足速に過ぎる雲が彼方へ消えて行く。陽は傾き始め、低い角度から不快なほど熱をもって肌を焼いていた。空模様から察するに時刻はおそらくは16時前かそこらだ。『予兆』から直に『昏』がやってくる事もわかる。
ただ、赤目の砂溟先輩の行方だけが掴めずにいた。
「どこに…っ」
額から流れる汗が頬を伝って地に染みを作る。滲み、濡らし、下着に張り付き、透く風が寒気を生んで気持ちが悪い。半端な木陰から差し込む陽射しが眩しくて気を削がれ、普段より体力を使う。常備デバイスの入ったポーチが普段よりもずっと重たい。喉も乾いて目が霞む。
怖い。しんどい。でもまだ碧が…。それに、早く廻琉と兎のところに戻らないと。
「そろそろ喉が乾いてしまいましたね」
姿の見えない砂溟先輩の声が風に乗って耳へ届く。こだまのようにこちらへ寄ってくるかのように、文字通り風に乗って囁き声だけが鼓膜を撫ぜた。
──がこんっ。がこんっ。
「っ!?」
通り過ぎた自販機から二度、重たい音が響く。もしや、と思い近付き取り出し口を覗き込む。
すると中に一本の水が落ちていた。結露でほんのり濡れた透明のボトルが一本。二本目は…ない。取り出してみると、蓋は開けられた様子はなかった。それに穴が空いているような痕もなく、中が濁っていたりもしていなかった。
「そう警戒せずとも。これは奢りですよ。
安心してください、私と…同じものを買いましたからね」
……本来なら口にするべきではない事はわかる。しかし、身体はとうに限界を迎えていた。夏の熱気で渇いた喉は痛みすら感じていた。霞んだ視界は手に持ったボトルのラベルに書かれた文字すら曖昧にした。
(……だったら、もう、)
思考は音を上げ、自然と蓋を緩めて流し込んだ。渇いた細胞ひとつひとつに染み渡るようだった。ほんのり感じる甘みから、水だと思っていたそれが経口補水液である事がわかった。
一息で飲み干し、深く息をつく。
落ち着きを取り戻した頭の中では感謝と恐れが同居していた。
わからなかった。
この状況を生んでいる砂溟先輩がまるで私を気遣うかのような行動を取る意図がわからず、より一層恐怖を掻き立てた。
「続き…ですね。もしかしたらすぐ近くに、」
「いるかもしれませんよ」
右、左と耳元で囁かれるように風が言葉を運んで過ぎていく。勢いに任せて振り向くが姿はなく、立ち並ぶ木々がただ葉擦れの音を鳴らしているだけだった。
いやだ、怖い、怖い…。もう、
「…っ!違う…違う!」
恐怖から荒くなりかけた息を整える。滲みかけた涙は空を見上げて止めてやる。
甘えるな、甘えるな、怖くない。いやじゃない、大丈夫。
碧の方がずっと怖い思いをしてるに決まってる。だから早く見つけなければ。なにか手がかりを。
声が届く以上はそう遠くにはいない筈だ。近くにいるのに、姿がみえない。
境内には社の他に遮蔽物はない。古びた木の柵に囲まれて、外は急な斜面に雑木林ばかりで人が踏み入るほどの足場はないように思える。
もしかして…だけど、
(……能力?)
ふと、以前追いかけた猫を思い出した。
何故だかは自分でもわからなかった。"詳細不明の能力"という共通点、それだけが妙に引っかかった。
あの猫の能力について、詳しい話は聞けていない。しかし気を逸らされるような……意識そのものを逸らされるような感覚を身をもって体験した。だから認識着色弾を当てた。見失わないように、見失っても大丈夫なように。その時に使った3番も…ポーチに入っている。
しかし、先程の自販機で起きた事については全く説明がつかない。仮に認識を逸らす事ができるような能力だとして、どう作用すれば遠隔で商品を選ぶような事ができるのか、全くわからない。
それに認識を逸らす能力なんて……今更ながら常識外れにも程がある。
『畜し……、失礼。動物、タグ付きの個体ですね。それらは本能のままに能力を行使します。
故に、ヒトが使うものより少しだけ強力に作用するケースがままあるんスね』
バイトに入ったばかりの時に羽々斬先輩から聞いた言葉を思い出す。
あの時は動物ならばそういうものだと思っていたが…。
なら人間は?説明のつかない、常識外れの……現実離れした…人間の……能力、者…?
