なるようになるの   作:kintama

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常闇

 砂溟の心は凪いでいた。少なくとも表層だけは平静を保つ事が出来ていた。しかし、凪いだ心の底では言葉にすることすら叶わない黒い感情が渦を巻いていた。

 まるでなにか覚悟でも決めたかのような強い眼差しを前方に向ける凪乃の顔を見つめながら、砂溟はぽつぽつと独り言を零していた。この言葉が届かないようにと、そう願いながら。

 

「どうしてそんな事言うんですか?」

(私と同じなのは貴女だけなのに)

「能力と見破るだけでなく名まで看破したのは流石という他ありませんが、」

(どうしてその名前を口にするのですか?)

「今は私といるのに…?」

(ああ、でもどうして…どうしてそんなに)

「……格好良いの」

 

 凪乃の周りをくるくると歩き回りながら、地を走る影に視線を向ける。『予兆』の空を過ぎる雲の影はやがて足を止め、次に音が止み、空の刻が止んで宵闇が留まる。瞬の静寂ののち、空に弾ける七彩の花に続く過去の囃子が『昏』の訪れを告げた。

 

「『昏』が……来ましたね」

 

 己が能力を看破した愛する後輩への褒美として、砂溟は姿を見せた。宵闇に浮かぶふたつの赤い瞳がまっすぐに凪乃を見据えていた。

 『望雲之廟』は過去の投影、過ぎた想い出の残り香に過ぎない。それでも砂溟はこう思っていた。

 

「ふたりで…迎えられましたね」

 

 かけがえのない想い出になる、と。

 蕩けるように細い三日月を描く赤目に、凪乃は驚いたように目を見開いて仰け反り二、三歩と距離を取る。

 しかし、砂溟はそのままそこに立ち続けた。

 酔っていたのだ。

 夏の匂いに。己が夏霞に。『昏』の郷愁に。

 なによりも、想い人の才覚に。

 一方で、砂溟は重大な見落としをしていることに気が付いてはいなかった。

 凪乃が既に隣にいる砂溟の存在を予想していた事。そして、彼女の手がポーチに眠る『3番』に伸びている事。

 

「…今度こそ」

 

 覚悟は時に、

 

「見つけました」

 

 恐怖を凌駕する。

 

「──そこですね」

 

──ばつっ。

 

 軽い発砲音とともに放たれた認識着色《マーキング》弾が砂溟の着物に着弾、袂《たもと》を中心に青色の染みが広がる。

 砂溟はゆっくりと滲みゆくインクを恍惚とした表情で見つめていた。袖口で口元を隠して嬉しそうに笑い、付かず離れずの位置を保ちつつ、凪乃を中心に右回りに歩を進めながら口を開く。

 

「お見事ですが、どうして着物に?」

 

「怪我はさせたくありませんでした」

 

 凪乃の口調は落ち着いていた。

 吐いた言葉に嘘はない。猫に銃口を向けた際には心を痛め、当てた際には安堵よりも先に身を案じた。人間相手、ましてや先輩に向けて発砲する事は凪乃にとって大きな負荷《ストレス》となった。更には狙いを定める暇もなく放った弾がどこに飛ぶかは運任せだった。故に、着物に着弾した事は凪乃にとって幸運だった。

 それでも凪乃は砂溟より優位に立つ為には"そこを狙った"と思わせる必要があると考えた。

 

「当てられた…と?」

 

 砂溟が銃のジェスチャーを作り、人差し指で軽く顳顬を叩く。

 砂溟の心境は複雑だった。

 まず恋情に交じる賞賛があった。

 認識着色弾はその形状から空気抵抗を強く受ける為に5mを超える距離の対象に着弾させる事は非常に困難となる。所内において、同状況下で安定的に可能な職員は羽々斬と餅染を除いて他にいなかった。

 

「……ふふ、本当に?」

 

 故に懐疑《うたが》った。

 凪乃の才を訝しんだ訳ではない。

 が、一年にも満たない経歴で両名に並ぶ射撃技術を持つ事、そして凪乃がそれを隠していた可能性を疑った。凪乃が砂溟《じぶん》に隠し事をしていたという可能性。恋情がそれを否定した。

 

「何故"ここ"に?」

 

 そして着弾箇所となる袂。

 切り取るでもしてしまえば着色弾の意味はない。生身を避けて敢えて狙うとなれば体幹に寄るのが合理に則する。

 ならばなぜ袂を狙ったのか?

