妊娠20週目を迎えたある日の朝、女が目を覚ますとそこには一枚のカードが置かれていた。
"啓示"である。
不思議な事に、女の中に"啓示"に伴う確信が無かった。元より女は能力というものには懐疑的だった。そういうものだろう、と思っていた。当然、カードは破棄したし登録に行くこともしなかった。
後日、娘が産まれた。亡き夫譲りの瞳の色をもって産まれた我が子に、女は深い愛情を抱いた。
変化に気が付いたのは娘が言葉を話せるようになった頃だった。
娘との会話に不都合が生じ始めたのだ。
娘は女の返答を待たずとも会話を続けてみせた。その内容が支離滅裂なものであればまだ良かった。不気味だったのは娘の発する言葉全てが、女の思い浮かべた言葉に沿った返答になっている事だった。
怖かった。
思い返せば娘が幼い頃、夜泣きに悩むことはなかった。ぐずるのはいつも女が近くに居る時だった。
娘が怖かった。
それ以上に、娘を畏れてしまった事が。
至らない自身を「ママ」と呼び、慕い、「だいすき」と言って抱きついてくれる娘を不気味だと思えてしまえた自分自身が。
ただ、怖かった。
***
「わたしはお母さんと帰るの。
お母さんのお家に帰るの。
あそこはもうわたしの家じゃないから」
少女は兎の方を振り向くことなく言葉を返す。少女の隣に佇む影だけが兎の目を見続けていた。
少女の言葉から弾かれた"語"は先程までと打って変わり、まるで厚い雲に覆われたように読むことができなかった。
「本気で言ってんのかよ」
兎の目には影と繋ぐ少女の手が小さく揺れるのが映っていた。兎にはそれがまるで離れかけた影を捕まえるでもしたような動きに見て取れた。
(『乂種《マザリ》』…って出てたな。アレのことか?まさか母親だと思ってんのか…?)
兎は『望雲之廟』に入る前に受けた羽々斬の言葉と、実際に目にしたものを思い出していた。
『狼狽えないように』と言われた事を。
幼い日、誕生日の夜の記憶を写したあの景色を。
あれは羽々斬の属する研究所基幹職の間で『転景』と呼ばれる、『望雲之廟』に附する異常事象であった。
『転景』は侵入者各人の心の奥底に沈む在りし日の記憶を写し出す。燦然と輝く記憶も、疼き続ける忌まわしい過去も、忘れてしまった輝かしい日々すらもを掘り返し、映し出し、情景と為す。
この現象は彼等にとって非常に都合が良かった。『転景』を目にした者は必ずと言っていい程に
揺れた心を彼等は見逃さない。
付け、這い、絡みついては離れることは無く。
彼等は"依"を欲する。
『乂種《かれら》』とて孤独は侘しいのだ。
これらの事を兎は知る由もない。しかし、彼女は与えられた情報から近しい答えを導き出す事ができていた。
「ワガママ言ってんじゃねーよ。じゃ誰があたしに飯食わせてくれるってんだ」
碧に言葉を返しながらも兎の目は影を見据え、頭は影について考えを巡らせていた。
羽々斬が"主は碧と共にいる"を読み違えたと言ったこと。気付いた事はあるかと問うてそのまま自分を残してどこかへ消えたこと。そして聞きそびれた"ずっと──"の後に続く言葉のことを。
(ずっと…ってのは碧とって意味じゃねえ、よな。読み違えってそういう事だろ。後は…気付いた事か)
「わがままはどっちの方なの。
凪乃がいるじゃん、……廻琉ちゃんも。
だからわたしは要らない」
『大丈夫、お母さんがいるよ。お母さんは碧だけなの。碧も、お母さんだけだよね?』
影が碧の身体を抱き締めるような形で纏わりつく。碧の手は影と繋がれたまま、応えるように影に笑顔を向ける。
「うん!だからもう『要らない』」
"⬛︎"。
(……?)
「…廻琉もだぁ?あいつが料理下手なのお前がいちばん知ってんだろ!お前こないだ"わたしが教えてあげる"って言ってたよな!」
兎が返す言葉はなんだってよかった。
能力が"解"を導かないというのは初めての事ではなかった。しかし受ける言葉に弾かれた"語"が読めないということは未だ経験したことがなかった。交わせば読めるようになるという希望的観測をもとに言葉を投げた。
「しらない」
「目玉焼きは酷かったなぁ!全部炭になってフライパンも買い換える羽目んなった!」
小さく震える右拳に握り締めた一枚の紙、それに書かれている事をただ実践してみせた。
(……これでいいのか?)
