目を覚ました時、砂溟の目に映ったのは知らない天井だった。天井灯の赤みを帯びた橙色の光に照らされた室内にはいくつかの家具だけが立ち並び、ミニマリストさながらの様相を呈していた。小さな丸机の周りには先程まで人がいた痕跡があった。机上にはカップが二つ並べられ、ラップの掛かるカップの隣に和菓子がいくつか置かれていた。
身体を起こすと、砂溟はまず頭痛が消えている事に気が付いた。視力にも異常はない事を確認し、慌てたように首筋に残る傷跡をなぞるとちくりと刺すような痛みが走り、次に己の選んだ花柄の凹凸が感じられ、深く息をついた。
砂溟がゆっくりと部屋を見渡してみるも、家主の姿はなかった。代わりに覚えのある匂いが部屋中を漂っている事に気が付き、次に腰ほどの高さの本棚の上に飾られた写真立てに目が留まった。砂溟の目が徐々に慣れていくにつれて、写真に映る二人の女性の姿が輪郭を持ち始めた。二人は肩を組み、弾けるような笑みを湛えていた。それはまさに幸せの瞬間を切り取った一枚といえた。
「……お母さん」
──がちゃ。
「っ!ひーちゃん!起きた!?大丈夫?」
砂溟が小さく呟いた瞬間、一人の女によって室内に満ちた静寂が破られた。女は酷く慌てた様子で砂溟の顔、頭、肩、背中と順に触れ、それから力の限り彼女を抱き締めた。
一連の間、砂溟が動揺する様子はなかった。写真を見た時からここが誰の部屋なのか、凡そ予想できていた為であった。
「……そろそろ離れていただけますか?餅染さん」
「あっ…ごめんね。つい、さ。
昔みたいに…って。ダメだね。ごめんね。
でも良かったぁ。なんともない?どこか痛んだり、」
「ありません。触らないで。
看病して下さった事には感謝しますが、私は貴方を許してない。そもそも何故ここに連れてきたんですか」
砂溟の声は硬く、選んだ語彙には静かな怒りが含められていた。喉元は震え、溢れそうな気持ちをどうにか押し殺すように、砂溟の拳は布団の中で硬く握られていた。
砂溟の言葉を受け、餅染は一瞬なにかを言いかけたように震える唇を開くも、すぐさま固く結ばれ、返す一言もないままに砂溟に触れていた手を離した。
部屋には数秒の沈黙が落ちた。餅染は視線を落としたまま、それでもどこか嬉しそうに微笑んでから砂溟の疑問に応えた。
「千景くんから頼まれてさ。花芽川の辺り見回ってたんだ。……『望雲之廟』入ったんだって、ね」
「…っ!そんなことを聞いたんじゃない!私の家にでも運べばよかったでしょう!それにっ!」
砂溟は立ち上がり、視線を落としたまま、耐えかねたように何度も小さく頭を下げる餅染に向けて、怒りのままに言葉を並べた。
「お説教のつもりですか!?私に!!貴方が!?
どの立場から!!今更……っ!!」
砂溟の心は激情が渦巻く反面、虚無感に苛まれていた。ただそれがどこから来るものなのか、今の彼女にはわからなかった。
「母の…っ!自分の姉の葬式にも出なかった貴方が!?あれから一度も!たったの一度も!
