「おとうさんおとうさん!あのおっきな木なに?!」
幼い少女の指が飛行機の厚い窓ガラスを突く。
矢印の先には鹿々桜の中心地"龍の顎"に聳える界桜樹があった。上空から見下ろす界桜樹は少女の言うように一本の大木に見えた。
ただし、それは少々巨大《おおき》すぎた。
外海より訪れる人々からは"世界樹"とも称される程に大きなそれは、鹿々桜のランドマークになっていた。
「あはは、たしかに木に見えるね。
あれは実は山なんだ。界桜樹って言ってね。
ああ見えて、活火山なんだよ」
父親が膝に乗る少女の頭を撫でながら、素朴な疑問に答えを返す。紫紺の瞳を細め、三日月を描く口元からは溢れる程の愛情が滲んでいた。
「かいおうじゅ?かつかざん?ってなに!」
「そうだなぁ。火を吹く山…違うな。
うぅん…あぁ!そう。生きてる山の事だよ。
界桜樹は特に変わっていてね、噴火した時に桜を咲かせるように見えるんだ」
「ふぅん。ふんかってなに!!」
少女の好奇心は止むことを知らなかった。
父譲りの紫紺の瞳はただじっと界桜樹と呼ばれた山の火口を見つめ続けた。母譲りの視力は少女の瞳に火口の奥の奥に沸き立つ桃色を捉えていた。
「あはは、凪乃は知的好奇心に溢れてるね。
将来は研究員、かな?」
「ちてき??ってなに!けんきゅういんってなに〜〜〜!!」
「あはははは。困ったなぁ」
少女は過ぎ行く界桜樹から視線を外し、ぱたぱたと小さな手足を振りながら父の大きな胸に飛び込んだ。
舌足らずな愛らしい発音で飛び出す幼い疑問に父親は笑いを堪えることができなかった。母親はその隣で大きく口を開けて眠りについていた。
少女はそれが可笑しくて仕方がないのか母の頬を突ついては父に愛くるしい笑顔を向けて遊んでいた。
「界桜樹の周り…"龍の顎"はね、いつでも入れるわけじゃないんだ。
昔、僕も連れて行ってもらった事がある。近くで見ると凄いよ。凪乃も行ってみるかい?」
「いきた〜〜〜〜い!!!みんなでいこおね!」
幸せな時間は続く筈だった。
この両親は少女が大人になっていく姿を見届ける筈だった。
でもそうはならなかった。
それだけだ。……それだけの話。
***
「もっかい言うよ、凪乃に触らないで」
廻琉の声は震えていた。
昏空には厚い雲がかかり始め、寂れた神社には宵闇が落ちていた。提灯の仄明かりのみが唯一の頼りの中でこちらを見据える赤目に恐怖を抱くのは至極当然と言えた。
「思っていたより遅かったですね」
ゆるりと立ち上がって擡げられた砂溟の顔は、廻琉が楚曳支部で見た時と同じ、寸分の笑みもない冷たいものだった。じっと据わった赤目が向ける視線は廻琉の肌を刺すような冷たさを含んでいた。
「凪乃になにしたの。怪我させてないよね」
「一応歳上なのですが」
「知らないよ。凪乃を返して」
廻琉にはただ正面から説き伏せる以外の策はなかった。それ以上のものを講じられる程、今の彼女は冷静ではなかった。尤も、冷静であったところで策を弄するほど器用ではない事を彼女自身も自覚していた。
「凪乃に何したのって聞いてるの」
ただまっすぐにぶつかる事。
それが廻琉にとっての最善の策だった。
「くどいですね。少し眠ってもらっているだけです。疲れているようでしたので」
砂溟は苛立ちを抑えられず吐き捨てるように答えた。
「それに、」
砂溟の姿が闇に溶けるように薄らいでいく。
蜃気楼のように曖昧になった輪郭と灯る赤目だけが砂溟の居場所を報せてくれていた。
「貴女には関係ありませんから」
廻琉を中心に右回りに歩を進めながら、徐々に距離を詰め始める。
砂溟は暴力を嫌っていた。
例え相手が嫌悪の対象であっても拳を振るう事はなかった。
それが愛する両親の教えだったから。
まさに今、冷静とは程遠い状況においてもそれは不変の契りであった。
砂溟の狙いは恐怖を与える事の他になかった。
廻琉が自身と同じ能力を持つ以上、物理の応酬になる事態は避ける必要があった。願わくば凪乃と同じく緩やかに眠りにつかせる事、それが砂溟にとっての目的《ゴール》だった。
(……どうして目で追える?)
距離を詰める最中《さなか》、廻琉の視線は砂溟から外れる事はなかった。
これは砂溟にとって予想外の出来事だった。
凪乃の周りを付いていた時と同じく、"見えぬように願って"いるにも関わらず、廻琉は砂溟を見失わなかった。
(同じ夏霞だから?未解明の『昏』の作用が?
…"願い"が?いや、それより……)
「……つっ、く」
(……頭が…痛い)
痛んだのは凪乃につけられた傷ではない。
凪乃が夢に堕ちてから廻琉が訪れるまでの間も砂溟は耐え難い頭痛に見舞われ続けていた。
初めは熱中症に近いものだと考えていた。
凪乃を神木の木影に運び、水分を摂って充分な休息をとったつもりだった。更には回復を願うことも試した。しかし頭痛は増すばかりであった。
これは目の前の廻琉以上に砂溟を苛立たせる要因になっていた。
廻琉はこの機を見逃さなかった。
「……知らないんだ」
砂溟が痛みに耐え切れず頭を抱えて屈み込んだ瞬間、廻琉が凪乃の居る方向へ駆け出した。
「凪乃っ、凪乃!凪乃!
ごめんっ、ごめん!遅くなった」
眠る凪乃を両の腕で抱え、砂溟の方へと向き直る。凪乃は廻琉の腕の中でも安らかな寝息をたてて眠り続けていた。
「……ん………おとう…さん」
廻琉の腕に顔を埋めて凪乃が寝言を零す。廻琉は凪乃の頬を伝う涙を拭い、安心したように笑みを浮かべた。
凪乃の無事を確信し、胸を撫で下ろす。
しかし二人にとっての脅威は未だ残っていた。
「夢を…見て頂いています。貴女の知らない、私と……夜明さんだけの傷を…」
「……夢」
砂溟は既に立ち続ける事すら限界だった。頭痛の余りに視界は歪み、自然と涙は零れ、鼻血が滴る事すは鈍くにしか感じられていなかった。
「……そろそろ目を覚まされる頃でしょう。
そうしたら…話を…つっ」
「もう帰りなよ。見てらんない」
この時廻琉が抱いた感情は侮蔑ではなかった。
廻琉の凪乃を抱く腕に自然と力が籠り、凪乃の顔が胸に埋まる。
未だ、廻琉の中に恐怖の念はあった。
もし凪乃の目が覚めなかった時のことに、目を覚ましたとして無事な保証があるのかということに、そして目の前の砂溟の現状に若干の恐怖を抱いていた。
「これは忠告、だよ。帰って、はやく」
廻琉の腕の中で凪乃が小さく身を震わせる。
廻琉の視線は弱った砂溟に向いたまま、気が付かないままに再度両の腕に力が籠る。
「……まだ、もう少しだけ…まだっ、まだなんです。だから…」
砂溟が震える手を凪乃に向けて伸ばす。
抑えるも戦慄は止まず、視界は朦朧として涙は溢れ続けていた。
「……んっ…ん、んくっ」
二つの夏霞が重なったが故か。
将又、自然な覚醒か。
「……廻琉?」
眠る夜明が目を覚ます。