第6話 ギャルは残り三年を一緒に生きたい
日曜日の朝。
朝倉悠真は、鏡の前で自分の顔を見つめていた。
寝癖は直した。
髪も軽く整えた。
白いシャツに薄いグレーのカーディガン。下は黒いパンツ。派手さはないが、レイナと出かける以上、部屋着の延長のような格好で行くつもりはなかった。
見た目だけなら、どこにでもいる高校一年生だった。
病気を抱えているようには見えない。
あと三年しか生きられない人間にも見えない。
「……今日、話すんだよな」
鏡の中の自分へ確認するように呟く。
次のデートまでに、病気のことを話す。
保健室でレイナと交わした約束だった。
その日が来た。
逃げることはできない。
いや、逃げようと思えば逃げられる。
今日は体調が悪いと言って、予定を延期する。
もう少し待ってほしいと頼む。
全部を話す必要はないと、自分へ言い聞かせる。
方法はいくらでもあった。
けれど、そのどれも選びたくなかった。
これ以上、レイナへ嘘をつきたくない。
彼女が自分を心配して泣くたび、胸が痛んだ。
知らないから不安になる。
それなのに自分は、大丈夫という言葉だけを繰り返してきた。
結果として、レイナを何度も傷つけた。
今日こそ、話さなければならない。
悠真は机の上へ目を向けた。
薬のケース。
水。
診察券。
万が一に備えて、どれも鞄へ入れてある。
その隣には、レイナとおそろいのアクリルキーホルダーが置かれていた。
今日は鞄につけていく。
傷つけたくないという気持ちは変わらない。
だが、レイナはきっと、つけていることを喜ぶ。
今はそれを優先したかった。
キーホルダーを鞄へつけたところで、スマートフォンが震えた。
『おはよ!』
『今日の水族館デート楽しみ!』
『でも無理しないでね!』
『薬持った?』
『水持った?』
『体調悪くない?』
『やっぱウチ、家まで迎え行こうか?』
悠真は思わず苦笑した。
「完全に保護者だな」
返信する。
『全部持った』
『体調も問題ない』
『迎えはいらない』
すぐに既読がつく。
『本当の大丈夫?』
指が止まる。
レイナの中で、大丈夫という言葉は信用を失っている。
当然だった。
何度も同じ言葉で誤魔化してきた。
『今日は本当』
『少しでも苦しくなったら言う』
送信する。
しばらくして、返信が来た。
『約束だからね』
『絶対一人で我慢しないで』
悠真は短く返した。
『約束する』
未来の約束は怖い。
だが、今日一日の約束なら守れる。
少なくとも、今はそう思いたかった。
一階へ下りると、母親が朝食を用意していた。
「今日は水族館だったわね」
「ああ」
「白雪さんと?」
「そう」
「病気のこと、話すの?」
悠真は椅子を引く手を止めた。
「たぶん」
「たぶん?」
「……話す」
言い直すと、母親は静かにうなずいた。
「そう」
「反対しないのか」
「どうして反対するの?」
「余命まで話すかもしれない」
母親の表情が、わずかに曇る。
自分の息子の余命。
何度聞いても、慣れるような言葉ではない。
「悠真が決めたなら、止めないわ」
「話したら、傷つけると思う」
「話さなくても、もう傷つけているんでしょう?」
悠真は黙った。
母親は味噌汁を机へ置く。
「隠すのが優しさになる時もあると思う。でも、相手が知りたいと願っていて、悠真も大切に思っているなら、話すことも優しさなんじゃない?」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないわ」
母親の声は穏やかだった。
「でも、あなた一人で全部決めなくてもいいのよ」
「決めなきゃいけないだろ。俺のことなんだから」
「あなたの命は、あなただけのものかもしれない」
母親は一度、言葉を止めた。
「でも、あなたを大切に思う人の気持ちは、その人たちのものよ」
悠真は顔を上げる。
「白雪さんがどうしたいかは、白雪さんに決めてもらってもいいんじゃない?」
その言葉が胸へ残った。
自分は、レイナを傷つけないためだと言いながら、彼女の選択まで奪っているのかもしれない。
知った上でそばにいたいのか。
怖くて離れたいのか。
それを決める権利は、レイナにある。
「食べなさい。空腹で出かけたら倒れるわよ」
「縁起でもないこと言うな」
「事実でしょう?」
「そこは否定してくれ」
母親が少し笑う。
重かった空気が、わずかに和らいだ。
悠真は朝食を食べ始める。
食欲はあった。
胸の痛みもない。
体調だけなら、デートを楽しめるはずだった。
問題は心だった。
待ち合わせ場所へ向かう電車の中でも、何度も言葉を考えた。
病気なんだ。
重い心臓病で。
医者からは、あと三年だと言われている。
どんな言い方をしても、現実は変わらない。
軽く言えば不誠実になる。
重く言えばレイナを怖がらせる。
正解など、どこにもなかった。
駅へ着く。
改札を出た瞬間、レイナの姿が見えた。
今日は淡い水色のワンピースを着ていた。
腰には白い細いベルト。
上から短い丈の白いカーディガンを羽織っている。
金色の髪はゆるく編み込まれ、白いメッシュの近くには小さな青い花の髪飾りがついていた。
水族館を意識した服装なのか、全体が海や空を思わせる色でまとまっている。
足元は歩きやすそうな白いスニーカー。
鞄には、前回買ったルミナのキーホルダー。
そして、悠真とのツーショット写真を入れた小さな透明ケースまでついていた。
「それ、いつ作ったんだ」
声をかける前に、思わず口から出た。
レイナが振り向く。
悠真を見つけると、顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「悠真!」
小走りで近づいてくる。
「おはよ!」
「おはよう」
「何がいつ作ったの?」
「鞄の写真」
「あ、これ?」
レイナは透明ケースを指でつまむ。
中には、前回のコラボカフェで撮った二人の写真が入っていた。
「昨日作った!」
「持ち歩くのか」
「うん」
「恥ずかしくない?」
「全然」
「俺は少し恥ずかしい」
「じゃあ慣れて」
「慣れの問題か」
「彼氏になったら、もっと増えるよ」
「予告するな」
