んでいくことが大好きだった。
原っぱに寝転がって、指さして数えて、追いかけて笑い……あっ、た。
「……あの時…誰、かと」
ずっと思い出せずにいた。今も思い出せないままだった。記憶は暗い箱の中で眠り、近づく度に痛みを齎した。目眩と吐き気に挫けそうになりながらも想い出を目に焼き付ける。
もう失くしたくない、そう強く願った。
もう失くさない、そう決めた。
目を凝らして焼き付け、目頭に熱が籠り滴が頬を伝う頃、景色が白んで塗り変わる。
夕焼けの空は蒼く広がり、陽は高くから影を映した。田園風景は一転して深緑に満ちた森へと変わり、蝉時雨が鼓膜を叩いた。
「どこ…なの?」
周囲を見渡すと随分と開けている事に気が付いた。円形に開けた空き地には人の姿はなく、上に続く石階段と端に置かれた木造のベンチ、反対側になだらかに下る坂路だけがあった。
煌々と照らす日差しを遮る影もなく、唯一木陰を作るのは木々に囲まれた石階段ばかりで、伸びる先を見上げてみると赤い鳥居が見えた。
誰かいるかもしれないという思いから石階段を上がる事にした。知らない場所に置かれ、砂溟先輩も見当たらない今、他に方法は思い当たらなかった。
緩やかな階段を上りながら、時間を確認するべくスマホを取り出し、指で液晶を叩く。液晶は暗いまま、電源すら入る事なく沈黙を示した。
諦めて懐にしまい、『笈』を取り出して手を突っ込む。『目録』の中にある簡易無線機を思い浮かべると問題なく取り出す事ができた。が、案の定なんの意味もなく、ただノイズを返すのみであった為、そのままポーチにしまい込んだ。これ以上荷物を増やす訳にもいかない為、『笈』もしまう事にした。
相変わらず便利なのか不便なのかわからないものだが、それでも平時通りの反応を返した事だけはひとつの救いになった。
階段を登り終えた頃、下から見上げた鳥居を間近に捉えた。朱色の塗料は朽ちてひび割れ、内の木柱は虫喰いが進み黒々と穴が空いており、とてもではないが人の管理下にあるものとは思えなかった。鳥居の足元には割れた石畳が直線に伸びて、その先には朽ちた賽銭箱の置かれた境内があった。同時に、ひとつ揺れる人影を捉えた。
幽霊なんて信じるような性質《たち》ではないが、場所や状況も相まって冷たいものが背筋を撫ぜた。
風が木々を揺らして葉擦れの音が耳を癒す。鼻腔を満たすほどの青葉の匂いがひと握りの勇気をくれるようで、思い切って声を掛けてみることにした。もしかしたら砂溟先輩が先に来ているのかもしれない、そんな淡い期待すら抱いていた。
「……砂溟先輩、ですか?」
応答はなかった。揺れる影にじっと目を凝らしてみるとたしかに人影であることは見て取れた。砂溟先輩ではないにしても無反応というのは考え辛かった。もしかしたら聞こえていなかったのかもしれない、そう思い、近くに寄って話しかけてみることにした。
「すみません。少しいいですか?」
境内の裏手で箒で落ち葉をはく老齢の男性の姿を捉え、改めて声を掛けるが反応はなかった。見たところ60〜70代ほどで、耳が聞こえづらい可能性も考慮して隣まで歩を進めてみるが、男性はこちらに視線を向けることもなくただ箒を動かし続けた。痺れを切らし、男性の視線の向く先に立ってみるが変わらず無反応を示した。
「なんなの、これ…」
「いかがですか?」
「っ!」
理解が及ばず、ただ落胆するしかない状況で突如知った声が耳元で囁く。温度を孕んだ吐息が耳を撫ぜて全身が粟立つ。
退いて振り向いた先には砂溟先輩の姿があった。浴衣に身を包み、赤い瞳を輝かせている。見間違いでもなく、『昏』の空の下でみたままの姿がそこにあった。
「停滞せず行動に移す。取れる手段は試してみる。一生懸命な姿、格好良かったです、さすがですね」
優しい笑みを湛えてそう言い放つ砂溟先輩の姿はまるで別人に見えた。
