『君と過ごす、残り三年の青春』   作:パスカルDX

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第6話 ギャルは残り三年を一緒に生きたい

第6話 ギャルは残り三年を一緒に生きたい

 

 

 

 

 日曜日の朝。

 

 朝倉悠真は、鏡の前で自分の顔を見つめていた。

 

 寝癖は直した。

 

 髪も軽く整えた。

 

 白いシャツに薄いグレーのカーディガン。下は黒いパンツ。派手さはないが、レイナと出かける以上、部屋着の延長のような格好で行くつもりはなかった。

 

 見た目だけなら、どこにでもいる高校一年生だった。

 

 病気を抱えているようには見えない。

 

 あと三年しか生きられない人間にも見えない。

 

「……今日、話すんだよな」

 

 鏡の中の自分へ確認するように呟く。

 

 次のデートまでに、病気のことを話す。

 

 保健室でレイナと交わした約束だった。

 

 その日が来た。

 

 逃げることはできない。

 

 いや、逃げようと思えば逃げられる。

 

 今日は体調が悪いと言って、予定を延期する。

 

 もう少し待ってほしいと頼む。

 

 全部を話す必要はないと、自分へ言い聞かせる。

 

 方法はいくらでもあった。

 

 けれど、そのどれも選びたくなかった。

 

 これ以上、レイナへ嘘をつきたくない。

 

 彼女が自分を心配して泣くたび、胸が痛んだ。

 

 知らないから不安になる。

 

 それなのに自分は、大丈夫という言葉だけを繰り返してきた。

 

 結果として、レイナを何度も傷つけた。

 

 今日こそ、話さなければならない。

 

 悠真は机の上へ目を向けた。

 

 薬のケース。

 

 水。

 

 診察券。

 

 万が一に備えて、どれも鞄へ入れてある。

 

 その隣には、レイナとおそろいのアクリルキーホルダーが置かれていた。

 

 今日は鞄につけていく。

 

 傷つけたくないという気持ちは変わらない。

 

 だが、レイナはきっと、つけていることを喜ぶ。

 

 今はそれを優先したかった。

 

 キーホルダーを鞄へつけたところで、スマートフォンが震えた。

 

『おはよ!』

 

『今日の水族館デート楽しみ!』

 

『でも無理しないでね!』

 

『薬持った?』

 

『水持った?』

 

『体調悪くない?』

 

『やっぱウチ、家まで迎え行こうか?』

 

 悠真は思わず苦笑した。

 

「完全に保護者だな」

 

 返信する。

 

『全部持った』

 

『体調も問題ない』

 

『迎えはいらない』

 

 すぐに既読がつく。

 

『本当の大丈夫?』

 

 指が止まる。

 

 レイナの中で、大丈夫という言葉は信用を失っている。

 

 当然だった。

 

 何度も同じ言葉で誤魔化してきた。

 

『今日は本当』

 

『少しでも苦しくなったら言う』

 

 送信する。

 

 しばらくして、返信が来た。

 

『約束だからね』

 

『絶対一人で我慢しないで』

 

 悠真は短く返した。

 

『約束する』

 

 未来の約束は怖い。

 

 だが、今日一日の約束なら守れる。

 

 少なくとも、今はそう思いたかった。

 

 一階へ下りると、母親が朝食を用意していた。

 

「今日は水族館だったわね」

 

「ああ」

 

「白雪さんと?」

 

「そう」

 

「病気のこと、話すの?」

 

 悠真は椅子を引く手を止めた。

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

「……話す」

 

 言い直すと、母親は静かにうなずいた。

 

「そう」

 

「反対しないのか」

 

「どうして反対するの?」

 

「余命まで話すかもしれない」

 

 母親の表情が、わずかに曇る。

 

 自分の息子の余命。

 

 何度聞いても、慣れるような言葉ではない。

 

「悠真が決めたなら、止めないわ」

 

「話したら、傷つけると思う」

 

「話さなくても、もう傷つけているんでしょう?」

 

 悠真は黙った。

 

 母親は味噌汁を机へ置く。

 

「隠すのが優しさになる時もあると思う。でも、相手が知りたいと願っていて、悠真も大切に思っているなら、話すことも優しさなんじゃない?」

 

「簡単に言うなよ」

 

「簡単じゃないわ」

 

 母親の声は穏やかだった。

 

「でも、あなた一人で全部決めなくてもいいのよ」

 

「決めなきゃいけないだろ。俺のことなんだから」

 

「あなたの命は、あなただけのものかもしれない」

 

 母親は一度、言葉を止めた。

 

「でも、あなたを大切に思う人の気持ちは、その人たちのものよ」

 

 悠真は顔を上げる。

 

「白雪さんがどうしたいかは、白雪さんに決めてもらってもいいんじゃない?」

 

 その言葉が胸へ残った。

 

 自分は、レイナを傷つけないためだと言いながら、彼女の選択まで奪っているのかもしれない。

 

 知った上でそばにいたいのか。

 

 怖くて離れたいのか。

 

 それを決める権利は、レイナにある。

 

「食べなさい。空腹で出かけたら倒れるわよ」

 

「縁起でもないこと言うな」

 

「事実でしょう?」

 

「そこは否定してくれ」

 

 母親が少し笑う。

 

 重かった空気が、わずかに和らいだ。

 

 悠真は朝食を食べ始める。

 

 食欲はあった。

 

 胸の痛みもない。

 

 体調だけなら、デートを楽しめるはずだった。

 

 問題は心だった。

 

 待ち合わせ場所へ向かう電車の中でも、何度も言葉を考えた。

 

 病気なんだ。

 

 重い心臓病で。

 

 医者からは、あと三年だと言われている。

 

 どんな言い方をしても、現実は変わらない。

 

 軽く言えば不誠実になる。

 

 重く言えばレイナを怖がらせる。

 

 正解など、どこにもなかった。

 

 駅へ着く。

 

 改札を出た瞬間、レイナの姿が見えた。

 

 今日は淡い水色のワンピースを着ていた。

 

 腰には白い細いベルト。

 

 上から短い丈の白いカーディガンを羽織っている。

 

 金色の髪はゆるく編み込まれ、白いメッシュの近くには小さな青い花の髪飾りがついていた。

 

 水族館を意識した服装なのか、全体が海や空を思わせる色でまとまっている。

 

 足元は歩きやすそうな白いスニーカー。

 

 鞄には、前回買ったルミナのキーホルダー。

 

 そして、悠真とのツーショット写真を入れた小さな透明ケースまでついていた。

 

「それ、いつ作ったんだ」

 

 声をかける前に、思わず口から出た。

 

 レイナが振り向く。

 

 悠真を見つけると、顔いっぱいに笑みを浮かべた。

 

「悠真!」

 

 小走りで近づいてくる。

 

「おはよ!」

 

「おはよう」

 

「何がいつ作ったの?」

 

「鞄の写真」

 

「あ、これ?」

 

 レイナは透明ケースを指でつまむ。

 

 中には、前回のコラボカフェで撮った二人の写真が入っていた。

 

「昨日作った!」

 

「持ち歩くのか」

 

「うん」

 

「恥ずかしくない?」

 

「全然」

 

「俺は少し恥ずかしい」

 

「じゃあ慣れて」

 

「慣れの問題か」

 

「彼氏になったら、もっと増えるよ」

 

「予告するな」

 

 いつも通りのレイナだった。

 

 明るくて。

 

 距離が近くて。

 

 見ているだけで、こちらまで笑いそうになる。

 

 今日、この笑顔を自分が壊すかもしれない。

 

 そう思うと、胸の奥が重くなった。

 

「悠真?」

 