いつも通りのレイナだった。
明るくて。
距離が近くて。
見ているだけで、こちらまで笑いそうになる。
今日、この笑顔を自分が壊すかもしれない。
そう思うと、胸の奥が重くなった。
「悠真?」
レイナが顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「何でもない」
言いかけて、止まる。
大丈夫。
何でもない。
その言葉で逃げないと約束したばかりだった。
「少し緊張してる」
「水族館で?」
「話す約束しただろ」
レイナの表情がわずかに変わる。
明るさが消えたわけではない。
ただ、現実を思い出したように、瞳が真剣になった。
「うん」
「今日、話す」
「……そっか」
「だから、少し緊張してる」
レイナはしばらく悠真を見つめた。
それから、そっと右手を差し出す。
「じゃあ、手つなご」
「何で」
「緊張してる時、一人より二人のほうがいいじゃん」
「まだ駅前だぞ」
「デートだし」
「便利な言葉だな」
「嫌?」
「嫌じゃない」
悠真は手を重ねた。
指が絡む。
レイナの手は、今日も少し冷たかった。
「ウチも緊張してる」
レイナが小さく言う。
「怖い?」
「少し」
「なら、無理に聞かなくても――」
「聞く」
迷いのない声だった。
「怖いけど、聞きたい」
「後悔するかもしれない」
「それは聞いてから決める」
母親の言葉が蘇る。
どうしたいかは、レイナに決めてもらってもいい。
悠真はつないだ手へ少し力を込めた。
「わかった」
「でも最初から重い話するのはやめよ」
「え」
「せっかく水族館来たんだから、まず楽しむ!」
レイナは笑顔を作る。
無理に明るくしているわけではない。
今日一日を大切にしようとしているのだ。
「話はあとで、ちゃんと聞く」
「ああ」
「それまで普通にデートね」
「普通のデートって何をするんだ」
「手つないで、写真撮って、可愛いって言って、好きって言う」
「後半の要求が多い」
「ウチは悠真に可愛いっていっぱい言うよ?」
「いらない」
「今日の悠真、めっちゃかっこいい」
「今言うな」
「カーディガン似合ってる」
「わかったから」
「髪もいい感じ」
「近い」
「照れてる顔も可愛い」
「最後で全部台無しだ」
レイナが楽しそうに笑う。
その笑顔に救われながら、二人は水族館へ向かった。
休日の水族館は、家族連れやカップルで賑わっていた。
入口には大きな青い看板があり、イルカとペンギンの写真が描かれている。
レイナは看板を見るなり、目を輝かせた。
「悠真、写真撮ろ!」
「まだ入口だぞ」
「入口も思い出じゃん」
近くにいた係員へ頼み、二人で看板の前に並ぶ。
レイナは悠真の腕へ自然に抱きついた。
「近い」
「写真だから」
「毎回それで押し通すつもりか」
「笑って!」
シャッターが切られる。
写真を確認すると、レイナは満面の笑み。
悠真も、少し困ったように笑っていた。
「いいじゃん!」
「お前、近すぎないか」
「カップルっぽくてよくない?」
「まだ違う」
「まだね」
レイナはそこだけ強調した。
入場券を購入し、館内へ入る。
最初のエリアは、小さな魚たちが泳ぐ明るい展示室だった。
色とりどりの熱帯魚。
ゆっくり泳ぐクラゲ。
岩陰に隠れる小さなエビ。
水槽から漏れる青い光が、館内を幻想的に照らしている。
「わあ……」
レイナが感嘆の声を漏らした。
いつもの明るい声より、少し小さい。
本当に見入っている時の声だった。
「見て悠真。あの魚、めっちゃ派手」
「お前みたいだな」
「え、ウチ可愛い?」
「派手って言った」
「派手で可愛いってこと?」
「都合よく変換するな」
水槽の中では、黄色と青の魚が群れになって泳いでいた。
レイナはガラスへ顔を近づける。
「でもキレイ」
「そうだな」
「魚っていいよね。水の中、自由そう」
「水槽だけどな」
「現実的なこと言わないで」
「事実だろ」
「悠真ってたまに夢ないよね」
「アニメオタクに言われたくない」
「オタクだから夢見たいんじゃん」
レイナは悠真の袖を引き、次の水槽へ向かう。
そこには、二匹の魚が寄り添うように泳いでいた。
「見て。仲良し」
「同じ方向に泳いでるだけだろ」
「絶対カップル」
「判別できるのか」
「雰囲気で」
「雑だな」
「ウチらみたい」
「どこが」
「一緒に歩いてる」
「魚は歩かない」
「細かい!」
レイナは頬を膨らませる。
だがすぐに笑い、また悠真の手を握った。
館内は薄暗い。
水槽の青い光だけが二人を照らす。
周囲には人がいるのに、どこか二人きりのような気がした。
少し進むと、クラゲの展示室へ入った。
円柱形の水槽が並び、その中で半透明のクラゲがゆっくりと漂っている。
青。
紫。
白。
照明の色が変わるたび、クラゲの姿も違って見える。
「きれい……」
レイナが小さく呟いた。
ガラスに映る彼女の横顔も、青く染まっていた。
悠真は無意識に、その姿を見つめていた。
「何?」
レイナが気づく。
「いや」
「また見てた」
「クラゲを見てた」
「ウチの後ろにいるけど?」
「一緒に視界へ入っただけ」
「じゃあウチもきれいだった?」
悠真は答えに迷った。
レイナは期待するように見つめている。
「……きれいだった」
正直に答えた。
レイナの目が大きくなる。
「え」
「何だよ」
「悠真から言った」
「聞いたのはお前だろ」
「でも素直に言うと思わなかった」
「じゃあ取り消す」
「ダメ!」
レイナは慌てて悠真の腕へ抱きついた。
「絶対取り消し禁止!」
「わかったから離れろ」
「無理」
「何で」
「嬉しいから」
声は小さかった。
レイナは悠真の腕に額を寄せる。
いつもなら周囲の目を気にしない。
けれど今は、照れて顔を隠しているようだった。
「ウチ、今日ずっと覚えてる」
「まだ始まったばかりだぞ」
「今の言葉だけで一週間生きられる」
「燃費いいな」
「でも毎日言ってくれたら一生生きられる」
一生。
その言葉に、悠真の心が揺れる。
レイナにとっての一生は、まだ長い。
何十年も続く。
自分の一生は、あと三年かもしれない。
同じ言葉でも、重さが違う。
「悠真?」
「何でもない」
