僕とヴェロニカは、剣が飛び込んできた音を聞いて集まってきたご近所さん達を、なんとか振り切って、学校へ向かって一直線に道を駆けていた。
予鈴の鐘が鳴るのは、始業の15分前。
僕の家から学校までは、歩いて20分くらいかかる。
いつもなら十分間に合う距離なんだけど、今朝はあの降ってきた剣のせいで、1秒の余裕すらない。
「はっ、はっ、はっ……!」
僕は必死に足を動かす。
キングズベリーの大通りは、ロンディニア中心部に向かう通勤客でごった返していた。
石畳の上で、黒いコートに身を包んだ人々の靴音がカツカツと響き渡り、車道では2階建ての赤い
これまで、僕は無遅刻無欠席で貫いてきたのだ。
こんなところで皆勤メダルを逃してたまるか!
人混みの隙間をすり抜け、どんどん前に前にと進んでいく。
タッタッタッタッ!
しばらくして、ふと違和感を覚えた。
目の前の人波がまるで海が割れるように、どんどん左右に分かれていくのだ。
みんな何かを──僕の後ろにいる何かを恐れているような…。
嫌な予感がして、走りながらちらりと背後を振り返った。
僕のすぐ後ろをついてくるヴェロニカ。
黒い犬耳はピンと垂直に立ち、琥珀色の瞳は前方を鋭く見据え、薄い唇は一文字に固く結ばれている。
そして、眼が合う。
……ギロッッ!
……怖っっ。
彼女の無表情に慣れている僕でさえ、思わず背筋が凍りついた。
もはや雰囲気が硬いってレベルじゃない。
「デイリー・タイムズ!今朝の特報──っヒィィ!」
停留所で新聞を売っていた少年が、ヴェロニカと眼があった瞬間に悲鳴を上げて新聞をぶちまける。
それだけじゃない。
マフィン売りのおじさんも、花売りの少女も、マッチ売りの男も。
僕たちが横を通り過ぎるたび、後ろのヴェロニカに無言で威嚇されて、次々と腰を抜かしていく。
ちょっとヴェル、なにやってるの!?
ヴェロニカはちょっと過保護だ。
初めて出会ったときの経験を考えると、しょうがないけど…。
でも、もう少し殺気を抑える練習はしたほうが良いと思うな。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
いつもなら、ヴェロニカにもっと落ち着くよう言うのだけど、今は状況が状況だ。
彼女の殺気に当てられた人たちに、心のなかで謝りながら僕は必死に走り続けるしかなかった。
そうやって、割れた人波の間を走り抜けていると、鐘の音が聞こえてきた。
カン!! カン!! カン!! カン!!
学校の予鈴の鐘だ。
15分前よりも激しく鳴らされている。
……ということは、2回目の5分前の予鈴!?
「あぁっ。もう間に合わないかも……。」
思わず弱音が口からこぼれる。
少し先には、大きな交差点がある。
路面電車や馬車、オムニバスが大量に行き交う交差点だ。
今は通勤ラッシュだから、タイミングが悪ければすぐには渡れないだろう。
僕の通う学校は、その交差点を渡ったあと、路地を一本入ったところにある。
「お願い…!お願い…!」
どうか、すぐに渡れますように。
そんな期待を込めながら交差点へ走った。
でも、運は僕を助けてくれなかったみたい。
僕が交差点へたどり着いた、その瞬間。
真ん中に立っていた黒い制服の警察官が、無情にもにも目の前で両腕を水平に突き出した。
途端に、大量の車両が一斉に動き出す。
「そんなぁ……。」
いくらなんでも、この交通の洪水の中を突っ切ることはできない。
もう、学校に間に合うのは絶望的だ。
奇跡でも起きない限り…。
──神様、お助けください! ここを通らないと遅刻してしまうんです!
咄嗟に心のなかで神様に祈ってしまうくらいに、僕は追い詰められていた。
すると──。
『Ἐπιτελέσω τὴν εὐχήν σου.』
なんと言ったのかはわからない。
けれど、それはとても優しい響きで。
同時に、とても神々しい響きで…。
ドンッ!