 レイナが顔を覗き込む。

 

「どうしたの?」

 

「何でもない」

 

 言いかけて、止まる。

 

 大丈夫。

 

 何でもない。

 

 その言葉で逃げないと約束したばかりだった。

 

「少し緊張してる」

 

「水族館で?」

 

「話す約束しただろ」

 

 レイナの表情がわずかに変わる。

 

 明るさが消えたわけではない。

 

 ただ、現実を思い出したように、瞳が真剣になった。

 

「うん」

 

「今日、話す」

 

「……そっか」

 

「だから、少し緊張してる」

 

 レイナはしばらく悠真を見つめた。

 

 それから、そっと右手を差し出す。

 

「じゃあ、手つなご」

 

「何で」

 

「緊張してる時、一人より二人のほうがいいじゃん」

 

「まだ駅前だぞ」

 

「デートだし」

 

「便利な言葉だな」

 

「嫌?」

 

「嫌じゃない」

 

 悠真は手を重ねた。

 

 指が絡む。

 

 レイナの手は、今日も少し冷たかった。

 

「ウチも緊張してる」

 

 レイナが小さく言う。

 

「怖い?」

 

「少し」

 

「なら、無理に聞かなくても――」

 

「聞く」

 

 迷いのない声だった。

 

「怖いけど、聞きたい」

 

「後悔するかもしれない」

 

「それは聞いてから決める」

 

 母親の言葉が蘇る。

 

 どうしたいかは、レイナに決めてもらってもいい。

 

 悠真はつないだ手へ少し力を込めた。

 

「わかった」

 

「でも最初から重い話するのはやめよ」

 

「え」

 

「せっかく水族館来たんだから、まず楽しむ!」

 

 レイナは笑顔を作る。

 

 無理に明るくしているわけではない。

 

 今日一日を大切にしようとしているのだ。

 

「話はあとで、ちゃんと聞く」

 

「ああ」

 

「それまで普通にデートね」

 

「普通のデートって何をするんだ」

 

「手つないで、写真撮って、可愛いって言って、好きって言う」

 

「後半の要求が多い」

 

「ウチは悠真に可愛いっていっぱい言うよ?」

 

「いらない」

 

「今日の悠真、めっちゃかっこいい」

 

「今言うな」

 

「カーディガン似合ってる」

 

「わかったから」

 

「髪もいい感じ」

 

「近い」

 

「照れてる顔も可愛い」

 

「最後で全部台無しだ」

 

 レイナが楽しそうに笑う。

 

 その笑顔に救われながら、二人は水族館へ向かった。

 

 休日の水族館は、家族連れやカップルで賑わっていた。

 

 入口には大きな青い看板があり、イルカとペンギンの写真が描かれている。

 

 レイナは看板を見るなり、目を輝かせた。

 

「悠真、写真撮ろ!」

 

「まだ入口だぞ」

 

「入口も思い出じゃん」

 

 近くにいた係員へ頼み、二人で看板の前に並ぶ。

 

 レイナは悠真の腕へ自然に抱きついた。

 

「近い」

 

「写真だから」

 

「毎回それで押し通すつもりか」

 

「笑って!」

 

 シャッターが切られる。

 

 写真を確認すると、レイナは満面の笑み。

 

 悠真も、少し困ったように笑っていた。

 

「いいじゃん!」

 

「お前、近すぎないか」

 

「カップルっぽくてよくない?」

 

「まだ違う」

 

「まだね」

 

 レイナはそこだけ強調した。

 

 入場券を購入し、館内へ入る。

 

 最初のエリアは、小さな魚たちが泳ぐ明るい展示室だった。

 

 色とりどりの熱帯魚。

 

 ゆっくり泳ぐクラゲ。

 

 岩陰に隠れる小さなエビ。

 

 水槽から漏れる青い光が、館内を幻想的に照らしている。

 

「わあ……」

 

 レイナが感嘆の声を漏らした。

 

 いつもの明るい声より、少し小さい。

 

 本当に見入っている時の声だった。

 

「見て悠真。あの魚、めっちゃ派手」

 

「お前みたいだな」

 

「え、ウチ可愛い?」

 

「派手って言った」

 

「派手で可愛いってこと?」

 

「都合よく変換するな」

 

 水槽の中では、黄色と青の魚が群れになって泳いでいた。

 

 レイナはガラスへ顔を近づける。

 

「でもキレイ」

 

「そうだな」

 

「魚っていいよね。水の中、自由そう」

 

「水槽だけどな」

 

「現実的なこと言わないで」

 

「事実だろ」

 

「悠真ってたまに夢ないよね」

 

「アニメオタクに言われたくない」

 

「オタクだから夢見たいんじゃん」

 

 レイナは悠真の袖を引き、次の水槽へ向かう。

 

 そこには、二匹の魚が寄り添うように泳いでいた。

 

「見て。仲良し」

 

「同じ方向に泳いでるだけだろ」

 

「絶対カップル」

 

「判別できるのか」

 

「雰囲気で」

 

「雑だな」

 

「ウチらみたい」

 

「どこが」

 

「一緒に歩いてる」

 

「魚は歩かない」

 

「細かい!」

 

 レイナは頬を膨らませる。

 

 だがすぐに笑い、また悠真の手を握った。

 

 館内は薄暗い。

 

 水槽の青い光だけが二人を照らす。

 

 周囲には人がいるのに、どこか二人きりのような気がした。

 

 少し進むと、クラゲの展示室へ入った。

 

 円柱形の水槽が並び、その中で半透明のクラゲがゆっくりと漂っている。

 

 青。

 

 紫。

 

 白。

 

 照明の色が変わるたび、クラゲの姿も違って見える。

 

「きれい……」

 

 レイナが小さく呟いた。

 

 ガラスに映る彼女の横顔も、青く染まっていた。

 

 悠真は無意識に、その姿を見つめていた。

 

「何?」

 

 レイナが気づく。

 

「いや」

 

「また見てた」

 

「クラゲを見てた」

 

「ウチの後ろにいるけど?」

 

「一緒に視界へ入っただけ」

 

「じゃあウチもきれいだった?」

 

 悠真は答えに迷った。

 

 レイナは期待するように見つめている。

 

「……きれいだった」

 

 正直に答えた。

 

 レイナの目が大きくなる。

 

「え」

 

「何だよ」

 

「悠真から言った」

 

「聞いたのはお前だろ」

 

「でも素直に言うと思わなかった」

 

「じゃあ取り消す」

 

「ダメ!」

 

 レイナは慌てて悠真の腕へ抱きついた。

 

「絶対取り消し禁止!」

 

「わかったから離れろ」

 

「無理」

 

「何で」

 

「嬉しいから」

 

 声は小さかった。

 

 レイナは悠真の腕に額を寄せる。

 

 いつもなら周囲の目を気にしない。

 

 けれど今は、照れて顔を隠しているようだった。

 

「ウチ、今日ずっと覚えてる」

 

「まだ始まったばかりだぞ」

 

「今の言葉だけで一週間生きられる」

 

「燃費いいな」

 

「でも毎日言ってくれたら一生生きられる」

 

 一生。

 

 その言葉に、悠真の心が揺れる。

 

 レイナにとっての一生は、まだ長い。

 

 何十年も続く。

 

 自分の一生は、あと三年かもしれない。

 

 同じ言葉でも、重さが違う。

 

「悠真?」

 

「何でもない」

 

 言ってから、すぐに訂正する。

 

「少し考え事」

 

「今日、何でもない禁止」

 

「そうだったな」

 

「でも話すのはあとでいいよ」

 

 レイナは腕から離れ、再び手をつなぐ。

 