言ってから、すぐに訂正する。
「少し考え事」
「今日、何でもない禁止」
「そうだったな」
「でも話すのはあとでいいよ」
レイナは腕から離れ、再び手をつなぐ。
「今はクラゲ見よ」
「ああ」
展示を進む。
大水槽では、サメやエイが頭上を泳いでいた。
トンネル状の通路に入ると、レイナは何度も上を見上げて歓声を上げた。
「すご! 見て悠真!」
「見てる」
「エイ、顔みたい!」
「下から見るとそう見えるな」
「笑ってるみたいで可愛い」
「口じゃないけどな」
「夢ない!」
「今日二回目だぞ」
レイナはスマートフォンを取り出し、動画を撮る。
その途中で悠真へカメラを向けた。
「何撮ってる」
「悠真」
「魚を撮れ」
「悠真も珍しい生き物だから」
「失礼だな」
「オタクで運動神経よくて、顔よくて、照れ屋で、優しくて」
「後半は主観だろ」
「あとウチが大好き」
「最後は違う」
「少し好きって言った」
「少しだ」
「その少しを育てるの!」
レイナは楽しそうに笑い、動画を止める。
悠真は呆れながらも、拒絶する気にはなれなかった。
こんな時間が、いつまでも続けばいい。
そう思う自分がいた。
だが今日、話せば変わる。
レイナの笑顔を見るたび、秘密を話す時間が近づくことが怖くなった。
昼前。
二人は館内のカフェへ入った。
水族館らしく、魚やペンギンをイメージしたメニューが並んでいる。
レイナはペンギン型のオムライスを見つけ、迷わず選んだ。
「可愛すぎる!」
「食べるのに?」
「食べる前に百枚撮る」
「またか」
「悠真も一緒に撮る」
「料理だけでいいだろ」
「料理と彼氏候補」
「勝手に肩書きをつけるな」
「じゃあ好きな人」
「もっと直接的になったな」
悠真はシーフードパスタを注文した。
料理が届くと、レイナは本当に何枚も写真を撮った。
角度を変え。
悠真の皿も並べ。
最後には二人の手元まで写す。
「これ、カップルの投稿みたい」
「投稿するのか」
「親しい友達だけ」
「学校中に広がるぞ」
「もうデートしてるの知られてるし」
「付き合ってないのに」
「時間の問題」
「自信がすごいな」
「悠真、ウチ以外に興味なさそうだし」
「言い方が悪い」
「違うの?」
「……今は、いない」
レイナの動きが止まる。
「ウチ以外に好きな人いない?」
「いない」
「本当に?」
「ああ」
「それってほぼ勝ちじゃん」
「何に勝つんだ」
「悠真争奪戦」
「開催されてない」
「じゃあ不戦勝」
レイナは嬉しそうに笑い、ペンギン型のオムライスへスプーンを入れた。
「悠真、一口食べる?」
「いいのか」
「うん。あーんしてあげる」
「普通に皿を貸せ」
「デートだからダメ」
「どういうルールだ」
「カップルはあーんするの」
「まだカップルじゃない」
「練習」
「何の」
「彼女になる練習」
レイナはスプーンを差し出す。
悠真は周囲を見る。
近くには家族連れ。
少し離れた席にはカップル。
誰もこちらを気にしてはいない。
「一回だけ」
「毎回言うね」
「予防線だ」
「でも結局してくれる」
「お前が引かないからだろ」
悠真は口を開ける。
レイナが嬉しそうにオムライスを運ぶ。
「どう?」
「普通にうまい」
「ウチが食べさせた分は?」
「少し増した」
「えっ」
レイナが固まる。
「何」
「悠真、今すごいこと言った」
「前回も似たこと言っただろ」
「今日、素直すぎない?」
「たまには」
「告白の前触れ?」
「違う」
「でも期待しちゃう」
レイナは少し照れながら、オムライスを食べる。
悠真はパスタを口へ運ぶ。
会話はいつも通りだった。
そのいつも通りが、今日で最後になるかもしれない。
そう考えると、食べ物の味が少し薄く感じた。
「悠真」
「何」
「怖い顔してる」
「そうか」
「話すこと考えてる?」
「ああ」
レイナはスプーンを置く。
「無理しなくていいよ」
「でも聞きたいんだろ」
「聞きたい」
「なら話す」
「今?」
悠真は周囲を見る。
人が多い。
明るい店内。
泣く可能性もある話をする場所ではない。
「ここでは無理だ」
「そっか」
「館内に静かな場所あるかな」
「屋外エリアにベンチあるって」
「じゃあ、あとで」
「うん」
レイナは再びスプーンを持つ。
だが、さきほどまでの明るさは少し落ち着いていた。
それでも無理に聞こうとはしない。
悠真が話せる時を待っている。
その優しさが、かえって胸へ刺さった。
昼食を終えたあと、二人はペンギンの展示へ向かった。
屋外のプールでは、何羽ものペンギンが歩いたり泳いだりしている。
レイナは柵の前へ駆け寄った。
「可愛い!」
「走るな」
「あ、そっか。悠真置いてかないようにしないと」
「俺は歩ける」
「でも一緒がいい」
レイナは戻ってきて、悠真の手を握る。
「ほら」
「子どもみたいにするな」
「迷子防止」
「お前のほうが迷子になりそうだ」
「その時は探して」
「見つからなかったら?」
「泣く」
「素直だな」
「悠真がいなくなったら普通に泣くよ」
何気ない言葉。
だが今の悠真には、重すぎた。
いなくなる。
それは、遠い未来の話ではない。
「……悠真?」
レイナが足を止める。
「また顔変わった」
「そうだな」
もう、誤魔化さない。
「今の言葉、少し刺さった」
「ウチ、変なこと言った?」
「違う。レイナが悪いわけじゃない」
悠真はペンギンのプールを見る。
水の中を自由に泳ぐ姿。
陸では不器用に歩くのに、水に入れば驚くほど速い。
場所が変われば、生き方も変わる。
自分も病気がなければ、違う高校生活を送っていたのだろうか。
「話す場所、探そう」
悠真が言う。
レイナは少し緊張した表情でうなずいた。
二人は屋外エリアの奥へ向かった。
そこには、小さな海を模した広場があった。
水族館は海沿いに建っており、柵の向こうには本物の海が広がっている。
春の風が吹き、潮の匂いがした。
人の少ないベンチを見つけ、二人で座る。
正面には青い海。
遠くで船が進んでいる。
少し離れた場所から、子どもたちの声が聞こえた。
近くには誰もいない。
話すなら、ここしかない。
悠真は両手を組み、膝の上へ置いた。