 しかし今の砂溟にとってもはやその疑問は些事に過ぎなかった。

 

「願えば消えてしまうというのに」

 

「っ!!」

 

──ばつっ。ばつっ。

 

 急いて放った一発は空を切り宵闇へと姿を消し、一発は砂溟の足元の土に染みを作ってその役目を終えた。

 袂を飾る青い染みがゆっくりと薄まり、やがて跡形もなく消えてしまう頃、凪乃の手元に残る認識着色弾は残すところ一発のみとなっていた。

 

(……まずいな)

 

「……碧はどこに?」

 

 袂で砂溟の視線を切って『3番』に弾を込める。狙いを悟られぬよう、できる限り声を張り、音を殺してケーブルを引き絞る。

 

「そう焦らずとも。私はただ話をしたいだけ」

 

「私は急いでいます。後にして貰えますか」

 

「そんな事いいじゃないですか。後だって」

 

「……そんな事?」

 

──ばすっ。

 

 凪乃が構えた『3番』からワイヤ弾を放つ。放たれたワイヤは砂溟の足元に滲むインクの交じった土を叩き付け、衝撃で飛沫が砂溟の褄下を汚した。

 

(牽制…でしょうか)

 

「怒らせてしまいましたね、ごめんなさい。

 でもこれを私に当てる訳には……いきませんよね?」

 

 砂溟が足元に伏すワイヤをつまみ上げ、凪乃に向けて一文字にピンと張ってみせる。

 砂溟の言う事に間違いはない。

 特殊な形状記憶合金製のそれが生身に当たったならば創傷は免れない。凪乃の倫理観を思えば砂溟《じぶん》に当てられる筈がない、そう考えた。

 今の状況を思えば、"当てなかった"や"当てられなかった"のではなく、"一時の昂りから引鉄を引いた為、当たる筈もなかった"。そう考えた。

 

 砂溟の考えは概ね正しい。

 事実、凪乃はワイヤ弾を砂溟に当てられる筈がなかった。その理由《わけ》には当然、倫理的観点も含まれていた。

 

「…そこ、汚れましたね」

 

 凪乃が構えたままの銃口で砂溟の褄下を指し示す。砂溟は笑みを浮かべたまま、摘んだワイヤをするりと落とし、袖口で口元を隠して笑い出した。

 

「ああ、跳ねたインクで着色する事が狙いだったんですね?ふふっ、ふっ……ふふ、可愛い……」

 

「なにか可笑しなことでも」

 

 砂溟が顔を覆い、視線が遮られた瞬間を狙ってケーブルを引き絞る。先程と同じく、張った語りに合わせて音を殺し、徐々に距離を詰める。

 砂溟が一頻り笑い終える頃、変わらずに銃口はまっすぐ狙いを定めていた。

 

「これくらいなら払うだけでも落ちますから。

 滲んだとしても、また願ってしまえば……。

 ふ、少し抜けているところも…可愛いですよ」

 

 砂溟が目を伏せて想いに耽る表情《かお》を見せる。目を瞑ったまま、褄下の汚れを払い落とそうと屈んだ時、衿が緩み、露わになる首元の白い肌が拡がる。

 

(後でちゃんと謝ります、だから…今は)

 

 死角。油断。脅威を報すほんの少しの痛苦。

 狙っていたのは、この瞬間。

 

「……ごめんなさい。少し痛いです」

 

──ばつっ。

 

「づっ…!!」

 

 凪乃の放った最後の着色弾が砂溟の首筋で弾けて肌を彩る。

 距離にして約4m。触れる瞬間弾けて散らす構造とは言え、当然、無傷では済まなかった。微量の出血が青色のインクに混じり、徐々に紫色に変わって滲んでいく。

 

「…ごめんなさい。

 絆創膏持ってますから……それで。

 碧の場所を教えてくれたら…渡します」

 

 凪乃は手にした『3番』をしまい、警戒だけは解かないまま砂溟のもとへと歩み寄る。砂溟は首筋を抑えたままその場で膝をついていた。

 

「あの…砂溟先輩?」

 

 目線を合わせようと凪乃が屈み込もうとした時、砂溟がゆっくりと顔を擡げ、立ち上がる。

 首筋を抑えていた右手で傷痕を慰めるように撫で回し、凪乃を見据えるその表情《かお》は悦に満ちていた。

 

「痛かった…痛かったです。ひどいですね。

 ああ……嬉しい。汚されてしまいましたね。

 格好良かったです、先程の声。

 あの瞬間《とき》どんな顔をされていたのでしょうか……見たかったです、なんて勿体ない…」

 

 異常という他なかった。

 三歩踏み込めば触れる距離でみるそれに対し、凪乃は恐怖を覚えずにはいられなかった。逃げ出す選択肢すら浮かばない恐怖と困惑の大渦の中で、凪乃はただ立ち尽くす事しかできなかった。

 

「そう怯えずとも。これは消したりしません。

 貴女がくれた傷跡《キスマーク》ですから。

 でもこのままじゃ味気ないですね?折角なら花模様にしてしまいましょう。

 花は……藤袴が良いですよね。花言葉…ご存知ですか?