「今はクラゲ見よ」

 

「ああ」

 

 展示を進む。

 

 大水槽では、サメやエイが頭上を泳いでいた。

 

 トンネル状の通路に入ると、レイナは何度も上を見上げて歓声を上げた。

 

「すご! 見て悠真!」

 

「見てる」

 

「エイ、顔みたい!」

 

「下から見るとそう見えるな」

 

「笑ってるみたいで可愛い」

 

「口じゃないけどな」

 

「夢ない!」

 

「今日二回目だぞ」

 

 レイナはスマートフォンを取り出し、動画を撮る。

 

 その途中で悠真へカメラを向けた。

 

「何撮ってる」

 

「悠真」

 

「魚を撮れ」

 

「悠真も珍しい生き物だから」

 

「失礼だな」

 

「オタクで運動神経よくて、顔よくて、照れ屋で、優しくて」

 

「後半は主観だろ」

 

「あとウチが大好き」

 

「最後は違う」

 

「少し好きって言った」

 

「少しだ」

 

「その少しを育てるの!」

 

 レイナは楽しそうに笑い、動画を止める。

 

 悠真は呆れながらも、拒絶する気にはなれなかった。

 

 こんな時間が、いつまでも続けばいい。

 

 そう思う自分がいた。

 

 だが今日、話せば変わる。

 

 レイナの笑顔を見るたび、秘密を話す時間が近づくことが怖くなった。

 

 昼前。

 

 二人は館内のカフェへ入った。

 

 水族館らしく、魚やペンギンをイメージしたメニューが並んでいる。

 

 レイナはペンギン型のオムライスを見つけ、迷わず選んだ。

 

「可愛すぎる!」

 

「食べるのに?」

 

「食べる前に百枚撮る」

 

「またか」

 

「悠真も一緒に撮る」

 

「料理だけでいいだろ」

 

「料理と彼氏候補」

 

「勝手に肩書きをつけるな」

 

「じゃあ好きな人」

 

「もっと直接的になったな」

 

 悠真はシーフードパスタを注文した。

 

 料理が届くと、レイナは本当に何枚も写真を撮った。

 

 角度を変え。

 

 悠真の皿も並べ。

 

 最後には二人の手元まで写す。

 

「これ、カップルの投稿みたい」

 

「投稿するのか」

 

「親しい友達だけ」

 

「学校中に広がるぞ」

 

「もうデートしてるの知られてるし」

 

「付き合ってないのに」

 

「時間の問題」

 

「自信がすごいな」

 

「悠真、ウチ以外に興味なさそうだし」

 

「言い方が悪い」

 

「違うの?」

 

「……今は、いない」

 

 レイナの動きが止まる。

 

「ウチ以外に好きな人いない?」

 

「いない」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「それってほぼ勝ちじゃん」

 

「何に勝つんだ」

 

「悠真争奪戦」

 

「開催されてない」

 

「じゃあ不戦勝」

 

 レイナは嬉しそうに笑い、ペンギン型のオムライスへスプーンを入れた。

 

「悠真、一口食べる?」

 

「いいのか」

 

「うん。あーんしてあげる」

 

「普通に皿を貸せ」

 

「デートだからダメ」

 

「どういうルールだ」

 

「カップルはあーんするの」

 

「まだカップルじゃない」

 

「練習」

 

「何の」

 

「彼女になる練習」

 

 レイナはスプーンを差し出す。

 

 悠真は周囲を見る。

 

 近くには家族連れ。

 

 少し離れた席にはカップル。

 

 誰もこちらを気にしてはいない。

 

「一回だけ」

 

「毎回言うね」

 

「予防線だ」

 

「でも結局してくれる」

 

「お前が引かないからだろ」

 

 悠真は口を開ける。

 

 レイナが嬉しそうにオムライスを運ぶ。

 

「どう?」

 

「普通にうまい」

 

「ウチが食べさせた分は?」

 

「少し増した」

 

「えっ」

 

 レイナが固まる。

 

「何」

 

「悠真、今すごいこと言った」

 

「前回も似たこと言っただろ」

 

「今日、素直すぎない?」

 

「たまには」

 

「告白の前触れ?」

 

「違う」

 

「でも期待しちゃう」

 

 レイナは少し照れながら、オムライスを食べる。

 

 悠真はパスタを口へ運ぶ。

 

 会話はいつも通りだった。

 

 そのいつも通りが、今日で最後になるかもしれない。

 

 そう考えると、食べ物の味が少し薄く感じた。

 

「悠真」

 

「何」

 

「怖い顔してる」

 

「そうか」

 

「話すこと考えてる?」

 

「ああ」

 

 レイナはスプーンを置く。

 

「無理しなくていいよ」

 

「でも聞きたいんだろ」

 

「聞きたい」

 

「なら話す」

 

「今?」

 

 悠真は周囲を見る。

 

 人が多い。

 

 明るい店内。

 

 泣く可能性もある話をする場所ではない。

 

「ここでは無理だ」

 

「そっか」

 

「館内に静かな場所あるかな」

 

「屋外エリアにベンチあるって」

 

「じゃあ、あとで」

 

「うん」

 

 レイナは再びスプーンを持つ。

 

 だが、さきほどまでの明るさは少し落ち着いていた。

 

 それでも無理に聞こうとはしない。

 

 悠真が話せる時を待っている。

 

 その優しさが、かえって胸へ刺さった。

 

 昼食を終えたあと、二人はペンギンの展示へ向かった。

 

 屋外のプールでは、何羽ものペンギンが歩いたり泳いだりしている。

 

 レイナは柵の前へ駆け寄った。

 

「可愛い!」

 

「走るな」

 

「あ、そっか。悠真置いてかないようにしないと」

 

「俺は歩ける」

 

「でも一緒がいい」

 

 レイナは戻ってきて、悠真の手を握る。

 

「ほら」

 

「子どもみたいにするな」

 

「迷子防止」

 

「お前のほうが迷子になりそうだ」

 

「その時は探して」

 

「見つからなかったら?」

 

「泣く」

 

「素直だな」

 

「悠真がいなくなったら普通に泣くよ」

 

 何気ない言葉。

 

 だが今の悠真には、重すぎた。

 

 いなくなる。

 

 それは、遠い未来の話ではない。

 

「……悠真?」

 

 レイナが足を止める。

 

「また顔変わった」

 

「そうだな」

 

 もう、誤魔化さない。

 

「今の言葉、少し刺さった」

 

「ウチ、変なこと言った?」

 

「違う。レイナが悪いわけじゃない」

 

 悠真はペンギンのプールを見る。

 

 水の中を自由に泳ぐ姿。

 

 陸では不器用に歩くのに、水に入れば驚くほど速い。

 

 場所が変われば、生き方も変わる。

 

 自分も病気がなければ、違う高校生活を送っていたのだろうか。

 

「話す場所、探そう」

 

 悠真が言う。

 

 レイナは少し緊張した表情でうなずいた。

 

 二人は屋外エリアの奥へ向かった。

 

 そこには、小さな海を模した広場があった。

 

 水族館は海沿いに建っており、柵の向こうには本物の海が広がっている。

 

 春の風が吹き、潮の匂いがした。

 

 人の少ないベンチを見つけ、二人で座る。

 

 正面には青い海。

 

 遠くで船が進んでいる。

 

 少し離れた場所から、子どもたちの声が聞こえた。

 

 近くには誰もいない。

 

 話すなら、ここしかない。

 

 悠真は両手を組み、膝の上へ置いた。

 

 言葉が出ない。

 

 何度も頭の中で練習したはずなのに。

 

 レイナも何も言わない。

 

 ただ、隣で待っている。

 