言葉が出ない。
何度も頭の中で練習したはずなのに。
レイナも何も言わない。
ただ、隣で待っている。
「俺の病気は」
やっと声が出た。
自分でも驚くほど、かすれていた。
「心臓の病気なんだ」
レイナの手が小さく動く。
「生まれつきじゃない。中学の途中くらいから、少しずつ症状が出た」
「胸が痛くなるのも?」
「ああ」
「運動した時に苦しくなるのも?」
「そう」
「治療は?」
「してる」
「治る?」
まっすぐな質問だった。
悠真は海を見る。
「今の治療では、難しい」
レイナの息が止まる気配がした。
「新しい治療法が見つかる可能性はある。でも、医者は高くないって言ってる」
「……そっか」
レイナの声は小さい。
まだ泣いてはいない。
ただ、次の言葉を待っている。
悠真は拳を握る。
ここからが、本当の秘密だった。
「入学式の前に、医者から言われた」
喉が痛い。
声に出したくない。
言葉にすれば、現実がより強くなる気がした。
「俺の余命は」
レイナがこちらを見る。
その紫色の瞳が、揺れていた。
「……三年だって」
風が吹いた。
海面が光る。
遠くで鳥が鳴く。
世界は何も変わらない。
けれど、二人の間だけは完全に止まっていた。
「三年……?」
レイナが聞き返す。
「ああ」
「三年って」
「高校を卒業する頃」
「何それ」
声が震える。
「何、それ」
レイナはもう一度言った。
顔から血の気が引いている。
「余命って……死ぬってこと?」
悠真は答えられなかった。
だが、沈黙が答えになる。
レイナの唇が震える。
「嘘」
「嘘じゃない」
「だって悠真、普通に歩いてるし」
「ああ」
「笑ってるし、学校来てるし、運動もできるし」
「今はまだ」
「今はって何」
声が大きくなる。
レイナは立ち上がりそうになり、けれど足に力が入らなかったのか、そのまま座り直す。
「三年って、短すぎるじゃん」
「そうだな」
「何でそんな普通に言えるの」
「普通じゃない」
「でも泣いてない」
「最初は泣いた」
悠真は静かに言う。
「家で一人の時」
レイナの目から涙がこぼれた。
「何で言ってくれなかったの」
「怖かった」
「何が」
「レイナが変わるのが」
悠真は初めて、彼女の目を見る。
「同情されたくなかった。病人として見られたくなかった。かわいそうだから優しくされるのが嫌だった」
「ウチのこと、そんなふうに思ってたの?」
「違う」
「違わないじゃん」
「レイナが優しいからこそ、怖かった」
レイナの涙は止まらない。
「知ったら、絶対傷つくと思った」
「傷つくよ!」
強い声だった。
悠真は息を呑む。
「今、めちゃくちゃ傷ついてる!」
レイナは両手で涙を拭う。
それでも次々と溢れてくる。
「好きな人があと三年しか生きられないって聞いて、傷つかないわけないじゃん!」
「だから言えなかった」
「でも知らないほうがもっと嫌!」
「……」
「悠真が苦しんでるのに、何も知らないで笑ってるほうが嫌だよ!」
レイナの声が震える。
「球技大会の時だって、ウチ、ただ心配するしかできなかった」
「悪かった」
「謝らないで!」
レイナは悠真の胸を軽く叩いた。
力は弱い。
怒りよりも、悲しみのほうが大きい。
「ごめんって言われても、三年が増えるわけじゃないじゃん」
「そうだな」
「何でそんなに冷静なの」
「冷静じゃない」
「じゃあ何で」
「俺だって怖い」
悠真の声も震えた。
初めてだった。
誰かの前で、この恐怖を口にするのは。
「毎朝起きるたびに、残りが減ったと思う」
レイナが黙る。
「学校へ行って、授業を受けて、笑ってても。頭のどこかでは、あと何日だって考えてる」
悠真は海へ視線を戻す。
「卒業できるかわからない。二年生になれるかもしれない。でも、三年生まで行けないかもしれない」
「やめて」
「医者にも言われた。三年は目安だって」
「やめてよ」
「もっと短い可能性もある」
「やめて!」
レイナが叫ぶ。
近くを歩いていた人が振り返った。
だが、すぐに視線を逸らして去っていく。
レイナは俯き、肩を震わせた。
「聞きたくない」
小さな声。
悠真の胸が痛む。
「ごめん」
「聞きたいって言ったの、ウチだけど」
レイナは涙を拭う。
「でも、そんなの聞きたくなかった」
「……そうだよな」
「もっと軽い病気だと思ってた」
「俺も最初はそう思ってた」
「薬飲んで、運動しなければ大丈夫とか」
「そうだったらよかった」
「治ると思ってた」
「俺も」
レイナは唇を噛んだ。
長い沈黙が落ちる。
波の音。
風の音。
遠くの人の声。
悠真は動けなかった。
レイナへ触れていいのかわからない。
泣かせたのは自分だ。
秘密を話せばこうなるとわかっていた。
それでも、目の前で泣く彼女を見るのは苦しかった。
「悠真」
しばらくして、レイナが呼ぶ。
「何」
「ウチと会わなかったほうがよかった?」
悠真はすぐに首を横へ振った。
「それはない」
「でも、会ったから困ってるでしょ」
「困ってる」
正直に答える。
レイナの表情が痛む。
「でも、会えてよかった」
「……本当?」
「ああ」
悠真は拳を緩める。
「入学式の日まで、学校なんてどうでもいいと思ってた」
「どうでもいい?」
「余命を消化する場所だと思ってた」
レイナは静かに聞いている。
「普通の高校生のふりをして、卒業できたらそれでいい。誰とも深く関わらず、迷惑をかけずに終わればいいって」
「そんなの、寂しいじゃん」
「そう思ってなかった」
「今は?」
悠真はレイナを見る。
「今は、明日が楽しみになった」
レイナの目が揺れる。
「朝、レイナから連絡が来るから」
「……」
「学校へ行けば隣にいる。昼は卵焼きがある。放課後も一緒に帰れる」
声に出すたび、胸が熱くなる。
「次のデートも楽しみになった。水族館も、本当に来たかった」
「悠真……」
「会えてよかった」
今度ははっきりと言う。
「レイナに会えて、よかった」
レイナの涙が、また溢れた。
だが今度は、さきほどとは少し違った。
悲しいだけではない。
嬉しさも混ざった涙だった。
「じゃあ何で、一人で終わろうとするの」
「え」