浮かんだ言葉をあるがままぶつける事、それが兎の思う最適解だった。唯一の不安要素は碧の隣でただ佇むだけの薄気味悪い影だけだった。
しかしそれは"羽々斬が自分を置いて消えた事"から、さほど脅威になるものではない。そう断じた。
「……しらない」
『もう行こう、ね?』
「米すらろく炊けやしねぇ!べっちゃべちゃで酷いもんだった!凪乃の箸があんなに進まないのは初めて見た!お前が炒飯にしてくれたお陰でなんとか食べ切れたな!」
「…知らない知らない知らない!!うるさい!!」
『帰ろう、早く』
碧が声を荒らげて力任せに振り返る。赤く灯る両の瞳でまっすぐに兎を睨みつけ、声を震わせながら感情のまま兎に向けて怒りを飛ばした。
「いつも話聞かない!兎はいっつも言いたいことばっかり!いつもいつもいつもいつもいつも!!!わたしががきみたいだからって!バカにして!」
『帰ろう、帰ろう、帰ろう、帰ろう』
「ああそうだな!ガキだと思ってる!バカだとも!」
「だから帰るの!だから迎えに来てくれたの!!もう『放っといて!』」
"⬛︎"。
「凪乃もそう!!難しいことばっかり言って!わたしがわかんないからって!廻琉ちゃんも、きっとふたりでわらってるんだって!ずっと!!」
「そうだなぁ!あいつら最近ちょっとイチャつき過ぎだよな!あたしもそう思う!」
兎はもはや難しく考える事を止めていた。ただ思うままに、そう在った。
「でもなぁ、そういうとこが大好きだ!
お前のガキなとこも!あいつらのバカなとこも!」
「…なに言ってるかわかんない!!『きらいきらいきらい!!』」
"異"。
瞬。兎は読み逃さなかった。
「…なぁ、碧。初めて会った時のこと覚えてるか?」
「『興味無い』。『覚えてない』」
"⬛︎"。
「母さんがお前を連れてきた日な。あたしの誕生日だったんだ。びっくりしたよ、マジにな」
「…なんの話かわかんない」
"真"。
「あの日の夜にさ。"孤児院ではずっとひとりだった"って話してくれたよな……どうしてなんだ?あの時お前はどうしてひとりだった?」
「…カウンセラーにでもなったつもりなの。
みんなと同じだよ!わたしががきみたいだからって!こんなんだからって!……だから捨てられたんだって!ばかにされたの!!これで満足!?」
"真"。
「あたしもな、ひとりだったんだ。
父さんはあたしが産まれる前に死んでた。母さんはあたしを気味悪がって、あたしが起きてる時に家に居ることはほとんどなかった。祖父母の話なんか聞いたこともねぇ」
兎の声色は落ち着いていた。灯る瞳は碧を見据えて、両の脚は一歩ずつ、ゆっくりと碧の元へと向いた。
「なに、不幸自慢がしたいなら『ひとりで』やって」
「だから嬉しかったんだ。違ぇな。
……そう、嬉しいんだ。今もずっと。
同じだから、じゃない。居てくれるからだ」
兎の目はもう影を映してはいなかった。
映るのは十年以上を共にした親友の怒りと哀しみに満ちた表情《かお》だけだった。これまで向けられた事のない程の怒りは、例え⬛︎だとしても兎の心を刺した。
「……なにがいいたいのかわかんない」
『嘘だよ。いつか離れていく。貴方はすぐ独りになる』
「碧はあたしのこと…あたしらの事、嫌いか?」
「『きらい』、『だいっきらい!』」
"⬛︎"。
「どこがだ?なにがだ?」
「兎の……兎の、兎のいつも食器片さないとこがだいっっ『きらい!』余計な物ばっかり買うとこも!!夜も音楽かけてうるさいとこもだいっっっっ『きらい!!』」
『孤児院でもそうだったでしょう?』
「それで、あたしだけか?……違うな?」
「凪乃は難しい言葉ばっか使っててなに言ってるかわかんないし!危ないバイトしてるとこだってそう!!時々怪我して帰ってくるとこも!辞めてって言ったのに!!廻琉ちゃんはうるさいし!声おっきい!!!凪乃にばっかりべたべたするとこも!!寝坊ばっかりするとこも!!」
"真"。
『あぁあ、あぁあ』
「嫌いか?」
兎の足が碧の足下より伸びる小さな影を踏み締める。
「『きらい!きらい!だいっ──』」
"異"。"違"。
───"詐"。
兎の腕が碧を抱き寄せる。
「"詐"だ」
『失敗した』
「っ!お母さ───」
『あんたなんて』
『産まなきゃ良かった』
兎が碧の耳を塞ぎ、耳元で小さく呟く。
「見んな、聞くな。あれは"お母さん"じゃねぇ。
いつか話してくれたよな、手紙のこと」
余計な声は混ざらない。
碧の耳に響いて聞こえるのは優しい親友の声だけだった。
「っ…。……うん」
「お前の母親はお前がひとりになる事を望んだか?」
「……ううん」
「お前の事をどう思ってるか、書いてあったか?」
「……」
「手紙、大切にとってあるの知ってんだ。
時々読み返してることも、そんで朝に目腫らしてることも」
「…愛してるって、書いてあった。一緒に…いられなくって……ごめんねって、でも、でもね。ずっと………いちばん、たいせつな、」
「宝物だ。母親にとっても、あたしらにとっても。
ずっとそうだ。これからもそうだ。ずっと」
「……っ、うん」
「だから帰ろう。みんな待ってる」
「…うん」
「メシさ、今日はあたしが作るよ。下手だけどよ。
ハンバーグでもいいか?」
「………デザート。ケーキが食べたい、おっきいの」
「そうだな。折角だからケーキは四人で作ろう。でっけーの。凪乃も廻琉もあんま器用じゃねえからな。
時間はかかるかもしれねえけど、大丈夫だろ」
昏空を覆う雲は徐々に拓けて。
打ち上がる花火がふたりを照らす。
「どうせしばらく夜はこねえんだから」