「俺の病気は」

 

 やっと声が出た。

 

 自分でも驚くほど、かすれていた。

 

「心臓の病気なんだ」

 

 レイナの手が小さく動く。

 

「生まれつきじゃない。中学の途中くらいから、少しずつ症状が出た」

 

「胸が痛くなるのも?」

 

「ああ」

 

「運動した時に苦しくなるのも?」

 

「そう」

 

「治療は?」

 

「してる」

 

「治る?」

 

 まっすぐな質問だった。

 

 悠真は海を見る。

 

「今の治療では、難しい」

 

 レイナの息が止まる気配がした。

 

「新しい治療法が見つかる可能性はある。でも、医者は高くないって言ってる」

 

「……そっか」

 

 レイナの声は小さい。

 

 まだ泣いてはいない。

 

 ただ、次の言葉を待っている。

 

 悠真は拳を握る。

 

 ここからが、本当の秘密だった。

 

「入学式の前に、医者から言われた」

 

 喉が痛い。

 

 声に出したくない。

 

 言葉にすれば、現実がより強くなる気がした。

 

「俺の余命は」

 

 レイナがこちらを見る。

 

 その紫色の瞳が、揺れていた。

 

「……三年だって」

 

 風が吹いた。

 

 海面が光る。

 

 遠くで鳥が鳴く。

 

 世界は何も変わらない。

 

 けれど、二人の間だけは完全に止まっていた。

 

「三年……?」

 

 レイナが聞き返す。

 

「ああ」

 

「三年って」

 

「高校を卒業する頃」

 

「何それ」

 

 声が震える。

 

「何、それ」

 

 レイナはもう一度言った。

 

 顔から血の気が引いている。

 

「余命って……死ぬってこと?」

 

 悠真は答えられなかった。

 

 だが、沈黙が答えになる。

 

 レイナの唇が震える。

 

「嘘」

 

「嘘じゃない」

 

「だって悠真、普通に歩いてるし」

 

「ああ」

 

「笑ってるし、学校来てるし、運動もできるし」

 

「今はまだ」

 

「今はって何」

 

 声が大きくなる。

 

 レイナは立ち上がりそうになり、けれど足に力が入らなかったのか、そのまま座り直す。

 

「三年って、短すぎるじゃん」

 

「そうだな」

 

「何でそんな普通に言えるの」

 

「普通じゃない」

 

「でも泣いてない」

 

「最初は泣いた」

 

 悠真は静かに言う。

 

「家で一人の時」

 

 レイナの目から涙がこぼれた。

 

「何で言ってくれなかったの」

 

「怖かった」

 

「何が」

 

「レイナが変わるのが」

 

 悠真は初めて、彼女の目を見る。

 

「同情されたくなかった。病人として見られたくなかった。かわいそうだから優しくされるのが嫌だった」

 

「ウチのこと、そんなふうに思ってたの?」

 

「違う」

 

「違わないじゃん」

 

「レイナが優しいからこそ、怖かった」

 

 レイナの涙は止まらない。

 

「知ったら、絶対傷つくと思った」

 

「傷つくよ!」

 

 強い声だった。

 

 悠真は息を呑む。

 

「今、めちゃくちゃ傷ついてる!」

 

 レイナは両手で涙を拭う。

 

 それでも次々と溢れてくる。

 

「好きな人があと三年しか生きられないって聞いて、傷つかないわけないじゃん!」

 

「だから言えなかった」

 

「でも知らないほうがもっと嫌!」

 

「……」

 

「悠真が苦しんでるのに、何も知らないで笑ってるほうが嫌だよ!」

 

 レイナの声が震える。

 

「球技大会の時だって、ウチ、ただ心配するしかできなかった」

 

「悪かった」

 

「謝らないで!」

 

 レイナは悠真の胸を軽く叩いた。

 

 力は弱い。

 

 怒りよりも、悲しみのほうが大きい。

 

「ごめんって言われても、三年が増えるわけじゃないじゃん」

 

「そうだな」

 

「何でそんなに冷静なの」

 

「冷静じゃない」

 

「じゃあ何で」

 

「俺だって怖い」

 

 悠真の声も震えた。

 

 初めてだった。

 

 誰かの前で、この恐怖を口にするのは。

 

「毎朝起きるたびに、残りが減ったと思う」

 

 レイナが黙る。

 

「学校へ行って、授業を受けて、笑ってても。頭のどこかでは、あと何日だって考えてる」

 

 悠真は海へ視線を戻す。

 

「卒業できるかわからない。二年生になれるかもしれない。でも、三年生まで行けないかもしれない」

 

「やめて」

 

「医者にも言われた。三年は目安だって」

 

「やめてよ」

 

「もっと短い可能性もある」

 

「やめて!」

 

 レイナが叫ぶ。

 

 近くを歩いていた人が振り返った。

 

 だが、すぐに視線を逸らして去っていく。

 

 レイナは俯き、肩を震わせた。

 

「聞きたくない」

 

 小さな声。

 

 悠真の胸が痛む。

 

「ごめん」

 

「聞きたいって言ったの、ウチだけど」

 

 レイナは涙を拭う。

 

「でも、そんなの聞きたくなかった」

 

「……そうだよな」

 

「もっと軽い病気だと思ってた」

 

「俺も最初はそう思ってた」

 

「薬飲んで、運動しなければ大丈夫とか」

 

「そうだったらよかった」

 

「治ると思ってた」

 

「俺も」

 

 レイナは唇を噛んだ。

 

 長い沈黙が落ちる。

 

 波の音。

 

 風の音。

 

 遠くの人の声。

 

 悠真は動けなかった。

 

 レイナへ触れていいのかわからない。

 

 泣かせたのは自分だ。

 

 秘密を話せばこうなるとわかっていた。

 

 それでも、目の前で泣く彼女を見るのは苦しかった。

 

「悠真」

 

 しばらくして、レイナが呼ぶ。

 

「何」

 

「ウチと会わなかったほうがよかった?」

 

 悠真はすぐに首を横へ振った。

 

「それはない」

 

「でも、会ったから困ってるでしょ」

 

「困ってる」

 

 正直に答える。

 

 レイナの表情が痛む。

 

「でも、会えてよかった」

 

「……本当?」

 

「ああ」

 

 悠真は拳を緩める。

 

「入学式の日まで、学校なんてどうでもいいと思ってた」

 

「どうでもいい?」

 

「余命を消化する場所だと思ってた」

 

 レイナは静かに聞いている。

 

「普通の高校生のふりをして、卒業できたらそれでいい。誰とも深く関わらず、迷惑をかけずに終わればいいって」

 

「そんなの、寂しいじゃん」

 

「そう思ってなかった」

 

「今は?」

 

 悠真はレイナを見る。

 

「今は、明日が楽しみになった」

 

 レイナの目が揺れる。

 

「朝、レイナから連絡が来るから」

 

「……」

 

「学校へ行けば隣にいる。昼は卵焼きがある。放課後も一緒に帰れる」

 

 声に出すたび、胸が熱くなる。

 

「次のデートも楽しみになった。水族館も、本当に来たかった」

 

「悠真……」

 

「会えてよかった」

 

 今度ははっきりと言う。

 

「レイナに会えて、よかった」

 

 レイナの涙が、また溢れた。

 

 だが今度は、さきほどとは少し違った。

 

 悲しいだけではない。

 

 嬉しさも混ざった涙だった。

 

「じゃあ何で、一人で終わろうとするの」

 

「え」

 

「誰とも深く関わらずに終わるって、まだ思ってる?」

 

「……わからない」

 

「ウチは嫌」

 

 レイナは悠真へ向き直る。

 