「誰とも深く関わらずに終わるって、まだ思ってる?」
「……わからない」
「ウチは嫌」
レイナは悠真へ向き直る。
「勝手に一人で終わらないで」
「勝手にって」
「悠真の人生でも、ウチはもう関わってるから」
涙で濡れた顔。
それでも目は強かった。
「ウチ、悠真のこと好き」
「ああ」
「病気って聞いても変わらない」
「同情じゃないのか」
聞いてはいけないと思いながら、口にしてしまった。
レイナの眉が寄る。
「それ本気で言ってる?」
「……」
「今日までのウチの気持ち、全部同情になるの?」
「違う」
「入学式の日は病気なんて知らなかった」
「ああ」
「髪助けてもらって、顔見て、優しいって思って、アニメの話して。そこで好きになった」
レイナは胸元を押さえる。
「病気を知る前から好きだった」
「わかってる」
「じゃあ信じて」
悠真は答えられない。
「かわいそうだからそばにいるんじゃない」
レイナは手を伸ばし、悠真の手を握る。
「好きだから、そばにいたいの」
指が絡む。
涙で冷えた手。
でも、その力は強い。
「三年しかないなら」
レイナの声が震える。
「三年、一緒にいる」
悠真の胸が締めつけられる。
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
「三年後、俺はいなくなるかもしれない」
「わかってる」
「残されるのはレイナだ」
「わかってる!」
レイナは手を離さない。
「怖いよ。嫌だよ。悠真がいなくなるとか、考えたくない」
涙がまた頬を伝う。
「でも、怖いから今から離れるほうがもっと嫌」
「……」
「三年後に泣くのが嫌だから、今日から会わないなんて無理」
「後悔するぞ」
「後悔するかどうかはウチが決める」
強い言葉だった。
母親の言葉と重なる。
どうしたいかは、その人が決める。
悠真はずっと、レイナを守るつもりで選択肢を奪っていた。
傷つくから離れたほうがいい。
未来がないから好きにならないほうがいい。
すべて自分が勝手に決めていた。
「悠真は、ウチに離れてほしい?」
レイナが尋ねる。
答えはわかっていた。
だが口にするのが怖い。
「本音で言って」
「……離れてほしくない」
やっと言えた。
レイナの目から、大粒の涙が落ちる。
「そばにいてほしい」
「うん」
「でも、怖い」
「ウチも怖い」
「レイナを傷つける」
「もう傷ついてる」
「もっと傷つけるかもしれない」
「それでもいる」
「どうして」
「好きだから!」
レイナは泣きながら叫んだ。
「何回言わせるの!」
そのまま、悠真の胸へ飛び込む。
腕を回し、強く抱きしめる。
悠真は驚いて動けなかった。
金色の髪が頬へ触れる。
肩が震えている。
服越しに、レイナの涙が染みていく。
「三年しかないなら、三年全部ちょうだい」
「全部?」
「朝も、昼も、放課後も、休みの日も」
「重いな」
「重くていい」
「勉強は」
「一緒にする」
「進路は」
「一緒に考える」
「卒業できなかったら」
レイナの腕に力が入る。
「卒業できるように頑張る」
「頑張ってどうにかなることじゃない」
「それでも願う」
レイナは顔を上げる。
目は真っ赤だった。
メイクも少し崩れている。
それでも、悠真には誰よりも可愛く見えた。
「ウチ、諦めない」
「何を」
「悠真が生きること」
レイナは涙を拭う。
「新しい治療法、探す。病院のことも勉強する。できること全部する」
「高校生にできることなんて少ない」
「ゼロじゃない」
「期待しすぎると、つらくなる」
「期待しないよりいい」
レイナはまっすぐに言う。
「悠真まで諦めないで」
「諦めてない」
「嘘」
「……」
「どうせ三年って思ってるでしょ」
図星だった。
余命を告げられて以来、悠真は生きることより、どう終わるかを考えていた。
治る可能性より、残り時間をどう使うか。
未来を望むことを、知らないうちにやめていた。
「ウチは三年で終わるつもりないから」
「レイナが決めることじゃない」
「じゃあ一緒に増やそう」
「何を」
「時間」
レイナは涙の跡を残したまま笑った。
「三年を四年に。四年を五年に。少しずつ増やせばいい」
「簡単に言うなよ」
「難しくても言う」
「無理かもしれない」
「かもしれないでしょ」
「可能性は低い」
「ゼロじゃない」
医師と同じ言葉。
だが、レイナが言うと意味が違って聞こえた。
医師の言葉は、現実を和らげるためのものだった。
レイナの言葉は、未来を掴むためのものだった。
「悠真」
「何」
「三年後も、ウチの隣にいて」
約束できない。
普通ならそう答える。
だが、レイナの瞳を見ていると、その言葉を拒みたくなかった。
「努力する」
それが限界だった。
必ずとは言えない。
生きるとは約束できない。
でも、諦めないことなら約束できる。
「生きる努力はする」
レイナの顔が崩れる。
また泣きそうになる。
「本当?」
「ああ」
「勝手に無理しない?」
「しない」
「薬ちゃんと飲む?」
「飲む」
「苦しくなったら言う?」
「言う」
「病院の話も教える?」
「必要なことは」
「全部がいい」
「少しずつ」
「じゃあそれでいい」
レイナは何度もうなずいた。
そして、再び悠真へ抱きつく。
「よかった」
小さな声。
「本当によかった」
悠真は迷ったあと、レイナの背中へ腕を回した。
細い体。
けれど、その腕で自分を支えようとしている。
守られているのは、どちらなのかわからなかった。
「レイナ」
「何」
「ごめん」
「また謝るの?」
「隠してたこと」
「それは怒ってる」
「やっぱり」
「めっちゃ怒ってる」
レイナは悠真の胸へ顔を埋めたまま言う。
「今度また大事なこと隠したら、絶対許さない」
「わかった」
「あと大丈夫って嘘ついたら怒る」
「ああ」
「無理したら泣く」
「怒るじゃないのか」
「両方」
「一番困るやつだな」
「だから無理しないで」
「わかった」
少しずつ、空気が和らぐ。
レイナの震えも収まっていった。
しばらく二人は抱き合ったままだった。
周囲から見れば、恋人同士に見えただろう。
実際、今の二人の距離は、友達という言葉では説明できなかった。
「悠真」
