…ぶぶっ。ぶぶっ。
ポケットの中でスマホが小さく震える。
夜明くんからだろう。時刻は16時、いい頃合いじゃないか。
『夜明です。所長、すみません。
任務失敗です、対象を見失いました。
…私のミスです。ごめんなさい』
「結構。マーキングの方は?」
『そちらはなんとか。後ろ足の付け根に着弾。対象は白地に黒斑の猫でした。尾の先にタグを確認しています』
マーキングには成功、と。
任務も成功と言っていいだろう。
僕は元より捕獲任務とは言っていない。
かといって、訂正する義理もないが。
成功と失敗の境界を学ぶのも、またひとつの経験になる。
「よろしい、戻りたまえ。僕は少し席を外しているから、報告書は餅染《もちぞめ》君に。連絡はこちらからしておく」
『了解しました。失礼します』
相変わらず律儀な子だ。餅染と羽々斬にも見習ってほしいものだな。
液晶に指を走らせ、アドレス帳から餅染を探す。
いた、は行に【バカ】と。
────プルルル。がちゃっ。
『は〜いこちら餅染 渚。ご要件の先輩は〜、ピー音の後にぃ、羽々き───』
「…おふざけはまだ続きそうか?」
バカが。
思わず舌打ちが漏れる。
『は、はひぃ。すみま千円…。
それで先輩、どうかしましたか?』
「じきにそちらに夜明君が戻る。
くだんの任務、報告書の確認を頼みたい」
『ああ、″ギフト″の。うけたまかしこまつかまつりました。
…でぇ、凪乃ちゃん、大丈夫そでした?』
一瞬、餅染の声の調子が変わる。
ふざけた口調のままではあるが、心配しているのだろう。
まったく、自分も半人前だというのに。
「失敗したと報告があった。見失ってしまった、と。もっとも、目的は果たせているのだが」
『…怪我が無かったか〜とかを聞いたつもりなんですケド?』
「そちらについては報告を受けていない。
無事ということだろう、結構じゃないか」
『もしかして先輩。人の心ってやつ、祭歌ちゃんに持ってかれちゃったんじゃないっスかぁ〜』
間延びした声が板の向こうから聞こえてくる。
相変わらず、こいつからは敬意というものがまるで感じられない。
「…切るぞ」
こいつと長話すると胃に穴が空いてしまう。
『ウィ〜ス。とりま報告書の件は承知しました。
ほんじゃ、ンご苦労さ──』
──ぶつっ。
…夜明君を見習ってほしいものだな、本当に。
***
18時、夏を前にしたこの時期の陽はまだ高い。煌々と照らす太陽が前面の雲を透いて、鮮やかな虹色を示している。
暑い。
日光に射され、滲んだ汗が肌を伝う。
僕はこの感覚が嫌いじゃない。
それに天気もいい、こういう日は歩くに限る。
研究所より電車で1時間、そこから徒歩でさらに1時間。
楚曳支部。
羽々斬の開発拠点であり、僕らの仕事場のひとつでもある。
鉄扉を潜ると冷房の効いた空気に全身が包まれる。部屋の中央の大机には、分解途中のデバイスが積まれていた。隣の作業机にはところどころ青い塗料の弾頭と、数色の塗料の拭き残しがこびり付いてる。
「…少し寒いか」
壁際の空調リモコンに目を見遣る。
…21℃、強すぎる。駄目だ。上げておこう、26.0℃、と。
操作を終えたその時、隣の部屋から羽々斬が顔を覗かせる。
「あぁ〜っ!ちょっと先輩、勝手に触んないでくださいよ!暑いんスから!」
「駄目だ、寒すぎる。
最低でも23度まで、僕がそう決めた筈だが」
電気代だってタダではない。無駄遣いされては困る。
「ワガママなんスから、ったく」
羽々斬がむくれた顔で奥に引っ込んでいく。
「空調に頼る前に、上着かインナーでも脱ぎたまえ。それに髪を切れ、鬱陶しい」
特にその腰下まで伸びるブロンドの髪。
更には白衣の下の派手な私服。そもそもなぜスカートを履いている。なぜその下にインナーを着ている。
いつ見ても研究者として不適格、全くもって暑苦しい。
「オシャレって言葉、知らないっスか先輩。
それにほら、オレ可愛いスからねぇ、着飾らなきゃ損損〜♪」
長髪を後ろに纏めながらひょっこり顔を出し、鼻歌混じりにまた戻っていく。
コイツといい餅染といい…揃いも揃ってだな。まったく。
***
外では緩やかに日が暮れ始めていた。
薄暗い廊下の続く先、明かりの付いた1部屋。
楚曳支部事務室。
買い換えたばかりの事務椅子に腰を掛け、羽々斬の注いだ珈琲を一口啜る。
「例の、今日行かせたんスよね」
「ああ、無事成功したようだ。
ちなみに、怪我はないとの事だったが」
先程、餅染からのメールで確認した。
羽々斬にも伝えるように、とも。
「後半がメインっスよね、ちなむなよマジで。
だったが〜、じゃねーんスよこのスカタン」
…伝えてやったというのに。
「マーキングには成功した。
今後は商店街の人々自身の手で未然に防げるようになる、被害は減るだろう」
認識着色弾の効果に間違いはない。
癪ではあるが、羽々斬の造るモノにはそれだけの信頼を置いている。
珈琲をもう一口啜る。
こいつは珈琲を淹れる腕も、まぁ悪くない。
「でも、凪乃ちゃんには荷が重かったんじゃないっスか?それにマーキングだけってのも、ねぇ?」
羽々斬が声のトーンを落とし、カフェオレの注がれたカップを口に運ぶ。
「…なにが言いたい?」
「″ギフト″の事とか、凪乃ちゃんにはまだ話してないんでしょ?
