古社で合流した二人は、廻琉が春草公園を発つ前に羽々斬から受けた指示を頼りに歩いていた。
目指すのは合流地点となる"花火の上がる場所"であった。
廻琉はぼんやりと宙を見上げて歩く凪乃の周りをくるくると周りながら、子どものように笑っていた。
「打ち上げ場所ってさ、どこなのかな!?どこにあるのかな!」
「人混みから離れた場所が多い筈だけど。花火、見えてくれたらわかるのにな。…ていうかちゃんと決めてなかったの?」
空は相変わらずの厚い雲で覆われていた。まるで人目につかないよう、花火を隠すように、雲は一切の隙間もなく『昏』の空を覆い隠している。
地に宵闇を落とす雲に凪乃は違和感を覚えていた。隣ではしゃぐ廻琉に教えた『予兆』の空の事を思い出していたのだ。
それは決まって『昏』の前に訪れる。例外はない。故に『予兆』と呼ばれている。『予兆』は直に訪れる『昏』に備えて雲を流して散らす役割がある、と考えられている。詳細については様々考察されているが、『昏』発生機序と併せて調査中、と記録されていた事を凪乃は覚えていた。
廻琉も浮かれるばかりではなく、ある違和感の正体について彼女なりに考えていた。廻琉には凪乃程の知識はなかったがひとつだけ決定的な"違"があった。
彼女達が『望雲之廟』に踏み入る前に四人で見上げた空は一片の雲もなく、今の曇天とは見比べる必要すらない程に輝いていたからだ。
「いっ…急いでたし?あっ!でもでも凪乃、見てほら!変!みーんな空見てる、ね!曇ってるのに!!
ほら!また上がった!見えないのに!!変なの!」
一発、二発と口笛じみた高い音が空に向かって打ち上げられては天幕に呑まれ、爆音ばかりが街に響き渡る。道行く過去の人々はまるで姿を見せない花に目を向けては連れ合いと笑いあっていた。廻琉にはそれが可笑しく見えているようで、隣でむっつりと顔を顰める凪乃に向けてけたけたと笑って見せた。
「そうだね。でも、まだなにか──」
「ねえねえ!手、繋ご!また居なくならないように!」
廻琉は返事を待たずに凪乃の手を取り、未だ不明な目的地へ向けて前へ前へとずんずん歩を進めていく。この時、廻琉はすぐさま目的地に到着することを望んではいなかった。悠長かもしれないが、もう少しだけこの時間が続いてくれたら、と思っていた。
「いーそーご!ゆっくり!転ばないように、ね!」
楽しかったのだ。過去の再現とはいえ『昏』の中で凪乃とふたりで過ごせるこの時間が幸せだった。
かといって碧と兎の事を気に留めていないわけではなかった。後ろをついてくる凪乃の焦燥は繋ぐ手から伝わっていたし、廻琉自身も早く四人で帰りたいと願っていた。しかし「任せる」と言った以上、過度な不安は無粋だとも思っていた。
それだけ信頼していたのだ。凪乃と分かたれた後、狼狽する自身を気に掛けてくれた兎は、廻琉にとって今現在まで続く強い心の支えになっていた。
「…なんか、さ。廻琉、なんか気にならない?
気の所為かもだけどさ。周りの人、なんか」
廻琉に手を引かれるままに人々の隙間を進んでいく中、凪乃の胸にはひとつだけ引っかかるものがあった。
「んん?アレでしょ?過去のとーえい?ってやつ!だよ!会話はできないの!一日をくりかえす?んだよ!へへ!」
廻琉が得意気な顔で教わったばかりの知識を語る。彼女なりの精一杯の語彙と拙い語りから、凪乃の心はほんの少しだけ軽くなった。
「あ、だからなんだ。……いや違くて、今は。
グループが多いなって、上手く言えないけど。
ひとりで居る人…いなくない?出店の人も二人だし」
「お祭りだから、ね!家族で、とか!カップルで!!とか…へへへ!お店の人は〜、あれ!防犯一式…?みたいな!?」
ベビーカステラの屋台には夫婦と思しき壮年の男女が、金魚すくいの前には高校生ほどの連れ合いが、向かいには大量に並ぶ様々なキャラクターのおめんを指さして地団駄を踏む幼子と財布を開く父親が、それぞれの時間を過ごしていた。凪乃の目に映っている人々は何れも例外なく、隣に誰かを伴っていた。
「防犯意識、ね。でもそういうもの…なのかな」
お祭りだからと言われてしまえばそれまでだった。現に凪乃自身も三人を連れ立って花火大会へ赴いたのだから、そういうものと受け入れられないことはなかった。それに、お祭りという場なら連れ立って歩く者が多いこと自体は不自然ではなかった。これだけ人が多ければ見落としているだけだろう、凪乃はそう思うよう努めた。
「……そういうもの、か。…うぅん、でも」
「うんうん!へへ…ん?」
凪乃の手を引いて進む廻琉の目にひとつ、"違"が映る。立ち上るように伸びる長い影がひとつ、廻琉の前方に立っていた。凪乃は未だ納得がいかないようで、雲と周囲の人々とを交互に見ては視線を落として首を傾げ、前方の影に気が付く様子はまるでない。
「射的の店番に二人も…?