私に会いに来ることもなかった貴方が!!!」
今の砂溟にわかるのは、目の前で黙りこくる叔母が自身と家族を捨てた、という事だけだった。
頭痛こそ消えてはいたものの、消耗した体力は回復しきれていなかった。砂溟は酷い空腹と口渇に襲われていた。それでも砂溟は、恐らくは叔母が自分の為に準備したであろう物に手をつける事はしなかった。
彼女の心《プライド》がそれを許さなかった。
「……帰る前に、改めて礼だけは伝えておきます。
どうもありがとうございました、では」
息をつき、手早く支度を済ませて部屋を去ろうとする砂溟を引き止めるように、餅染が消え入りそうな声で語りかける。想い出の中のものとは程遠いその声は、砂溟にとって聞くに絶えないものだった。
「ねぇ、ひーちゃん。今度さ、一緒にご飯で──」
「やめて。もう…私をそう呼ばないで。二度と。
…………では、失礼しました」
小さな閉扉音が響き、室内には一人分の空がうまれる。伸ばされた餅染の手は行き場のないまま、ゆっくりと下を向いた。部屋は変わらず、溟いまま。
***
時間は二十二時。
帰宅してからというもの、私は誰よりも早く風呂場へと駆け込んだ。あまり行儀が良いとは言えないが、待ちきれず徐々に大きな風呂桶を埋めつつある湯に身体を浸らせてみる。少しずつ全身を包み込むような感覚はなんともいえない良さがあった。
肩まで浸かる頃、身体の芯が温まり、ぞわりと爪先から身震いして冷気を落としきる。
「……ふぅ、はぁあぁ」
ふと漏れ出る声と共に一日の疲労が溶け消えていくようで心地が良い。沸かしたてぽかぽかの湯船に浸かることが出来るのは勝者の特権、帰り際の風呂順レースで全力を投じた甲斐があったというものだ。
ちなみに二着から順に廻琉、碧ときて、ビリっけつが兎だった。
「凪乃ぉ〜、風呂上がったんなら配膳手伝ってくれぇ〜」
古社で浴びた汚れを落とし、身体の火照り冷めやらぬままリビングへ戻ると、キッチンから兎の呼び声が聞こえてきた。
乾ききらない髪にタオルを巻いたまま足を運んでみると、すっかり四人分の調理を終えた兎の姿があった。着替えを済ませ、三角巾にエプロンまで着けている気合いの入りようだった。
「おう。碧と廻琉の分、運んでやってくれるか。
これと……これだ。こっちが碧のな」
「早かったね。風呂上がってからでもよかったのに。
それに汗かいてるでしょ?……ん?」
兎が綺麗に盛り付けられたハンバーグを指し、にやりと笑って背中を向けた。三角巾からぴょいと覗く髪が揺れた時、兎用のシャンプーの甘い匂いが鼻腔を擽った。
「気付いたか?風呂は……二箇所ある」
「手、抜いたんだ」
「ちげーよ!ハナっから長風呂過ぎるからだろ!!
なんだ!一時間も!どういうことだよ!
寝てたのか!?もう廻琉と碧も上がってるぞ!」
「……マジで?」
刺すような視線を感じて後ろを見てみるとドアの隙間から廻琉と碧が顔を覗かせていた。二人とも風船のように頬を膨らませて抗議の意を示している。申し訳なさから誤魔化すように目を逸らしてみるも、思わず苦い笑いが零れ出た。
「あ…あは、ごめん」
「持ってけ持ってけ!ほらほら!アホ二人も手ェ貸せ!あたしと凪乃の分も持ってけ!間違えんなよ!」
ドアの隙間から覗く二人が兎によって引き摺り出される。二人は頬を膨らませたままそれぞれの手に皿が持たされ、追い出されるような形で三人まとめて放り出されてしまった。
「間違えんなよ!」
兎が半開きのドアから顔を覗かせて、念を押すように廻琉と碧に交互に視線を送り、ふん、と鼻を鳴らして引っ込んでいく。がちり、と閉扉音を確認してから振り返り、二人に向けて耳打ちしてみる。二人は相変わらず頬を膨らませたまま、フグさながらの様相だった。
「疲れてるのかな。兎」
「凪乃のせいでしょお!?」
「おこる、よ!」
「ごっ…ごめん。……ん」
二人のフグに気圧されるも、碧の持つ皿にぐいと顔を寄せてみると、ツンと鼻の奥を突くような匂いが漂っている事に気が付いた。よくよく目を凝らしてみると、廻琉の持つハンバーグよりもほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ赤らんでいるように見えた。
ふと、ひとつの妙案が脳裏を突き抜ける。今の私は…さながら鹿々桜の諸葛亮、といったところだ。