普通であれば純粋な褒め言葉として受け取り、それなりに照れる場面だったのかもしれない。だが、今はなにひとつとしてそう受け取れなかった。
「初めてに怯える姿、可愛かったですよ。
夜明さんのあんなところを見られたのはきっと私だけですよね?嬉しいです」
袖口を擡げて一歩、二歩と弾むように身体を揺らして笑う姿は異様の一言だった。落ち着き払った少女の可憐な一面と言うべきであるが、そういう状況ではなかった。
友と引き離され、『昏』から一転して蒼空の下に置かれ、心の傷を抉られ、記憶を掘り返されて尚も不可解な状況にある今、尊敬する先輩のこのような言動に対してどのような感情を抱くべきかわからないでいた。
ただ困惑する他なかった。取り乱すほどの余地すらもなかった。
「碧はどこですか」
ならば取るべき行動はひとつだった。
初志貫徹。怪しいのであれば問い質す。それ以外にはなかった。
砂溟先輩はかわらず微笑みを湛えたまま、軽快な足取りで境内を囲む木陰へと歩を進めていく。応えは返さず、木陰へと足を踏み入れた瞬間、陽炎にでも紛れるように輪郭が薄らいでいく。
灯る赤い瞳が消えると同時に、残された声だけが境内に響き渡る。
「かくれんぼ、しましょう?
みつけるごとに答えをあげますね。
一生懸命頑張ってください。見ていますから」
おちょくられている?
それともあれは砂溟先輩ではない?
様々な可能性が脳裏を過ぎっては泡のように弾けて消えていく。抓った頬の痛みが現実である事を知らしめている。少なくとも夢ではない事だけは確かだった。
こんな事をしている場合ではない…が、もし本当に答えをくれるのではあればやる他ない。
ヒントはない。単純なかくれんぼであれば、まずは砂溟先輩が最後に立った場所を探すのがベターではある。足早に木陰へ踏み込むが、障害物のない以上、ここに隠れる場所はない。
ゆっくり探している余裕はない。気が急いて勢いのまま振り返る。
「──っと」
足元にあった石に気が付かず、足が掛かり体勢を崩す。瞬間、
「わぁ、見つかってしまいました。
さすがですね、でも危ないですよ。
怪我したら悲しいですから」
抱きとめられ、囁き声が耳を撫ぜる。
「まず一回目、ですね」
囁きは続き、身体を支える砂溟先輩の腕にぐっと力が籠るのが伝わる。
全身の熱がすっと引いていくのがわかった。これが嫌悪なのだと、その時初めて理解した。巻き付く腕を引き剥がして距離をとり、精一杯に選んだ言葉を投げる。
「……碧は…どこですか」
「ちゃんと生きていますよ。
間に合うならばこれからも」
その言葉は一言一句冗談には聞こえなかった。
砂溟先輩の表情は柔らかい笑顔のまま、両の腕でぎゅっと自身の体を抱きしめていた。それが怖かった。まるで私の残る体温を確かめているようで不気味だった。
「そんな事より、少し可愛いが過ぎますよ。
古典的ですね。頬を抓って確かめるなんて。
あざといですね。そんなに夢のようですか?
私もです、一緒ですね」
怖かった。ただ怖かった。
置かれている状況も、様子のおかしい目の前の先輩も、不可解なこの世界すらもが怖かった。
全身を覆う戦慄が顎の震えとなって不規則に歯を鳴らした。鼓動が逸り、胃液が喉元までせり上がっていた。両手は震え、膝は笑って立っていることも怪しかった。
それでも、それでもひとつ、答えは得た。碧は無事なんだ。間に合いさえすればこれからもずっと。
そう思うだけで気を保つことができた。
笑う膝に拳を打ち込み、両の足を地につけて真っ直ぐに立つ。大きく息を吸って、逸る心拍を整える。もたもたしていられない。
「次、です。これが最後…!
次は絶対に…答えてもらいますから」
確かな手がかりを掴んで碧のもとへ。だから、
「碧の居場所を…!」
「……少し、格好良すぎますね?」