家に帰りついてからも落ち着かなかった。
シャワーを浴び、夕飯を食べて課題を済ませ、いつも通りベッドに倒れ込む。
至って普通の日常だ。
それなのに頭の中から離れない。
転校生。
能力者。
『ほんの少しだけ 思い通りになる』能力の。
陽戸 廻琉。
そして、あの一言。
『一目惚れしました』
「……」
枕へ顔を埋める。
意味がわからない。
能力も。告白も。あの子も。
考えても答えは出なかった。
ならもう考えない、これ以上は。
寝よう。今日のところは。
いつも通り電気はつけっぱなしで。
夜も明るい部屋の中で、今日もひとり。
月が見守る宵の刻、外からは虫の鳴き声だけが響いて聞こえていた。
***
翌朝。
教室へ入る。時計は7時30分を差していた。
既にぽつぽつと先着者の姿がある。
いつも通り、時間通り。
本当にいつも通りだった。
ひとつを除いて。ただ、ひとつだけ。
視線が勝手に窓際へ向かう。
自分の席の、ひとつ先。
「……」
いた。
陽戸 廻琉。
席に座って、教科書を開いている。
世界史…か。
(……マジメだな)
そう思った。その瞬間、
廻琉が顔を上げる。
目が合う。
「あ」
小さく笑う。
それから、
ひらひらと手を振って、
「お・は・よ!」
口だけがそう動く。
「……」
無言のまま席につく。
調子が狂う。なんなんだ、朝から。
***
朝礼。
さっちゃん先生が出席簿を片手に、気怠げに名前を読み上げていく。
「舞鼓〜、舞鼓 碧〜」
珍しい事に返事がない。
普段であれば、苗字を呼ばれるより先に、教室中に元気な返事が響き渡っている筈である。
教室が少しだけ静かになる。
「碧欠席ねー。はい次ー」
「……」
珍しい。
碧が休むこと自体は初めてではない。
でも、連絡なしで休むのは少し珍しい。
前の席に座る兎の背中を見る。
特に驚いた様子もなく、頬杖をついていた。
訳知り顔であった。
「兎」
朝礼が終わってすぐ、声をかける。
「碧、休み?」
「ああ」
「風邪?」
「違う」
「じゃあ何か、病気…とか?」
兎がこちらを振り返る。
少しだけ口元を緩めて目を細め、悪い顔をしている。
「そんなに心配なら放課後、ウチに来い」
「……なにそれ」
「来ればわかる」
それ以上は言う気はなさそうだった。
気になる、というほどでもない。
でも、少しだけ引っかかっていた。
***
授業中。世界史、亖先生の担当科目。
ノートをとる。
先生の話を聞く。
いつも通り。いつも通りだ。
そのはずなのに。
ふと、左を見る。
廻琉がノートをとっている。
綺麗な字だった。
丸みがあるのに読みやすい。
几帳面そうな文字。
数分して、また左を見る。
今度は頬杖をついていた。
目を細めて、少しだけ眠たそうに。
さらに数分後、また見る。
今度は先生に当てられていた。
「初音蒼角の著書に遺された一文。
『″い″は均された』と。
この″い″とは、なにか?
え〜、陽戸。答えてちょ」
「はい!はいはい!異なるの″異″です!」
即答。
「うぃ。ハナマル〜。模範解答でござい。
ま他にも説はあるとされているワケやが──」
普通に正解した。
教科書には書かれていない、補助資料にちょこっと記載があるだけの内容なのに。
(…へぇ。意外と)
勉強、できるんだ。
と、そう思った瞬間、廻琉がこちらを見た。
目が合う。
そして、
にこり、と笑う。
「……っ」
慌てて視線を前に戻す。
黒板を見る。
黒板しか見ない。
絶対。授業中なんだから。
うん、そう。そう決めた。
…決めた筈なのに。
数分後、また見てしまっていた。
「……」
自分でも意味がわからなかった。
***
昼休み。昼食、いつもの場所で。
中庭に並べられた長机の1つ。私達の定位置。
今日は3人。
私。
兎。
廻琉。
1人足りないだけで、いつもの場所が少しだけ広く感じる。
「そういえば」
廻琉が弁当箱を開けながら、首を傾げる。
「舞鼓さん、今日はお休み?」
「ああ」
兎が短く答える。
「体調悪いの?」
「違う」
「じゃあ、どうして?」
「気ニナル、放課後。ウチ、クル」
なんでカタコト?