それに推定とはいえあのギフト、マーキングだけで解決♪でいいんスか?駆除対象じゃないんスか」
「……」
″ギフト″
他とは一線を画す能力をもつ野生動物の総称。通常、ヒトには用いられない。
我々の監視対象であり…駆除対象でもある。
人間に危害を及ぼす可能性があるからだ。
あの猫もソレだった。能力は推察するに、
『ほんの少し 影が薄くなる』。
ギフトでいえばありふれたものではあるが、危険性でいえばC群、場合によってはB群に掛かるレベルではあった。転化の可能性も…0ではなかった。
「たしかに本来なら駆除対象足り得た。
だが、あの猫は違う。少なくとも今の所は」
「でもヒトを傷付けてる」
直接的被害の2件。
その事を気にしているのか。
「引っ掻き傷と噛み傷、いずれも軽傷。
幸いなことに感染症も起こしていない。
それに被害者の2人、彼らは空き巣に入る直前に襲われている」
「……相手が悪人だったからお目こぼしっスか?」
羽々斬が俯いたまま目だけをこちらに向ける。
「あの猫は、」
一口、珈琲を啜る。
「空き巣を裁こうとしたわけじゃない。
たまたまその場にいただけだ。
彼らが悪事を働く現場に、偶然。
行動の結果が善性に傾いた、偶然にもな」
「……」
羽々斬が黙り込む。
カップを握る手が震えている。
「全てが二元論で片付くわけではない。
猫もまた、ただ生きている。それだけだ」
「…もし今後転化したら?」
羽々斬の声は震えていた。
カップの取っ手にヒビが入っている。
そんなに憎いか。″ギフト″の事が、あの時の事が。
「その時は駆除する。
これまで通り、これからもそうだ」
その為に我々がいる。
正義を気取っているわけではない。
ただ秩序を守る、その為に在る。
「…その時はオレが裁きますよ」
羽々斬が勢いよく立ち上がる。椅子が揺れている。
「これまで通り。これからも、ずっと」
彼の声はもう、震えていなかった。
割れたカップの取っ手だけが、机の上でゆらゆらと揺れていた。
***
事務室の室温は25.5℃。夏を前にした夜は程良く過ごしやすい。部屋には僕1人が残されている。
羽々斬は「頭を冷やしてくる」と出て行ってしまった。
群青の夜空は神秘的な深みを孕む。白々と輝く星々が夜の街を装飾している。
壁掛けのカレンダーに目を向ける。
7月7日、『昏』まで残り1週間。
…『昏』。
暮れない夕焼け、開けない夕闇。常の黄昏。
空の時間だけが止まる、6年に1度、2ヶ月間の異常。
おおよそ600年も前から、この地、鹿々桜にのみ確認されている異常現象。
この地域の人々は皆、それを当たり前のモノと受け入れている。それどころか、宴の始まりと認識している節もある。
しかし、この世界に存在する異常は『昏』だけではない。無論、″ギフト″だけでもない。
未だ我々の知らぬ異常は無数に存在する。
能力。啓示。ギフト。
『昏』。『白閃』。『落涙』。『地影』。
そして、『乂種』。
あそこで当然のように佇む界桜樹だってその一つだ。
世界で広がる原因不明の事象。
それらが当たり前に受け入れられている、気味の悪い″違和感″。
記憶を継いだあの日から。時折、明けない夜にこの世界を覆われている感覚に陥る時がある。
この夜が明ける時が、いつか来るのだろうか。
その時、僕はなにかを成せているだろうか。
世界が巡りを止めないように、考える日が止むことはない。