「何」
「一個聞いていい?」
「ああ」
「三年だから、ウチの告白に返事しなかったの?」
核心だった。
悠真は小さく息を吐く。
「それもある」
「それも?」
「レイナのことを好きになったら、離れたくなくなると思った」
「もうなってる?」
「……なってる」
レイナの体が固まる。
ゆっくり顔を上げる。
「今、何て言った?」
「離れたくない」
「その前」
「聞こえただろ」
「ちゃんと言って」
涙で赤くなった瞳。
期待と不安が混ざっている。
悠真は逃げられなかった。
いや、もう逃げたくなかった。
「レイナのことが好きだ」
風が吹く。
レイナの金色の髪が揺れる。
彼女は完全に固まっていた。
「え」
「返事、待たせて悪かった」
「待って」
「何」
「今、好きって」
「ああ」
「ウチのこと?」
「ほかに誰がいる」
「本当に?」
「ああ」
「同情とかじゃなくて?」
「それは俺の台詞だろ」
悠真は少し笑う。
「入学式の日から、ずっと楽しかった」
レイナの目から、また涙がこぼれる。
「朝、会うのも。弁当食べるのも。帰るのも。デートも」
「うん」
「レイナがいると、明日が楽しみになる」
「うん……」
「だから、好きだ」
レイナは口元を押さえた。
声にならない。
嬉しいはずなのに、泣いている。
今日だけで何度泣いたかわからない。
「返事は」
悠真が続ける。
「ずっと一緒にいられる約束はできない」
レイナの表情が少し曇る。
「でも、残ってる時間を一緒に過ごしたい」
「それって」
「ああ」
悠真はつないだ手へ力を込めた。
「俺と付き合ってほしい」
レイナの瞳が大きく見開かれる。
数秒間、世界が止まった。
そして。
「はい!」
レイナは勢いよく答えた。
悠真の胸へ再び飛び込む。
「付き合う! 絶対付き合う!」
「声大きい」
「だって嬉しい!」
「周りが見る」
「見せつければいい!」
泣きながら笑っている。
悠真も、つられて笑った。
「今日、最悪の日になるかと思った」
レイナが言う。
「何で」
「余命のこと聞いて、もう無理ってなるかと思った」
「それは俺も」
「でも彼女になれた」
「ああ」
「人生で一番悲しくて、一番嬉しい日」
「忙しいな」
「悠真のせい」
「悪い」
「謝るなら、もう一回好きって言って」
「要求が多い」
「彼女になったから権利増えた」
「勝手に増やすな」
「ねえ」
レイナが顔を上げる。
「好き?」
悠真は少し照れながら答えた。
「好きだよ」
レイナの顔が一気に赤くなる。
「無理」
「自分で聞いたんだろ」
「彼氏の悠真、破壊力やばい」
「彼氏って言葉に慣れないな」
「ウチはもう慣れた」
「早い」
「ずっとなりたかったし」
レイナは嬉しそうに悠真の腕へ抱きつく。
「今日から毎日、彼氏って呼ぶ」
「名前でいい」
「悠真彼氏」
「混ぜるな」
「ウチの彼氏」
「恥ずかしいからやめろ」
「嫌」
いつものレイナに戻っていた。
泣いた跡は残っている。
だが、笑顔は本物だった。
「でも」
レイナが少し真面目な顔になる。
「余命のこと、忘れたわけじゃないからね」
「ああ」
「付き合ったからこそ、もっとちゃんとして」
「何を」
「体調管理」
「やっぱり保護者だな」
「彼女です」
「それを免罪符にするな」
「彼女だから毎朝確認する」
「多い」
「薬飲んだかも聞く」
「母親と連携するなよ」
「連絡先交換しよっかな」
「本気でやめろ」
レイナは笑った。
「でも本当に、無理しないで」
「わかってる」
「その言葉、信用していい?」
「ああ」
「約束?」
「約束」
「三年後も生きる努力する?」
「する」
「ウチと一緒に?」
「一緒に」
レイナは満足そうにうなずいた。
それから、少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
「あともう一個」
「まだあるのか」
「彼氏彼女になったらすること」
「何」
「……キス」
悠真の動きが止まる。
「急だな」
「急じゃないし」
「付き合って五分も経ってないぞ」
「初デートから二週間くらい経ってる」
「計算がおかしい」
「ダメ?」
レイナは頬を赤くしながら尋ねる。
さきほどまで泣きながら強い言葉を言っていたのに、今は普通の恋する少女の顔だった。
悠真も緊張する。
「嫌ではない」
「じゃあ」
「でもここは人が来る」
レイナが周囲を見る。
たしかに、少し離れた場所を家族連れが歩いている。
「じゃあ、ほっぺ」
「え」
「ほっぺならいいでしょ」
「何の基準だ」
「初彼女記念」
「記念が多い」
「お願い」
レイナは期待するように目を閉じた。
頬を少しこちらへ向ける。
金色の髪。
長いまつ毛。
薄く赤くなった頬。
悠真の心臓が速くなる。
病気の痛みではない。
純粋な緊張だった。
「早く」
「急かすな」
「目閉じてると怖い」
「じゃあ開けろ」
「それは恥ずかしい」
悠真は小さく息を吐く。
それから、レイナの頬へ短く唇を触れさせた。
一瞬だけ。
柔らかな感触。
離れると、レイナは目を開けた。
顔が真っ赤だった。
「……した」
「お前が言ったんだろ」
「本当にすると思わなかった」
「じゃあしなければよかったか」
「それはダメ!」
レイナは自分の頬を両手で押さえる。
「ここ、一生洗わない」
「洗え」
「無理」
「不衛生だ」
「彼氏の初キスついてるし」
「頬だけどな」
「次は唇ね」
「予告するな」
「いつする?」
「聞くものじゃないだろ」
「じゃあ悠真からして」
「難易度上げるな」
レイナは声を上げて笑う。
その笑顔を見て、悠真は思った。
話してよかった。
泣かせた。
傷つけた。
怖がらせた。
それでも、レイナは手を離さなかった。
むしろ、前よりも強く握ってくれた。
二人はベンチから立ち上がった。
「残りの水族館、回ろ」
レイナが言う。
「ああ」
「彼氏と初水族館の続き!」
「さっきまで彼氏じゃなかったけどな」
「今から全部上書き」
「都合がいい」
「写真もいっぱい撮る」
「またか」
「今日、付き合った記念日だから」
「そうだな」
悠真が素直に答えると、レイナは嬉しそうに笑った。
「五月十七日」