 "あの日を思い出す"だそうですよ。ふふ。

 貴女と私を繋ぐ傷にピッタリ、ですね?」

 

 右手を外し、月光に晒された砂溟の肌には首筋から鎖骨かけて紫色の藤袴が刻まれていた。

 凪乃は混濁する思考を抱えたまま、一歩、一歩と寄る砂溟から逃げるように小さな歩幅で後退していく。

 先程まで凪乃は砂溟が痛みで退いてくれるものと思っていた。駆け引きに勝ったのは自分だと自惚れていた。

 彼女の淡い期待は、砂溟のより大きな異常性に呑まれていた。凪乃は他にどうするべきかもはやわからないでいた。

 

(怪我は?なぜ消さない?なにが目的?

 どうして退いてくれないの?碧は?

 どうしてこっちに来るの?ここはどこなの)

 

「…っ…はぁっ、たっ、碧…はっ、はぁっ兎……

 はぁ、…ふぅっ、はっあっ、…め、めぐっ、廻琉…ぅ」

 

 徐々に距離を詰める砂溟に恐怖は止まず、凪乃の呼吸が乱れ始める。思索を巡らせる程の酸素を得られず、朦朧とする思考でただ助けを呼ぶ事しかできなかった。

 凪乃が石畳に足を掛けて尻もちをつくも、砂溟は足を止めないどころか嬉しそうに笑みを浮かべ、両手を広げて迎え入れるような姿勢をとったまま歩を進めた。

 

「……はっ、はぁっ、ふぅっ…くっ……。

 おっ……おとっ、…お父さん」

 

 それは凪乃の意に反して出た言葉だった。

 友と過ごしても埋めきれずにいた11年の孤独。在る筈だった暖かい年月に思いを馳せ続けた。

 友と断たれ、場も刻も知らず、極限の負荷の中、幼いままの深層が親愛なる父に助けを求めた。

 

「──そうです」

 

 砂溟の両手が凪乃の耳を覆った。

 遠くの祭囃子と過ぎる風の音が絶たれ、篭もる耳の中で砂溟の声だけが反響し続けてた。

 滲んで輪郭の曖昧になる凪乃の視界に写るのは砂溟の優しげな笑みだけだった。

 

「見たかったんです、私も。

 あの日を生き延びたのは貴女だけですから。

『奇跡の子』、と呼ばれた貴女だけ。

 不躾でしょう、不愉快だったでしょう。

 好奇の眼差しも、擦り寄る人々も。

 私は()()()()()》ります、私だけは貴女の気持ちを…。

 でもあの日、私はあの場所に居なかった。

 私の家族の最期の顔を…見ることができなかった。貴女だけなんです。

 私の家族は……どんな顔をしていましたか?

 なぜ…死ななければならなかったのでしょうか?」

 

「わっ、わかっ…わかんない、わかんない」

 

 凪乃の思考は既に沈んでいた。

 今この瞬間の出来事に、ただ幼子のような反応を返す事しかできなかった。

 凪乃の瞳から溢れた涙が砂溟の両手を濡らしていた。冷静でいられなかったのは砂溟も同じであった。砂溟の内で起こる様々な感情が渦を巻いては涙となって溢れ出た。

 想い人の弱りきった姿を目の当たりにして動悸を抑える事に精一杯でありながら、亡き家族への想いがとめどなく溢れて泣き出したい気持ちでいっぱいだった。

 

「……夜明さんの『転景』を観た時から気付いていました。もしかしたら、って。

 でも諦められないんです。

 だから……一度、夢をみてもらいますね」

 

 砂溟は願った。

 凪乃があの日を思い出すことを。

 表層に出ずとも、眠る記憶の蓋が開くことを。

 

「夢には記憶の整理…という側面もあるそうです。眉唾ですが……私は信じたい。

 だから、少しだけ眠ってください。

 大丈夫。起きるまで傍にいますから、ね?」

 

 凪乃に聞こえているのは砂溟の声だけだった。

 朦朧とした思考が徐々に微睡んで、やがて視界は闇に閉じられる。

 

「大丈夫…。貴女を愛しています」

 

 闇の中で言葉だけが響いていた。

 沈みゆく思考はただゆっくり、ゆっくりと。

 夢に堕ちるだけ。

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