「……自販機」
「………廻琉?」
口を衝いて出た名前。
暑さにやられてしまったのだろうか。曖昧な点と点がぼやけたままの線を結んで出た答えが、廻琉の名前だなんて。考えろ考えろ考えろ…!拾え…!なにかある筈だ。砂溟先輩の零した言葉の中に手がかりが、なにか、なにか……。
「…見つけました」
なんとなくでもいい。
動揺を誘える可能性だってある。
『妬いてしまいました』
『見せつけられてしまって』
『同じですね』
なんて簡単な事だろうか。
姿を見せないなら出てきてもらえばいいじゃないか。
なら、続ける言葉は決まってる。
「『ほんの少しだけ思い通りになる』能力。
…廻琉と!!同じもの…っ!」
3秒だった。きっかり3秒。刻が止まる感覚。
風が、音が、雲が、そして空が止んで。
「『昏』が……来ましたね」
告げる花火が黄昏の空に弾けて。
ずっと隣に灯る赤い瞳を浮かび上がらせた。
***
凪乃の元へと急ぐ廻琉は別れ際に兎と突き合わせた拳に未だ熱を感じていた。
『凪乃の事、頼んだからな』
『兎ちゃんこそ。碧ちゃん…お願い、ね』
羽々斬という第三者の目がある手前、気恥しさは感じたものの、友と約束を交わす儀式に応えないわけにはいかなかった。この儀式は廻琉、そして兎の決意をより強くした。
廻琉はただ走るだけでよかった。
選ぶ道は全て凪乃の居場所へと収束する、そう確信していた。会いたいと強く願えばそうなるからだった。
あの日、あの時間そうなったように。
願えば空だって飛べるかもしれない、瞬間移動だって不可能ではないかもしれない。それでも試したことはなかった。
怖かったからだ。
強く願えば願うだけ疲労が積もる。
初めの頃は物を喚ぶだけで三日寝込んだ。癒せば患い、実りを願えば血を吐いた。自由を願った翌日には死を彷徨った。
だから走った。再会を願って走った。
初めて迎えた『昏』と同じ空に覆われてもどうだって良かった。
ここは過去の景色。過ぎた時間。
望んだのは4人で迎える明日の『昏』だから。
『昏』が訪れて半刻、息を切らしながらも朽ちた鳥居へと辿り着いた。
能力が告げる凪乃の居場所。
「凪乃ぉっ!!凪乃お!!」
大声で呼んでも、ただ麓から響く祭囃子が小さく流れてくるばかりで返事はなかった。
廻琉が鳥居を潜り石畳を踏みしめた時、境内の奥にふたつの気配を感じた。
凪乃ともう一人。会ったことのある色を感じとっていた。
嫌な予感がした。背筋を冷たいものが這い上がるようだった。
湿気を孕んだ熱気で汗が滲み、鼓動ばかりが逸る。胃が締め付けられるようで、だんだんと息が荒くなり始めていた。
「……大丈夫、大丈夫。休んでるだけ、だよね」
社を過ぎて右へと顔を向けた時、目に飛び込んだのは二人の姿だった。
拳の熱は全身に伝播した。血は沸騰するように熱く、赤く身体を駆け巡った。
「……凪乃?」
ふたりで出かけた7月9日。
楚曳支部で出会った同校の先輩の姿があった。
凪乃と二人で神木のもとで腰をおろしていた。
寄り添うように、互いの頭を肩に預けて。
「っ!!!…凪乃にっ」
見てしまったから。
力なく頭を垂れる凪乃と、
柔らかな笑顔で手を重ねる砂溟の姿を。
「触るなあっっ!!」