串ものとかなら……まぁわかるけどさ」
「……ふふ。うん、うん」
廻琉はその様子をみてひとつ息をつき、そのまま歩を緩めることなく進んでいく。廻琉の表情《かお》は凪乃と喜びを分かちあったその時からずっと、眩しい程の笑みを湛えていた。それは今、この瞬間にも。
一歩踏み込めば影に重なるその瞬間、廻琉の耳にのみ、風が声を届ける。撫ぜるように、優し気に語り掛けるように。
『…真宵《まよい》。おば───』
「違うよ」
避ける事なく、払うように。廻琉の手が影を拓く。
廻琉の瞳は既に影のずっと先、目的地だけを見据えていた。廻琉の笑顔は喜びを乗せて、繋ぐ手は固く握られている。それは依然変わりなく。
「ん?廻琉、なにか言った?」
「ううん!凪乃、ちょっとぼーっとしすぎかも、ね!
…あ!あっちじゃない!?打ち上げ場所!」
廻琉が前方を指し、凪乃の手を引いて駆け出していく。屋台の立ち並ぶ大通りのずっと先、音を纏い、尾を引いて打ち上がる花火の種が二人の目に映る。
「おっきい川だ、ね!水も澄んでてキレイだし、花芽川よりおっきいかも?」
「花芽川も一級河川なんだけどね。あれより大きいとなると… 迪源川《みなもとがわ》、かな」
「なんでなんでなんで!!なんでわかるの!?
あ!!いたいたいた!あそこ!たぶんあれ、だよ!」
「…ほんとだ。わかりやすくて助かるけど」
なだらかな傾斜を描く大通りを過ぎ、大きな川を跨ぐ橋を渡りながら、橋下で一人の少女を伴う黒い傘を見つけた二人は少しだけ歩調を速めた。黒い傘の下では、風に靡く白衣の裾から不釣り合いなフリルスカートが覗いていた。それはこの景色においてある意味では"違"であった。
「───へん──ンマに!辞め────いにな!」
「なんか聞こえる、ね!ケンカかな?」
「……ん〜?どうだろ。急ごっか」
凪乃は羽々斬に向けて声高になにかを訴える小さな少女に既視感を覚えていた。いつだったか、直接言葉を交わしたこと自体はないが、学校で見掛けた覚えがあるような無いような、あやふやな記憶を掘り進めながら、怒気を孕む声の元へと足を速めた。
「オイ!聞いとるんか!オイ!オイコラ!わろてんちゃうぞ!」
「ちっちゃい子!怒ってる、ね!妹さんかな?」
「いや…こんなとこに連れてこないでしょ」
橋の下では普段通りのにへらとした笑みを浮かべる羽々斬に向けて、小さな少女は地団駄を踏みながら肆京訛りの怒号を飛ばしていた。
「あきません!!明日にでも辞めたるからな!
黒すぎるやろこのご時世に!『誘扉』渡したら後は非番や言うてたやろがい!オイ!ヘラヘラすな!」
「まあまあ、ははは。そう怒らないで。くくっ。
あ、ほら後ろ。凪乃ちゃんと廻琉ちゃん来ましたよ」
そう言われた瞬間、少女はあからさまな作り笑いを浮かべて振り返り、二人に向けて猫を被ったような声で自己紹介を始めた。
「あっ!夜明先輩と陽戸先輩!どうもぉ!