「……碧、これさ。廻琉も聞いて」
「ん!なになに!」
「なに!なに!なんなのぉ!」
***
配膳を終えてそれぞれ席に着いた頃、漸くキッチンから兎が姿を見せた。一旦洗い物を済ませてきたようだ。
兎の足取りは軽く、鼻歌を鳴らしながら席に着いた。姿勢を整えた兎は順繰りと視線を送ってからぱちんと両手を鳴らし、場を仕切り始めた。
「おう、お待たせ。さぁ食ってくれ、遠慮なく。
おう碧は一口がデカくていいな。
廻琉は…もう半分って……ちょっと早くないか?美味いって?…おう。んんっ。ほら、凪乃も。ふっ」
兎は夢中で頬張る二人を見て満足気に笑い、最後に私の方へ視線を向けてお手製ハンバーグを食べるよう促してくる。
言われずともである。
切り分けるとじゅうと鳴くこんがり焼けたタネ。部屋中に広がる香ばしい香りに、じんわり溢れ出る肉汁、そして美味しそうに食べる廻琉と碧の表情《かお》と、全てが食欲を刺激した。私の我慢は既に限界を迎えているのだ。それに……ふふ。
「…ん!美味しい!これソースも作ったの?」
「おう、碧のレシピ見ながらだけどな。頑張ったぜ」
一口含んでしっかり噛み締めると、後から後から肉汁が溢れ出てくる。口いっぱいに広がる旨味のタネは程良い柔らかさで、バラけ過ぎず残りすぎず、ほろりと解けるように喉を滑り落ちていく。どろりと濃厚なソースはほのかな甘さの中にちょっぴり感じる酸味が丁度いい。なにより、溢れる程の肉汁の脂っぽさをぎゅっと引き締めてくれるようで、タネの肉厚さの中にクドさがない。薫る程度のニンニク風味もまた良い。
「ほんとに美味しいよ。
碧の料理、ずっと食べてきただけあるね」
「へっへへ。そうか?……ところで、どうだ?凪乃
なにか…な?ないか?」
照れを隠すように笑いながらも、兎が探りを入れてくる。未だに己の策が上手くいったと思っているようで、ちょっと面白い。
「ん。ちゃんと美味しいよ。ふふ、ほんと。
ほら兎もそれ。どうぞ」
「……あっ!凪乃お前!気付いたのか!?激辛パウダーの仕込みに!!」
「あからさまだったもんねぇ!」
「よく見たらさ!一個だけ赤かったから、ね!」
既に平らげ、空き皿をまとめ始めている二人が兎に追い打ちを掛ける。目の前に置かれたほんのり赤らむハンバーグを見る兎の顔は真っ青だった。
「よっ、四人で!分けよう!な!?みんなで!!」
「ダメ」
「ダメ!」
「ダメぇ〜っ!」
三対一。言わずもがな、圧勝だ。
これから赤く染まる兎の顔は、まぁ。
想像に難くなかった。
***
時間をかけつつ、水で流し込みながらもなんとか特製ハンバーグを食べ切った兎は消沈していた。普段あまり目にする機会のない反応を見られた事はなかなか良い収穫だったと言えた。途中、牛乳に逃げようとしたところを碧に阻止された時は思わず声を上げて笑ってしまった。
「水ね。逆効果らしいよ。はいこれ。
ホットミルク、ちょっと冷ましてあるから」
「先に……言って………欲しかっ、た」
「ん。自業自得」
力なく机に伏した兎に湯気立つカップを差し出して、椅子に腰を下ろす。隣に座る廻琉はどこからか持ってきたお菓子を空けていた。向かいの席がひとつ空いており、リビングを見渡すも碧の姿は見えなかった。
「なんかね、取ってくるって!」
きょろきょろと見回している私に気が付いたのか、廻琉が碧の動向を教えてくれた。どうやら席を外している間に、何かを取りに自室に戻ったとの事だった。
先の件もあり、胸の奥が一瞬締め付けられるような不安に駆られて立ち上がった時、弾けるような開扉音と威勢のいい声とともに、碧が戻ってきた。碧の手にはラミネート加工された紙が一枚、握られていた。
「ねぇねぇ!ちょっとね!みんなにもね、見てほしいものがあるんだけど……いいかなぁ!」
「?いいけど、どうしたの?」
碧は「へへ」と照れくさそうに笑いながら、大切そうに両手で持つ紙を、私達三人へと向けた。
三つ折りの皺がついたその紙には、数行ほどの文字が書き込まれていた。ラミネートは恐らく手貼りでされたものだろう。ほんの少しだけ中心からズレたところから、当時の加工者の不器用さが見て取れた。
しかし、それ以上に。
碧の震える手と潤んだ瞳から、その紙が彼女にとってどれほど大切なものなのかが伝わっていた。