「勝手に一人で終わらないで」

 

「勝手にって」

 

「悠真の人生でも、ウチはもう関わってるから」

 

 涙で濡れた顔。

 

 それでも目は強かった。

 

「ウチ、悠真のこと好き」

 

「ああ」

 

「病気って聞いても変わらない」

 

「同情じゃないのか」

 

 聞いてはいけないと思いながら、口にしてしまった。

 

 レイナの眉が寄る。

 

「それ本気で言ってる?」

 

「……」

 

「今日までのウチの気持ち、全部同情になるの?」

 

「違う」

 

「入学式の日は病気なんて知らなかった」

 

「ああ」

 

「髪助けてもらって、顔見て、優しいって思って、アニメの話して。そこで好きになった」

 

 レイナは胸元を押さえる。

 

「病気を知る前から好きだった」

 

「わかってる」

 

「じゃあ信じて」

 

 悠真は答えられない。

 

「かわいそうだからそばにいるんじゃない」

 

 レイナは手を伸ばし、悠真の手を握る。

 

「好きだから、そばにいたいの」

 

 指が絡む。

 

 涙で冷えた手。

 

 でも、その力は強い。

 

「三年しかないなら」

 

 レイナの声が震える。

 

「三年、一緒にいる」

 

 悠真の胸が締めつけられる。

 

「簡単に言うな」

 

「簡単じゃない」

 

「三年後、俺はいなくなるかもしれない」

 

「わかってる」

 

「残されるのはレイナだ」

 

「わかってる!」

 

 レイナは手を離さない。

 

「怖いよ。嫌だよ。悠真がいなくなるとか、考えたくない」

 

 涙がまた頬を伝う。

 

「でも、怖いから今から離れるほうがもっと嫌」

 

「……」

 

「三年後に泣くのが嫌だから、今日から会わないなんて無理」

 

「後悔するぞ」

 

「後悔するかどうかはウチが決める」

 

 強い言葉だった。

 

 母親の言葉と重なる。

 

 どうしたいかは、その人が決める。

 

 悠真はずっと、レイナを守るつもりで選択肢を奪っていた。

 

 傷つくから離れたほうがいい。

 

 未来がないから好きにならないほうがいい。

 

 すべて自分が勝手に決めていた。

 

「悠真は、ウチに離れてほしい?」

 

 レイナが尋ねる。

 

 答えはわかっていた。

 

 だが口にするのが怖い。

 

「本音で言って」

 

「……離れてほしくない」

 

 やっと言えた。

 

 レイナの目から、大粒の涙が落ちる。

 

「そばにいてほしい」

 

「うん」

 

「でも、怖い」

 

「ウチも怖い」

 

「レイナを傷つける」

 

「もう傷ついてる」

 

「もっと傷つけるかもしれない」

 

「それでもいる」

 

「どうして」

 

「好きだから!」

 

 レイナは泣きながら叫んだ。

 

「何回言わせるの!」

 

 そのまま、悠真の胸へ飛び込む。

 

 腕を回し、強く抱きしめる。

 

 悠真は驚いて動けなかった。

 

 金色の髪が頬へ触れる。

 

 肩が震えている。

 

 服越しに、レイナの涙が染みていく。

 

「三年しかないなら、三年全部ちょうだい」

 

「全部?」

 

「朝も、昼も、放課後も、休みの日も」

 

「重いな」

 

「重くていい」

 

「勉強は」

 

「一緒にする」

 

「進路は」

 

「一緒に考える」

 

「卒業できなかったら」

 

 レイナの腕に力が入る。

 

「卒業できるように頑張る」

 

「頑張ってどうにかなることじゃない」

 

「それでも願う」

 

 レイナは顔を上げる。

 

 目は真っ赤だった。

 

 メイクも少し崩れている。

 

 それでも、悠真には誰よりも可愛く見えた。

 

「ウチ、諦めない」

 

「何を」

 

「悠真が生きること」

 

 レイナは涙を拭う。

 

「新しい治療法、探す。病院のことも勉強する。できること全部する」

 

「高校生にできることなんて少ない」

 

「ゼロじゃない」

 

「期待しすぎると、つらくなる」

 

「期待しないよりいい」

 

 レイナはまっすぐに言う。

 

「悠真まで諦めないで」

 

「諦めてない」

 

「嘘」

 

「……」

 

「どうせ三年って思ってるでしょ」

 

 図星だった。

 

 余命を告げられて以来、悠真は生きることより、どう終わるかを考えていた。

 

 治る可能性より、残り時間をどう使うか。

 

 未来を望むことを、知らないうちにやめていた。

 

「ウチは三年で終わるつもりないから」

 

「レイナが決めることじゃない」

 

「じゃあ一緒に増やそう」

 

「何を」

 

「時間」

 

 レイナは涙の跡を残したまま笑った。

 

「三年を四年に。四年を五年に。少しずつ増やせばいい」

 

「簡単に言うなよ」

 

「難しくても言う」

 

「無理かもしれない」

 

「かもしれないでしょ」

 

「可能性は低い」

 

「ゼロじゃない」

 

 医師と同じ言葉。

 

 だが、レイナが言うと意味が違って聞こえた。

 

 医師の言葉は、現実を和らげるためのものだった。

 

 レイナの言葉は、未来を掴むためのものだった。

 

「悠真」

 

「何」

 

「三年後も、ウチの隣にいて」

 

 約束できない。

 

 普通ならそう答える。

 

 だが、レイナの瞳を見ていると、その言葉を拒みたくなかった。

 

「努力する」

 

 それが限界だった。

 

 必ずとは言えない。

 

 生きるとは約束できない。

 

 でも、諦めないことなら約束できる。

 

「生きる努力はする」

 

 レイナの顔が崩れる。

 

 また泣きそうになる。

 

「本当?」

 

「ああ」

 

「勝手に無理しない?」

 

「しない」

 

「薬ちゃんと飲む?」

 

「飲む」

 

「苦しくなったら言う?」

 

「言う」

 

「病院の話も教える?」

 

「必要なことは」

 

「全部がいい」

 

「少しずつ」

 

「じゃあそれでいい」

 

 レイナは何度もうなずいた。

 

 そして、再び悠真へ抱きつく。

 

「よかった」

 

 小さな声。

 

「本当によかった」

 

 悠真は迷ったあと、レイナの背中へ腕を回した。

 

 細い体。

 

 けれど、その腕で自分を支えようとしている。

 

 守られているのは、どちらなのかわからなかった。

 

「レイナ」

 

「何」

 

「ごめん」

 

「また謝るの?」

 

「隠してたこと」

 

「それは怒ってる」

 

「やっぱり」

 

「めっちゃ怒ってる」

 

 レイナは悠真の胸へ顔を埋めたまま言う。

 

「今度また大事なこと隠したら、絶対許さない」

 

「わかった」

 

「あと大丈夫って嘘ついたら怒る」

 

「ああ」

 

「無理したら泣く」

 

「怒るじゃないのか」

 

「両方」

 

「一番困るやつだな」

 

「だから無理しないで」

 

「わかった」

 

 少しずつ、空気が和らぐ。

 

 レイナの震えも収まっていった。

 

 しばらく二人は抱き合ったままだった。

 

 周囲から見れば、恋人同士に見えただろう。

 

 実際、今の二人の距離は、友達という言葉では説明できなかった。

 

「悠真」

 

「何」

 

「一個聞いていい?」

 

「ああ」

 

「三年だから、ウチの告白に返事しなかったの?」

 

 核心だった。

 

 悠真は小さく息を吐く。

 

「それもある」

 

「それも?」

 