「…えっ?」
気がつくと僕の身体は、まったく無意識に、思いっきり地面を蹴っていた。
さっきまで立っていた場所の石畳が粉々に砕ける。
そして僕の身体は、ものすごい勢いで空に飛び上がっていく。
「ご主人!?」
僕の背中の方で、ヴェロニカが聞いたことのない声で叫ぶ。
そんな声が聞こえたのもつかの間、僕の身体は完全に宙に舞っていた。
道路に設置された冥理灯のポールよりも、ずっと高い。
眼下には、車両でぎっしりと詰まった交差点とキングズベリーの街並みがある。
オムニバスの乗客も、交差点の警察官も、横断を待っていた人々も。
みんなの驚愕した顔が、やけによく見えた。
「っ、うわぁぁぁぁぁ!」
僕は叫ぶことしかできなかった。
身体はゆっくりとくるくると回転しながら、さらに高く上がっていく。
交差点どころか、角地の大きな建物を飛び越えてしまった。
このままどこまで上がっていくんだ。
そう思った瞬間、ふっと身体が止まった。
次の瞬間、今度は下へ落ち始めた。
「た、助けてぇ!下ろしてぇ!」
落ちるスピードはどんどん速くなっていく。
空気が顔を叩く。
僕は目をつぶった。つぶることしかできなかった。
頭に死という文字が浮かぶ。
やがて来るはずの衝撃を覚悟した。
……でも、その衝撃は訪れなかった。
閉じた瞼の向こうが、ふっと白く明るくなる。
同時に、猛烈だった落下の勢いが急激に弱まっていくのを感じた。
そして、ほとんど速度がなくなったところで――。
僕の両足が、ふわりと地面についた。
「……あれっ?」
ゆっくりと瞼を上げると、そこは僕の目的地、キングズベリー初等学校の鉄製のゲートの前だった。
★
結論から言うと、僕は先生が出席を取るのに間に合った。
なんなら、出席確認の前に行う朝の祈りと、讃美歌の斉唱にも間に合った。
「はい、では皆さん。石板を用意してください!」
エミリー・プレストン《Emily Preston》先生が教卓から声を張り上げる。
すぐに教室のあちこちで、石板と石筆を机の上に準備する音が響いた。
教室は段々畑のように、教卓に向けて床が低くなっており、長机と長椅子が置かれている。
天井も高い。
それでもプレストン先生の声は、広い教室の隅々までよく響いた。
「今日は、これより読本の第6章の書き取りを行います。全国試験も近いですし、きちんと綴りにも気をつけて書き取りなさいな。」
そう言うと、先生は一息いれてから、スラスラと文章を読み上げ始めた。
…カリカリカリカリ。
他の子たちは、必死に先生の文章を書き取っている。
でも僕は、フィルミナから読み書きの手ほどきを受けているのもあって、文字を書きながら少し考え事をする余裕があった。
──あれは、なんだったんだろうか?
交差点を飛び越え、宙を舞って。
気がついたら、学校のゲートの前に立っていた。
僕に、あんな身体能力があったのだろうか?
カリカリカリカリ…
さらに、その後のことを思い出す。
僕が門についてから30秒もしないうちに、ヴェロニカがものすごい速さで学校の前までやってきた。
肩で息をする彼女を見るのは、本当に初めてだった。
そして彼女は、いきなり僕をむぎゅっと抱きしめながら、こんなことを言った。
『今日は何か異常だ、ご主人!! 今すぐ家に帰ろう!』
家で「襲撃者が来るかもしれない」と主張してきた時以上に、必死になって僕を説得しようとしていた。
でも、遅刻ぎりぎりでなんとか学校の前までたどり着けた僕も意地になっていた。
入学してから一度も遅刻したことのない僕にとって、今ここで帰るなんて、とんでもない話だった。
「はい、石板を見せてください!見て回ります!」
先生の言葉を聞いて、教室の全員が書き終えた石板を胸の前に掲げる。
僕も慌てて石板を持ち上げる。
さっきのことを思い出しながら、少しため息を付く。
門の前での、僕とヴェロニカの話し合いは、完全に押し問答になっていた。
そうこうしているうちに、学校の門がギイギイと閉まっていく音がしていて、僕はこれ以上ないくらいに焦っていた。
そこで僕は、フィルミナがよく使う方法を思いついた。
「落とし所を見つける」というやつだ。
父さんもよく使っている、らしい。
──今日、もう一度おかしなことが起こったら、家に帰る。
そんな案を出して、必死に説得した。
ヴェロニカは、まるで血の涙でも流しそうな表情を浮かべ、犬耳を横へぺたんと倒しながら、
『絶対だぞ』
と念を押して、ようやく僕を離してくれた。
「アルフレッド、あなたの文字はしっかりと綺麗に書かれていますね! 皆もアルフレッドの文字をお手本にするように。」
いつの間にか僕の列まで回ってきていたプレストン先生が、僕の文字を褒めてくれた。
フィルミナが書く文字はものすごく整っている。
小さい頃から彼女に文字を教わった僕の字も、かなり評判が良い。
…でもまだ冥理記号を書き込める程には上手くはないんだよなぁ。
もっと練習しないと。
少し照れくさくなって、僕は教室の窓──かなり高い位置にある──へ視線をそらした。
すると。
窓の下端から、黒い犬耳が二つ。
ピコピコと動いていた。
──ヴェルって、やっぱり過保護すぎるんじゃないかなぁ。
折衷案の、そのまた折衷案を飲まされてしまったらしい犬獣人は、世界の果てまでも僕についてきてくれそうな勢いだった。