「覚えたのか」
「絶対忘れない」
「俺も忘れない」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ来年も来ようね」
未来の約束。
以前なら避けていた。
だが今は、逃げたくなかった。
「来よう」
悠真は答えた。
レイナの目が輝く。
「再来年も」
「ああ」
「三年後も」
その言葉に、一瞬だけ胸が痛む。
だが、悠真はうなずいた。
「三年後も来る努力をする」
「うん」
「四年後も」
今度は悠真から言った。
レイナの目に涙が浮かぶ。
だが泣かずに笑った。
「五年後も」
「十年後も」
「おじいちゃんとおばあちゃんになっても」
「飛びすぎだろ」
「でも約束」
「努力する」
「そこは絶対って言って」
「言えない」
「正直すぎ」
「嘘はつかないって約束したから」
レイナは少しだけ寂しそうに笑う。
「じゃあ、一緒に絶対にしていこう」
「ああ」
二人は手をつなぎ、再び館内へ戻った。
イルカショーでは、レイナが子どものように歓声を上げた。
水しぶきが飛んでくる席へ座り、二人とも少し濡れた。
「悠真、髪ぺたんこ!」
「お前もだろ」
「ウチは濡れても可愛い」
「自分で言うな」
「彼氏なら肯定して」
「可愛いよ」
「え」
「何」
「急に素直」
「彼氏になったから」
レイナは顔を真っ赤にし、タオルで悠真の肩を叩いた。
「そういうの急に言うのずるい!」
「理不尽だな」
ペンギンの餌やり。
アザラシのショー。
お土産売り場。
二人は残りの時間を、普通のカップルのように過ごした。
レイナはペアのイルカストラップを見つけた。
「おそろい増やそ」
「また?」
「彼氏彼女記念」
「断る理由がないな」
悠真がそう答えると、レイナは驚いた。
「今日、本当に悠真?」
「偽物に見えるか」
「彼氏になった途端、優しさ増してる」
「今まで優しくなかったみたいに言うな」
「今までも優しかったけど、今は甘い」
「慣れてないだけだ」
「ずっと慣れないで」
「無理だろ」
「毎日新鮮に照れて」
「難しい注文だな」
二人でイルカのストラップを買い、鞄へつけた。
今度は、悠真もその場でつけた。
レイナはそれだけで嬉しそうに何度も写真を撮った。
夕方。
水族館を出ると、海の向こうへ夕陽が沈み始めていた。
空は橙色に染まり、海面が金色に輝いている。
二人は駅までの道をゆっくり歩いた。
レイナはずっと悠真の手を握っていた。
時々、確かめるように力を入れる。
「レイナ」
「何?」
「強い」
「離れないように」
「離れないよ」
「本当?」
「ああ」
「今日だけじゃなくて?」
悠真は少し考える。
「できる限り」
「それでいい」
レイナは肩を寄せる。
「ウチもできる限り離れない」
「学校でも?」
「もちろん」
「授業中は前向けよ」
「隣だから大丈夫」
「何が大丈夫なんだ」
「先生に怒られたら悠真のせいにする」
「最悪だな」
レイナは笑う。
しばらくして、表情を少し真面目にした。
「学校で余命のこと、言わないほうがいい?」
「ああ」
「わかった」
「病気のことも、必要以上には」
「うん」
「翔たちにも、まだ」
「言わない」
レイナはすぐにうなずいた。
「悠真が話したい人に、自分で話せばいい」
「ありがとう」
「でも体調悪い時は、ウチが助ける」
「ああ」
「先生には言う」
「それは頼む」
「あと美咲には、付き合ったことだけ言う」
「早い」
「絶対言う」
「明日には学校中に広がるぞ」
「いいじゃん」
「恥ずかしい」
「彼氏できたの自慢したい」
「俺に自慢する要素あるか」
レイナは立ち止まる。
「あるに決まってるじゃん」
真剣な顔だった。
「優しいし、かっこいいし、頭いいし、運動できるし、オタクの話合うし」
「運動はもうあまりできない」
「できなくてもいい」
「……」
「悠真だから好きなの」
レイナは微笑む。
「できることが減っても、病気でも、関係ない」
「そう言われると、少し楽になる」
「じゃあ毎日言う」
「毎日は重い」
「重くていいって言ったじゃん」
「お前がな」
駅の改札前へ到着する。
朝から一日一緒にいた。
それでも、別れる時間が来ると名残惜しかった。
レイナは手を離さない。
「帰りたくない」
「明日学校で会う」
「彼女になって初めての夜、一緒にいたい」
「危ない言い方をするな」
「変な意味じゃないし!」
「わかってる」
「でも、今日一人になったらいっぱい考えちゃう」
レイナの表情が曇る。
余命三年。
家へ帰れば、その言葉が再び重くのしかかるだろう。
今は悠真が目の前にいる。
手を握れる。
笑える。
だが一人になれば、不安が押し寄せる。
「電話するか」
悠真が言う。
「え」
「家に着いたら」
「電話してくれる?」
「ああ」
「寝るまで?」
「長い」
「じゃあ寝落ち通話」
「やらない」
「一時間」
「三十分」
「二時間」
「増やすな」
「じゃあ一時間」
「わかった」
レイナの顔が明るくなる。
「約束ね」
「ああ」
「絶対出てね」
「出る」
「お風呂の時も?」
「それは無理だろ」
「スマホ防水だよ」
「そういう問題じゃない」
いつもの調子に戻った。
レイナは改札を通る前に、もう一度悠真へ近づく。
「悠真」
「何」
「今日、話してくれてありがとう」
「ああ」
「怖かったけど、聞けてよかった」
「後悔してない?」
「してない」
迷いのない答え。
「彼女になれたし」
「そこが一番大きそうだな」
「もちろん」
レイナは笑う。
「でも、それだけじゃないよ」
「わかってる」
「ウチ、これから本気で悠真と生きるから」
悠真の胸が熱くなる。
「大げさだ」
「大げさじゃない」
「高校生だぞ」
「高校生でも本気」
「そうか」
「うん」
レイナは手を振り、改札を通った。
だが数歩進んだところで振り返る。
「悠真!」
「何」
「好き!」
改札前にいた人々が振り返る。
悠真は思わず顔を覆いたくなった。
「声大きい!」
「彼氏だからいいじゃん!」
「よくない!」
「悠真は!?」
大声で返事を求められる。
周囲の視線。
逃げたい。
だが、レイナは期待するように待っている。