「レイナのことを好きになったら、離れたくなくなると思った」

 

「もうなってる?」

 

「……なってる」

 

 レイナの体が固まる。

 

 ゆっくり顔を上げる。

 

「今、何て言った?」

 

「離れたくない」

 

「その前」

 

「聞こえただろ」

 

「ちゃんと言って」

 

 涙で赤くなった瞳。

 

 期待と不安が混ざっている。

 

 悠真は逃げられなかった。

 

 いや、もう逃げたくなかった。

 

「レイナのことが好きだ」

 

 風が吹く。

 

 レイナの金色の髪が揺れる。

 

 彼女は完全に固まっていた。

 

「え」

 

「返事、待たせて悪かった」

 

「待って」

 

「何」

 

「今、好きって」

 

「ああ」

 

「ウチのこと?」

 

「ほかに誰がいる」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「同情とかじゃなくて?」

 

「それは俺の台詞だろ」

 

 悠真は少し笑う。

 

「入学式の日から、ずっと楽しかった」

 

 レイナの目から、また涙がこぼれる。

 

「朝、会うのも。弁当食べるのも。帰るのも。デートも」

 

「うん」

 

「レイナがいると、明日が楽しみになる」

 

「うん……」

 

「だから、好きだ」

 

 レイナは口元を押さえた。

 

 声にならない。

 

 嬉しいはずなのに、泣いている。

 

 今日だけで何度泣いたかわからない。

 

「返事は」

 

 悠真が続ける。

 

「ずっと一緒にいられる約束はできない」

 

 レイナの表情が少し曇る。

 

「でも、残ってる時間を一緒に過ごしたい」

 

「それって」

 

「ああ」

 

 悠真はつないだ手へ力を込めた。

 

「俺と付き合ってほしい」

 

 レイナの瞳が大きく見開かれる。

 

 数秒間、世界が止まった。

 

 そして。

 

「はい!」

 

 レイナは勢いよく答えた。

 

 悠真の胸へ再び飛び込む。

 

「付き合う! 絶対付き合う!」

 

「声大きい」

 

「だって嬉しい!」

 

「周りが見る」

 

「見せつければいい!」

 

 泣きながら笑っている。

 

 悠真も、つられて笑った。

 

「今日、最悪の日になるかと思った」

 

 レイナが言う。

 

「何で」

 

「余命のこと聞いて、もう無理ってなるかと思った」

 

「それは俺も」

 

「でも彼女になれた」

 

「ああ」

 

「人生で一番悲しくて、一番嬉しい日」

 

「忙しいな」

 

「悠真のせい」

 

「悪い」

 

「謝るなら、もう一回好きって言って」

 

「要求が多い」

 

「彼女になったから権利増えた」

 

「勝手に増やすな」

 

「ねえ」

 

 レイナが顔を上げる。

 

「好き?」

 

 悠真は少し照れながら答えた。

 

「好きだよ」

 

 レイナの顔が一気に赤くなる。

 

「無理」

 

「自分で聞いたんだろ」

 

「彼氏の悠真、破壊力やばい」

 

「彼氏って言葉に慣れないな」

 

「ウチはもう慣れた」

 

「早い」

 

「ずっとなりたかったし」

 

 レイナは嬉しそうに悠真の腕へ抱きつく。

 

「今日から毎日、彼氏って呼ぶ」

 

「名前でいい」

 

「悠真彼氏」

 

「混ぜるな」

 

「ウチの彼氏」

 

「恥ずかしいからやめろ」

 

「嫌」

 

 いつものレイナに戻っていた。

 

 泣いた跡は残っている。

 

 だが、笑顔は本物だった。

 

「でも」

 

 レイナが少し真面目な顔になる。

 

「余命のこと、忘れたわけじゃないからね」

 

「ああ」

 

「付き合ったからこそ、もっとちゃんとして」

 

「何を」

 

「体調管理」

 

「やっぱり保護者だな」

 

「彼女です」

 

「それを免罪符にするな」

 

「彼女だから毎朝確認する」

 

「多い」

 

「薬飲んだかも聞く」

 

「母親と連携するなよ」

 

「連絡先交換しよっかな」

 

「本気でやめろ」

 

 レイナは笑った。

 

「でも本当に、無理しないで」

 

「わかってる」

 

「その言葉、信用していい?」

 

「ああ」

 

「約束?」

 

「約束」

 

「三年後も生きる努力する?」

 

「する」

 

「ウチと一緒に?」

 

「一緒に」

 

 レイナは満足そうにうなずいた。

 

 それから、少し恥ずかしそうに視線を逸らす。

 

「あともう一個」

 

「まだあるのか」

 

「彼氏彼女になったらすること」

 

「何」

 

「……キス」

 

 悠真の動きが止まる。

 

「急だな」

 

「急じゃないし」

 

「付き合って五分も経ってないぞ」

 

「初デートから二週間くらい経ってる」

 

「計算がおかしい」

 

「ダメ?」

 

 レイナは頬を赤くしながら尋ねる。

 

 さきほどまで泣きながら強い言葉を言っていたのに、今は普通の恋する少女の顔だった。

 

 悠真も緊張する。

 

「嫌ではない」

 

「じゃあ」

 

「でもここは人が来る」

 

 レイナが周囲を見る。

 

 たしかに、少し離れた場所を家族連れが歩いている。

 

「じゃあ、ほっぺ」

 

「え」

 

「ほっぺならいいでしょ」

 

「何の基準だ」

 

「初彼女記念」

 

「記念が多い」

 

「お願い」

 

 レイナは期待するように目を閉じた。

 

 頬を少しこちらへ向ける。

 

 金色の髪。

 

 長いまつ毛。

 

 薄く赤くなった頬。

 

 悠真の心臓が速くなる。

 

 病気の痛みではない。

 

 純粋な緊張だった。

 

「早く」

 

「急かすな」

 

「目閉じてると怖い」

 

「じゃあ開けろ」

 

「それは恥ずかしい」

 

 悠真は小さく息を吐く。

 

 それから、レイナの頬へ短く唇を触れさせた。

 

 一瞬だけ。

 

 柔らかな感触。

 

 離れると、レイナは目を開けた。

 

 顔が真っ赤だった。

 

「……した」

 

「お前が言ったんだろ」

 

「本当にすると思わなかった」

 

「じゃあしなければよかったか」

 

「それはダメ!」

 

 レイナは自分の頬を両手で押さえる。

 

「ここ、一生洗わない」

 

「洗え」

 

「無理」

 

「不衛生だ」

 

「彼氏の初キスついてるし」

 

「頬だけどな」

 

「次は唇ね」

 

「予告するな」

 

「いつする?」

 

「聞くものじゃないだろ」

 

「じゃあ悠真からして」

 

「難易度上げるな」

 

 レイナは声を上げて笑う。

 

 その笑顔を見て、悠真は思った。

 

 話してよかった。

 

 泣かせた。

 

 傷つけた。

 

 怖がらせた。

 

 それでも、レイナは手を離さなかった。

 

 むしろ、前よりも強く握ってくれた。

 

 二人はベンチから立ち上がった。

 

「残りの水族館、回ろ」

 

 レイナが言う。

 

「ああ」

 

「彼氏と初水族館の続き!」

 

「さっきまで彼氏じゃなかったけどな」

 

「今から全部上書き」

 

「都合がいい」

 

「写真もいっぱい撮る」

 

「またか」

 

「今日、付き合った記念日だから」

 

「そうだな」

 

 悠真が素直に答えると、レイナは嬉しそうに笑った。

 

「五月十七日」

 

「覚えたのか」

 

「絶対忘れない」

 

「俺も忘れない」

 

「本当?」

 

