「ねえね!おかーさんきょうね、がっこうでね!」
『
「えぇ〜ぇ!なんでわかるのぉ!」
少女は幸せな夢に堕ちていた。
顔も知らない母と手を繋いで夕暮れの道を歩く。学童帰りの街道には誰もいなかった。
少女の幸せを邪魔するものは何一つとしてなかった。
「きょうねぇ、てんこーせい?がきてね。
おんなのこ!かわいいの、でもね、でも、」
少女はその小さな手で母の指をぎゅっと握りしめた。頭の上から聞こえる母の控えめな笑い声で胸の奥が締めつけられるようだった。
「もぉ!なんでわらうのぉ!」
『
少女は熟れた林檎のような頬を膨らませ、精一杯の怒りを示した。尚も母は笑い声を漏らしていたが、少女はそれはそれで幸せだった。
「でね、その子がね、なのとうさぎとね。
すぐなかよくなるから、ずっこいなっておもったの」
『
「……わかんない」
『どうして?』
母の問いに少女は頭を悩ませた。
頬に詰めた空気を吐き出し、口をつんと尖らせて不満を露わにした。擡げた腕の疲れも相まって少女のご機嫌は傾きつつあった。
「……だってわかんないもん」
『
少女は更に頭を悩ませた。小さな身体は胸につっかえた痛みを十分に表すだけの術をまだ持ってはいなかった。
母の手が少女の小さな手を優しく包んだ。少女の手よりほんの少しだけ冷たい大きな手は、中で丸くなった柔らかな拳をにぎにぎと解して温もりを伝えた。
「……だって、だって、ふたりが、」
大きな丸い瞳から雫が落ちる。涙は丸い頬を伝って、少女の残す小さな足跡を上から飾るようにぽつぽつと黒点を作っていた。
「とられちゃう……」
『寂しいの?』
少女は小さく頷いた。頬を伝う筋は一本、二本と増え、襟元は次第に湿り気を増していった。
母の言葉の意味が自身の痛みを指すことを、幼いながらも理解できた。温もりに包まれた拳に熱が籠り、少女の視界は滲んで夕陽は何倍にも膨れて見えた。
『
『
『ずっと一緒。離れることなんて、』
『ないんだから』
甘い夢は次第に深みを増していく。
夕陽は沈み、刻を止む空にも目は開かず。
『あなたを裏切ったりなんてしないから』
『これからは、二人で』
『一緒にくらそうね』
『だから、』
幸せの輪郭は次第に微睡み、泥濘む足元にも気が付くことは叶わない。
『もう寂しくないでしょう?』
これにて、
「…うん!うれしい!」
***
『予兆』は次第に訪れる『昏』へと向けて雲を流しては消していた。
兎は羽々斬と共に廻琉を見送った後、春風公園に留まり今後の動きについて詰めていたところだった。
「ず〜っと気になってたこと聞いていいか?」
「?なんでもどうぞ。
答えられない可能性もありますが」
兎はどちらを聞くべきか悩んでいた。
『誘扉』から出てきた時も、屋根付きのベンチに座る時も開きっぱなしの傘についてか、それともぼんやり光って見える琥珀の瞳についてを聞くか。どちらにしても作戦行動に直接関係しないが、思考を逸らし得る要素はひとつでも消しておきたかった。
「その傘、ずっと差してるな。日傘か?」
「これも『誘扉』と同じ、オレ特製デバイスの一つです。しかし残念!これ以上は答えられません。
"真"。なにひとつ嘘はなかった。
答えられない、というのも悪意に由来する隠匿という訳でもないという事実は、兎の心に安寧を齎した。
同時に、少しだけ驚いた。
ここで過ぎったのは羽々斬も自身と同じかそれに類する能力を持つ可能性だったが、兎の能力はこれに"否"を示した。
「……話が早くて助かるな。ああ、うん。
なんだ、その。目が光って見えるんだが」
「これも傘と同じですね。『エディタ』と言います。ザックリ言うと兎ちゃんのできる事とそう変わりませんよ、試してみますか?」
羽々斬が白衣の内ポケットから眼鏡ケースを取り出し、兎に渡す。中には至って普通に見える丸眼鏡が入っていた。手に持ち、透かして景色をみるとレンズに度は入っていないことがわかった。
「予備で持ってきました。オレのはコンタクトタイプ、そちらは見ての通り眼鏡タイプです」
「へぇ、付ければいいのか?」
「はい。一時的に権限を付与しますので、そのまま掛けてくださるだけでいいっスよ」
笑顔で頷く羽々斬からは悪意…というよりは悪戯的な意思が読めた。例えるならば席を外した友人の椅子にブーブークッションを敷くようなものに似ていた。兎自身、何度か凪乃や碧に同じ事をしていた事もあり、たまには引っかかってみるのもいいかと考えていた。どうせ大したものではないのだろう、そんな甘い考えを抱いていた。
目を閉じて縁を耳に掛け、ゆっくりと目を開いてみる。目の前にいる羽々斬を認識した瞬間、
「───っ…がっ、あぁつ、づぁ!」
脳に鑢をかけたような痛みが走る。
無数の記号、数列、色を持ち跳ねる顔文字、途方もない文字列、自身と羽々斬、廻琉の軌跡を辿るように並ぶ残像、それらひとつひとつから立ち上る理解不能な数式、視界に映る全ての情報が雪崩のように脳内を満たし、はち切れんばかりの痛みが生じた。
あまりの負荷に耐え切れず眼鏡を放り、滴る鼻血を拭う。不思議な事に眼鏡の外れた瞬間、脳を削っていた痛みは霧が晴れるように消えた。
「んっっだよこれぁ!」
「あちゃあ、すみません。思ったよりでしたね。
眼鏡タイプには後遺症を来す例はありませんので、そこは安心してください」
「どうぞ」と渡されたティッシュを叩くように受け取る。
わたわたと慌てる羽々斬を見て、兎は苛立ちながらも言葉の内の謝意を読み取っていた。同時に、この結果を"楽しんでいる"のではなく、"心配"が勝っている事も読み取れた。
これまでの所、羽々斬の言葉に嘘はなかった。兎はおそらくこれも想定外のうちのひとつに過ぎないのだと割り切る事にした。
同時に畏れを抱いた。理解不能な異物の底がずっとずっと深い事をまざまざとみせつけられ、己の幼い好奇心を恥じた。
「コレね、これだけ広い場所だと役に立つんですよ。少し時間は要りますが廻琉ちゃんの行先も追えますし。それに、」
羽々斬が立ち上がり、湖に面した隣町を指す。
茜を差し出す空は少しずつ速度を増して、湖の向こう側から群青が滲み出すのが見えていた。
「漸く碧ちゃんの場所もわかりました。どうやら主も一緒のようですよ。どうしますか?」
兎の答えは決まっていた。
廻琉を見送る直前に合わせた拳の熱が、交わした約束が胸の中で燃えていた。
「行くに決まってんだろ」
昏ゆく夕陽よりもずっと熱く、赤く。
兎の瞳に、火が灯る。