「……俺も好きだ!」
悠真も声を上げた。
言った直後、顔が熱くなる。
レイナは両手で口元を押さえた。
そして、これ以上ないほど嬉しそうに笑う。
「また明日!」
「ああ、また明日!」
今度こそ、レイナは改札の向こうへ消えていった。
帰宅後。
約束通り、二人は電話をした。
『もしもし!』
「声大きい」
『彼氏との初電話だから!』
「メッセージは毎日してるだろ」
『電話は違うし』
レイナの声は明るかった。
だが時折、沈黙が入る。
余命のことを考えているのだろう。
『悠真』
「何」
『今、胸痛くない?』
「痛くない」
『薬飲んだ?』
「さっき飲んだ」
『本当?』
「写真送ろうか」
『送って』
「信用ないな」
『前科が多いから』
悠真は薬のケースを撮り、送った。
すぐに確認したレイナが安心したように息を吐く。
『よかった』
「毎日やるのか」
『うん』
「面倒だぞ」
『好きな人のことなら面倒じゃない』
「そうか」
『あと、病院の日も教えて』
「何で」
『一緒に行きたい』
「家族がいる」
『じゃあ帰りに会う』
「学校あるだろ」
『放課後なら』
「考えておく」
『絶対行く』
「強引だな」
『彼女だから』
「何でもそれで押し通すな」
レイナは電話の向こうで笑った。
その声を聞きながら、悠真はベッドへ横になる。
今日は長い一日だった。
病気を話した。
余命を伝えた。
レイナを泣かせた。
そして、恋人になった。
人生の中でも、忘れられない一日になるだろう。
『悠真』
「何」
『三年ってさ』
レイナの声が少し小さくなる。
『やっぱり怖い』
「ああ」
『でも、ウチ逃げないから』
「わかってる」
『悠真も逃げないでね』
「何から」
『生きることから』
悠真は天井を見つめる。
「逃げない」
『約束?』
「ああ」
『絶対?』
「努力する」
『そこは絶対って言ってほしい』
「嘘はつけない」
『そっか』
少し寂しそうな声。
それでもレイナは続けた。
『じゃあウチが絶対にする』
「何を」
『悠真と生きる未来』
「簡単じゃないぞ」
『知ってる』
「つらくなる」
『それも知ってる』
「泣くぞ」
『今日いっぱい泣いた』
「そうだったな」
『でも今、幸せ』
レイナの声が柔らかくなる。
『悠真の彼女になれたから』
悠真は目を閉じた。
「俺も」
『え?』
「幸せだ」
電話の向こうが静かになる。
『もう一回』
「言わない」
『お願い!』
「聞こえただろ」
『録音したかった!』
「毎回それだな」
『だって悠真、急に甘いこと言うから!』
「彼氏になったから」
『無理、好き』
「知ってる」
『悠真は?』
「好きだよ」
『……今日、寝れないかも』
「寝ろ」
『悠真のせい』
「明日学校だぞ」
『じゃあ寝るまで声聞かせて』
「一時間の約束だろ」
『もう四十分経った』
「早いな」
『あと一時間』
「延長するな」
『彼女特典』
「また勝手に作ってる」
結局、電話は二時間続いた。
特別な話をしたわけではない。
アニメの話。
学校の話。
明日の弁当の話。
次に行きたい場所。
そんな普通の会話。
けれど、その普通が、悠真には何よりも大切だった。
通話を終える直前。
『悠真』
「何」
『明日も会えるね』
「ああ」
『嬉しい』
「俺も」
『じゃあ、おやすみ』
「おやすみ」
『好きだよ』
「俺も好きだ」
通話が切れる。
静かになった部屋で、悠真はスマートフォンを胸の上へ置いた。
余命三年。
その現実は変わらない。
病気も治っていない。
明日、突然悪化する可能性もある。
それでも。
今日からは、一人ではなかった。
生きたいと願ってくれる人がいる。
三年後も隣にいてほしいと言ってくれる人がいる。
その願いに応えたいと思う自分がいる。
「生きないとな」
悠真は小さく呟いた。
これまでは、残された時間をどう過ごすかだけを考えていた。
これからは違う。
時間を増やすこと。
未来を諦めないこと。
レイナと一緒に生きること。
そのためにできることを探していく。
一方、レイナは電話が切れたあとも、スマートフォンを胸へ抱いていた。
涙はもう止まっていた。
それでも、余命三年という言葉を思い出すたび、胸が締めつけられる。
「三年で終わらせない」
誰もいない部屋で呟く。
医学のことは何も知らない。
治療法も。
病気の名前すら、まだ詳しく聞いていない。
自分にできることは少ない。
それでも、少ないからといって何もしないつもりはなかった。
悠真の体調を気にする。
無理を止める。
薬を忘れさせない。
病院の話を聞く。
新しい治療法を一緒に探す。
そして何より。
毎日、笑わせる。
「三年分、全部楽しくする」
レイナは待ち受け画面を見る。
今日、水族館の入口で撮った写真。
二人は腕を組み、笑っている。
撮影した時は、まだ恋人ではなかった。
今は違う。
白雪レイナは、朝倉悠真の彼女になった。
「明日、みんなに言お」
美咲は絶対に大騒ぎするだろう。
翔も驚くかもしれない。
悠真は恥ずかしがる。
その反応を想像すると、少し笑えた。
だが、余命のことは誰にも言わない。
それは悠真の大切な秘密。
彼が話したい時に、自分で話すべきこと。
レイナはスマートフォンを握る。
「絶対守るから」
秘密も。
命も。
悠真の笑顔も。
高校生活は、まだ始まったばかり。
桜が散り、新しい季節がやって来る。
球技大会。
夏休み。
文化祭。
クリスマス。
これから二人には、多くの時間が待っている。
それが三年で終わるのか。
それとも、もっと先へ続くのか。
今は誰にもわからない。
けれど、この日。
余命三年の少年は、初めて未来を諦めないと決めた。
そして金髪のギャルは、彼の残り時間を悲しむだけではなく、一緒に生きることを選んだ。
悲しいから離れるのではなく。
怖いから諦めるのでもなく。
限られているからこそ、大切にする。
二人の恋は、この日から本当の意味で始まった。
残り三年。
それは別れまでの時間ではない。
二人で未来を変えるために与えられた、最初の時間だった。
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