「ああ」

 

「じゃあ来年も来ようね」

 

 未来の約束。

 

 以前なら避けていた。

 

 だが今は、逃げたくなかった。

 

「来よう」

 

 悠真は答えた。

 

 レイナの目が輝く。

 

「再来年も」

 

「ああ」

 

「三年後も」

 

 その言葉に、一瞬だけ胸が痛む。

 

 だが、悠真はうなずいた。

 

「三年後も来る努力をする」

 

「うん」

 

「四年後も」

 

 今度は悠真から言った。

 

 レイナの目に涙が浮かぶ。

 

 だが泣かずに笑った。

 

「五年後も」

 

「十年後も」

 

「おじいちゃんとおばあちゃんになっても」

 

「飛びすぎだろ」

 

「でも約束」

 

「努力する」

 

「そこは絶対って言って」

 

「言えない」

 

「正直すぎ」

 

「嘘はつかないって約束したから」

 

 レイナは少しだけ寂しそうに笑う。

 

「じゃあ、一緒に絶対にしていこう」

 

「ああ」

 

 二人は手をつなぎ、再び館内へ戻った。

 

 イルカショーでは、レイナが子どものように歓声を上げた。

 

 水しぶきが飛んでくる席へ座り、二人とも少し濡れた。

 

「悠真、髪ぺたんこ!」

 

「お前もだろ」

 

「ウチは濡れても可愛い」

 

「自分で言うな」

 

「彼氏なら肯定して」

 

「可愛いよ」

 

「え」

 

「何」

 

「急に素直」

 

「彼氏になったから」

 

 レイナは顔を真っ赤にし、タオルで悠真の肩を叩いた。

 

「そういうの急に言うのずるい!」

 

「理不尽だな」

 

 ペンギンの餌やり。

 

 アザラシのショー。

 

 お土産売り場。

 

 二人は残りの時間を、普通のカップルのように過ごした。

 

 レイナはペアのイルカストラップを見つけた。

 

「おそろい増やそ」

 

「また?」

 

「彼氏彼女記念」

 

「断る理由がないな」

 

 悠真がそう答えると、レイナは驚いた。

 

「今日、本当に悠真?」

 

「偽物に見えるか」

 

「彼氏になった途端、優しさ増してる」

 

「今まで優しくなかったみたいに言うな」

 

「今までも優しかったけど、今は甘い」

 

「慣れてないだけだ」

 

「ずっと慣れないで」

 

「無理だろ」

 

「毎日新鮮に照れて」

 

「難しい注文だな」

 

 二人でイルカのストラップを買い、鞄へつけた。

 

 今度は、悠真もその場でつけた。

 

 レイナはそれだけで嬉しそうに何度も写真を撮った。

 

 夕方。

 

 水族館を出ると、海の向こうへ夕陽が沈み始めていた。

 

 空は橙色に染まり、海面が金色に輝いている。

 

 二人は駅までの道をゆっくり歩いた。

 

 レイナはずっと悠真の手を握っていた。

 

 時々、確かめるように力を入れる。

 

「レイナ」

 

「何?」

 

「強い」

 

「離れないように」

 

「離れないよ」

 

「本当?」

 

「ああ」

 

「今日だけじゃなくて?」

 

 悠真は少し考える。

 

「できる限り」

 

「それでいい」

 

 レイナは肩を寄せる。

 

「ウチもできる限り離れない」

 

「学校でも?」

 

「もちろん」

 

「授業中は前向けよ」

 

「隣だから大丈夫」

 

「何が大丈夫なんだ」

 

「先生に怒られたら悠真のせいにする」

 

「最悪だな」

 

 レイナは笑う。

 

 しばらくして、表情を少し真面目にした。

 

「学校で余命のこと、言わないほうがいい?」

 

「ああ」

 

「わかった」

 

「病気のことも、必要以上には」

 

「うん」

 

「翔たちにも、まだ」

 

「言わない」

 

 レイナはすぐにうなずいた。

 

「悠真が話したい人に、自分で話せばいい」

 

「ありがとう」

 

「でも体調悪い時は、ウチが助ける」

 

「ああ」

 

「先生には言う」

 

「それは頼む」

 

「あと美咲には、付き合ったことだけ言う」

 

「早い」

 

「絶対言う」

 

「明日には学校中に広がるぞ」

 

「いいじゃん」

 

「恥ずかしい」

 

「彼氏できたの自慢したい」

 

「俺に自慢する要素あるか」

 

 レイナは立ち止まる。

 

「あるに決まってるじゃん」

 

 真剣な顔だった。

 

「優しいし、かっこいいし、頭いいし、運動できるし、オタクの話合うし」

 

「運動はもうあまりできない」

 

「できなくてもいい」

 

「……」

 

「悠真だから好きなの」

 

 レイナは微笑む。

 

「できることが減っても、病気でも、関係ない」

 

「そう言われると、少し楽になる」

 

「じゃあ毎日言う」

 

「毎日は重い」

 

「重くていいって言ったじゃん」

 

「お前がな」

 

 駅の改札前へ到着する。

 

 朝から一日一緒にいた。

 

 それでも、別れる時間が来ると名残惜しかった。

 

 レイナは手を離さない。

 

「帰りたくない」

 

「明日学校で会う」

 

「彼女になって初めての夜、一緒にいたい」

 

「危ない言い方をするな」

 

「変な意味じゃないし!」

 

「わかってる」

 

「でも、今日一人になったらいっぱい考えちゃう」

 

 レイナの表情が曇る。

 

 余命三年。

 

 家へ帰れば、その言葉が再び重くのしかかるだろう。

 

 今は悠真が目の前にいる。

 

 手を握れる。

 

 笑える。

 

 だが一人になれば、不安が押し寄せる。

 

「電話するか」

 

 悠真が言う。

 

「え」

 

「家に着いたら」

 

「電話してくれる?」

 

「ああ」

 

「寝るまで?」

 

「長い」

 

「じゃあ寝落ち通話」

 

「やらない」

 

「一時間」

 

「三十分」

 

「二時間」

 

「増やすな」

 

「じゃあ一時間」

 

「わかった」

 

 レイナの顔が明るくなる。

 

「約束ね」

 

「ああ」

 

「絶対出てね」

 

「出る」

 

「お風呂の時も?」

 

「それは無理だろ」

 

「スマホ防水だよ」

 

「そういう問題じゃない」

 

 いつもの調子に戻った。

 

 レイナは改札を通る前に、もう一度悠真へ近づく。

 

「悠真」

 

「何」

 

「今日、話してくれてありがとう」

 

「ああ」

 

「怖かったけど、聞けてよかった」

 

「後悔してない?」

 

「してない」

 

 迷いのない答え。

 

「彼女になれたし」

 

「そこが一番大きそうだな」

 

「もちろん」

 

 レイナは笑う。

 

「でも、それだけじゃないよ」

 

「わかってる」

 

「ウチ、これから本気で悠真と生きるから」

 

 悠真の胸が熱くなる。

 

「大げさだ」

 

「大げさじゃない」

 

「高校生だぞ」

 

「高校生でも本気」

 

「そうか」

 

「うん」

 

 レイナは手を振り、改札を通った。

 

 だが数歩進んだところで振り返る。

 

「悠真!」

 

「何」

 

「好き!」

 

 改札前にいた人々が振り返る。

 

 悠真は思わず顔を覆いたくなった。

 

「声大きい!」

 

「彼氏だからいいじゃん!」

 

「よくない!」

 

「悠真は!?」

 

 大声で返事を求められる。

 

 周囲の視線。

 

 逃げたい。

 

 だが、レイナは期待するように待っている。

 