あたし神代桜中等部3年の卜部《うらべ》っていうもんです!軽音部では兎先輩にいつも──」
「あ、もうバラしちゃっていいっスよ。くくっ。もう兎ちゃん知ってるんでしょ?隠したって…ふふ、意味……ないって、あははは!」
「それを先に言えやぁ!!」
溌剌としているかと思えば一転、癇癪玉が弾けたように立腹する少女を前に、凪乃と廻琉は気圧されるばかりであった。
「……ふ。変なの」
「えっ!あっ、えっえっ!うっ、うん!うん!ね!」
余りに空気感の違う羽々斬と卜部を前に、凪乃は不思議と安らいでいた。どこか張り詰めていた緊張感は薄らぎ、心は穏やかなまま凪乃は無意識のうちに廻琉の手を指先で確かめるように柔く包み込んでいた。一方の廻琉は余りに動揺してしまい気が気ではいられなかった。
「凪乃ちゃん。こちらは卜部 飾ちゃんです。
研究所《うち》では凪乃ちゃんの先輩になりますね。こう見えてもおふたりより歳上なんですよ。…くくっ。だから敬語…忘れないでね、ふふ、一応。歳上っ、だから、あっははは!」
「笑うなや!レディの歳の話で笑うなや!アカンやろ!どうなってんねんウチのコンプラは!!」
「あだぁっ!ちょっと!今はダメ!疲れてるんですよ!もっと上司を労わってください!」
デリカシーの欠けた発言を繰り返す羽々斬の臀部を卜部が蹴り上げる。漫才のようなやり取りを続ける二人は傍から見れば仲の良い幼い姉妹のように見えた。
廻琉は凪乃の手を握り返しながら、ふと羽々斬が兎と共にいない事に気が付き、慌てて羽々斬へと問いかけた。
「羽々斬さん!兎ちゃんは!?一緒にいるはずじゃっ」
「あ、すみません。先に説明しておくべきでしたね」
羽々斬が一度、傘をくるりと回し、向かいの河川敷のずっと先を一瞬だけ指して示す。それから右耳の辺りを指で軽く叩き、言葉を続けた。
曇天の暗い中、一瞬だけ遠方を指し示した羽々斬の指が震えている事に、凪乃だけが気が付いていた。気付いたものの、凪乃には羽々斬の摩耗までは汲み取ることはできなかった。
「兎ちゃんは今碧ちゃんとお話中です。
危険はありません。ただ仲直りするだけですから。
それに──」
羽々斬がもう一度、傘をくるりと一周させる。
「──もうそろそろ帰ることができそうですよ」
羽々斬は先程指し示した方角を向きながら、琥珀に灯る瞳を細めて小さく呟く。傘をもう一度くるりと回してから卜部の方へと向き直り、ひとつ指示を飛ばした。
「ここ出る直前にオレは休眠《スリープ》します。飾ちゃんにはオレを支部まで運んで頂きたい」
「了解、呼ばれて終わりやなくてよかったわ」
「お願いしますね。
ではここからは少しお勉強の時間としましょう」
羽々斬はそのまま背を向け、川岸へとゆっくり歩を進めていく。羽々斬は背を向けたまま、三人に向けてひとつずつ言葉を投げ始めた。
「まず飾ちゃん!あなたに辞められるとオレの楽しみがひとつ減ります。あのビーフストロガノフが食べられなくなるのは寂しい!」
「……ふん!別に本気で言うたんとちゃうわ!」
「次に廻琉ちゃん!あなたは……よくやりました!
花丸を上げましょう!!」
「当っ然!です!ね!凪乃!」
廻琉が凪乃に向けてピースを作り、小さく首を傾げて頬を緩める。凪乃はそれに自然と零れた笑みで返した。
「では、凪乃ちゃん。ここに来るまでに気が付いたことがありますね?なんでもいいですよ、教えてください」
「……はい。では、まず雲。
『予兆』で流される筈なのに今ではあんなに。
なのに皆…見上げてます、花火を見ているみたいに。
もうひとつは、気の所為かもですけど。
組《グループ》。それもペアが多いなっ、て」
「上出来です。『望雲之廟』については廻琉ちゃんから軽く聞いていますね。
ここの主…『乂種《まざり》』と呼びますが。
ある特殊な条件下で産まれる、複数の能力が混ざりあった悪意をもった異常です。
あれらはなにかしらに強い執着を抱き、その対象により起こす事象は様々です。
今回オレはその執着が家族にある、と読みました。が、違っていた。
『乂種』はずっとオレ達を見下していたんです」
『産まれてこなきゃよかったのに』。
『失敗した』。
「ムカつきますよね。
家族なんて初めからどうでもよかったんだ」
この時、羽々斬は『降个』を通して届いていた不快な声に心から憤っていた。
「踏み躙ること。仲を。縁を。そして空からこの地を」
羽々斬が懐から柄を取り出し、高く掲げる。
空を突くように掲げられ、傘からきらりと覗くそれに廻琉は見覚えがあった。それは『望雲之廟』に入る前に羽々斬が使用した物と同じであった。
『これからもそうだ。ずっと』
「よくやりましたね。
さぁ、今、最後の縁は紡がれました」
羽々斬は刃のないそれをゆっくりと振り下ろす。
縦に、割くように。
「これにて、」
彼がした事はそれだけだ。
たったそれだけで、空は拓けて。
「"異"は……均されました」
最後の花火が、過去の地を照らした。