「私も?」
「そりゃそうだろ」
当たり前みたいに言う。
「アイツ、ヨロコブ」
「…?」
廻琉が嬉しそうに目を丸くする。
「やった!」
「嬉しいの?」
「うん。喜んでくれるなら」
意味がわからない。
でも、廻琉は本当に嬉しそうだった。
その顔を見ると、
なぜか少しだけ落ち着かなくなる。
「凪乃」
兎がこちらを見る。
「来いよ」
「……行くとは言ってない」
「来るだろ」
「なんで」
「心配なんだろ」
「……」
そう言われると、返す言葉がなかった。
碧《たま》のこと。
それはたしかに、少し心配しているのかもしれない。
少しだけ、
本当に少しだけ。
「夜明さん?」
廻琉がこちらを覗き込んでくる。
近い。
「行こうよ、一緒に」
「……近い」
「あ、へへ。ごめん」
廻琉《めぐる》が素直に少し離れる。
離れたのに、なぜか視線だけは残っている気がした。
「兎先輩、いはりますかー?」
廊下から声が聞こえた。
中等部らしき女子が、階段の袖から兎を呼んでいた。碧よりも小柄で、制服の袖が少し余っている。
「部長が探してはりましたよ」
「げぇ〜っ」
兎が面倒そうに立ち上がる。
「卜部、部長に今行くって伝えといてくれるか。
悪い、凪乃、陽戸。ちょっと外すわ」
かしこまり───。とだけ言い残して、卜部と呼ばれた少女は渡り廊下を駆けていった。
「部活?」
「たぶん機材の件。すぐ戻る」
そう言い残して行ってしまった。
騒がしい背中が遠ざかる。
その瞬間。
場が少しだけ静かになった。
碧はいない。
兎もいない。
残っているのは、
私と廻琉だけだった。
「……」
「……」
箸を持ったまま、妙な沈黙が落ちる。
「えっと」
先に口を開いたのは廻琉だった。
「昨日のこと、気にしてる?」
「……どれ」
「あの時の」
危うく箸を落としかけた。
あの時の、と。
わかっていた筈の返答ではあったが、わざわざ持ち掛けられると、どうしても動揺してしまうのが人の性というものだ。
「気にしてない」
「ほんと?」
「別に」
「そっか」
廻琉は少しだけ笑う。
寂しそう、ではない。
困ったような。
それでいて、どこか楽しそうな顔で。
「じゃあ私のこと、今日いっぱい見てたのは?」
「……見てない」
「見てたよ」
「見てない」
「見てた」
「……見てない!」
「見てた!」
こどもか。
我ながら情けないと、そう思う。
思うのだが。
反論できる自信もなかった。
「気になった?」
ひょこ、と視界の端から顔を覗かせ、紅い瞳がまっすぐ私の方を向く。
「別に」
反射で答える。
素っ気なく、一言だけ。嘘じゃない、筈だ。
…本当だ、たぶん。少なくとも私の中では。
「そっか」
廻琉がまた、寂しそうに笑った。
一日中見せていた笑顔の中に、ほんの少しだけ、寂しさの色が滲んで見えたような気がした。
その顔を見た瞬間、なぜか。
少しだけ、本当に少しだけ。
胸の奥がざわついた。
意味がわからない。
本当に。
意味がわからなかった。
***
放課後。
「で、行くんだろ」
兎が鞄を肩に掛けながら言う。
「……まあ」
「ナノ。スナオ、ジャナイ」
「それやめて。ちょっと気になるだけだから」
「…くくっ。はいはい」
その横で、廻琉がこちらを見る。
「一緒に行こ、夜明さん」
「……ん」
断る理由はない。
そう思った。
断る理由はなかった。
それだけ、それだけだ。
兎の背を追って、教室を出る。
廊下は既に生徒達の声で溢れていた。
部活動に励む者、足速に帰路につく者、待ち合わせに急ぐ者。
皆がそれぞれの時間を過ごしている。忙しそうに。
それでも楽しいのだろうか。
楽しいのだろう、きっと。
兎が先を歩く。
廻琉が隣に並ぶ。
並んで歩く、昨日よりも少しだけ近い距離。
気のせいかもしれない。
でも。
気のせいではない気もした。