「……俺も好きだ!」

 

 悠真も声を上げた。

 

 言った直後、顔が熱くなる。

 

 レイナは両手で口元を押さえた。

 

 そして、これ以上ないほど嬉しそうに笑う。

 

「また明日!」

 

「ああ、また明日!」

 

 今度こそ、レイナは改札の向こうへ消えていった。

 

 帰宅後。

 

 約束通り、二人は電話をした。

 

『もしもし!』

 

「声大きい」

 

『彼氏との初電話だから!』

 

「メッセージは毎日してるだろ」

 

『電話は違うし』

 

 レイナの声は明るかった。

 

 だが時折、沈黙が入る。

 

 余命のことを考えているのだろう。

 

『悠真』

 

「何」

 

『今、胸痛くない?』

 

「痛くない」

 

『薬飲んだ?』

 

「さっき飲んだ」

 

『本当?』

 

「写真送ろうか」

 

『送って』

 

「信用ないな」

 

『前科が多いから』

 

 悠真は薬のケースを撮り、送った。

 

 すぐに確認したレイナが安心したように息を吐く。

 

『よかった』

 

「毎日やるのか」

 

『うん』

 

「面倒だぞ」

 

『好きな人のことなら面倒じゃない』

 

「そうか」

 

『あと、病院の日も教えて』

 

「何で」

 

『一緒に行きたい』

 

「家族がいる」

 

『じゃあ帰りに会う』

 

「学校あるだろ」

 

『放課後なら』

 

「考えておく」

 

『絶対行く』

 

「強引だな」

 

『彼女だから』

 

「何でもそれで押し通すな」

 

 レイナは電話の向こうで笑った。

 

 その声を聞きながら、悠真はベッドへ横になる。

 

 今日は長い一日だった。

 

 病気を話した。

 

 余命を伝えた。

 

 レイナを泣かせた。

 

 そして、恋人になった。

 

 人生の中でも、忘れられない一日になるだろう。

 

『悠真』

 

「何」

 

『三年ってさ』

 

 レイナの声が少し小さくなる。

 

『やっぱり怖い』

 

「ああ」

 

『でも、ウチ逃げないから』

 

「わかってる」

 

『悠真も逃げないでね』

 

「何から」

 

『生きることから』

 

 悠真は天井を見つめる。

 

「逃げない」

 

『約束?』

 

「ああ」

 

『絶対?』

 

「努力する」

 

『そこは絶対って言ってほしい』

 

「嘘はつけない」

 

『そっか』

 

 少し寂しそうな声。

 

 それでもレイナは続けた。

 

『じゃあウチが絶対にする』

 

「何を」

 

『悠真と生きる未来』

 

「簡単じゃないぞ」

 

『知ってる』

 

「つらくなる」

 

『それも知ってる』

 

「泣くぞ」

 

『今日いっぱい泣いた』

 

「そうだったな」

 

『でも今、幸せ』

 

 レイナの声が柔らかくなる。

 

『悠真の彼女になれたから』

 

 悠真は目を閉じた。

 

「俺も」

 

『え?』

 

「幸せだ」

 

 電話の向こうが静かになる。

 

『もう一回』

 

「言わない」

 

『お願い!』

 

「聞こえただろ」

 

『録音したかった!』

 

「毎回それだな」

 

『だって悠真、急に甘いこと言うから!』

 

「彼氏になったから」

 

『無理、好き』

 

「知ってる」

 

『悠真は?』

 

「好きだよ」

 

『……今日、寝れないかも』

 

「寝ろ」

 

『悠真のせい』

 

「明日学校だぞ」

 

『じゃあ寝るまで声聞かせて』

 

「一時間の約束だろ」

 

『もう四十分経った』

 

「早いな」

 

『あと一時間』

 

「延長するな」

 

『彼女特典』

 

「また勝手に作ってる」

 

 結局、電話は二時間続いた。

 

 特別な話をしたわけではない。

 

 アニメの話。

 

 学校の話。

 

 明日の弁当の話。

 

 次に行きたい場所。

 

 そんな普通の会話。

 

 けれど、その普通が、悠真には何よりも大切だった。

 

 通話を終える直前。

 

『悠真』

 

「何」

 

『明日も会えるね』

 

「ああ」

 

『嬉しい』

 

「俺も」

 

『じゃあ、おやすみ』

 

「おやすみ」

 

『好きだよ』

 

「俺も好きだ」

 

 通話が切れる。

 

 静かになった部屋で、悠真はスマートフォンを胸の上へ置いた。

 

 余命三年。

 

 その現実は変わらない。

 

 病気も治っていない。

 

 明日、突然悪化する可能性もある。

 

 それでも。

 

 今日からは、一人ではなかった。

 

 生きたいと願ってくれる人がいる。

 

 三年後も隣にいてほしいと言ってくれる人がいる。

 

 その願いに応えたいと思う自分がいる。

 

「生きないとな」

 

 悠真は小さく呟いた。

 

 これまでは、残された時間をどう過ごすかだけを考えていた。

 

 これからは違う。

 

 時間を増やすこと。

 

 未来を諦めないこと。

 

 レイナと一緒に生きること。

 

 そのためにできることを探していく。

 

 一方、レイナは電話が切れたあとも、スマートフォンを胸へ抱いていた。

 

 涙はもう止まっていた。

 

 それでも、余命三年という言葉を思い出すたび、胸が締めつけられる。

 

「三年で終わらせない」

 

 誰もいない部屋で呟く。

 

 医学のことは何も知らない。

 

 治療法も。

 

 病気の名前すら、まだ詳しく聞いていない。

 

 自分にできることは少ない。

 

 それでも、少ないからといって何もしないつもりはなかった。

 

 悠真の体調を気にする。

 

 無理を止める。

 

 薬を忘れさせない。

 

 病院の話を聞く。

 

 新しい治療法を一緒に探す。

 

 そして何より。

 

 毎日、笑わせる。

 

「三年分、全部楽しくする」

 

 レイナは待ち受け画面を見る。

 

 今日、水族館の入口で撮った写真。

 

 二人は腕を組み、笑っている。

 

 撮影した時は、まだ恋人ではなかった。

 

 今は違う。

 

 白雪レイナは、朝倉悠真の彼女になった。

 

「明日、みんなに言お」

 

 美咲は絶対に大騒ぎするだろう。

 

 翔も驚くかもしれない。

 

 悠真は恥ずかしがる。

 

 その反応を想像すると、少し笑えた。

 

 だが、余命のことは誰にも言わない。

 

 それは悠真の大切な秘密。

 

 彼が話したい時に、自分で話すべきこと。

 

 レイナはスマートフォンを握る。

 

「絶対守るから」

 

 秘密も。

 

 命も。

 

 悠真の笑顔も。

 

 高校生活は、まだ始まったばかり。

 

 桜が散り、新しい季節がやって来る。

 

 球技大会。

 

 夏休み。

 

 文化祭。

 

 クリスマス。

 

 これから二人には、多くの時間が待っている。

 

 それが三年で終わるのか。

 

 それとも、もっと先へ続くのか。

 

 今は誰にもわからない。

 

 けれど、この日。

 

 余命三年の少年は、初めて未来を諦めないと決めた。

 

 そして金髪のギャルは、彼の残り時間を悲しむだけではなく、一緒に生きることを選んだ。

 

 悲しいから離れるのではなく。

 

 怖いから諦めるのでもなく。

 

 限られているからこそ、大切にする。

 

 二人の恋は、この日から本当の意味で始まった。

 

 残り三年。

 

 それは別れまでの時間ではない。

 

 二人で未来を変えるために与えられた、最初の時間だった。




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