最近、奇妙な歌が聞こえてくるようになった。それは決まって海の近くを通るときに聞こえる。
それは女性のような声だった。まるで赤子を慰めるかのように慈悲深く、温かい。
「こんな港町で誰が歌ってるんだか」
多分これは私にしか聞こえない。以前、友達にそれとなく聞いてみたが、波の音しか聞こえないらしい。
ひょっとすると私にはさざなみが歌に聞こえてるかもしれない。
それはともかく、今日は遂に歌の大元を突き止めようと決意した。一つ分かっているのは、私が海に近づけば近づくほど歌は大きくなっていくということだ。
真冬の海。北風の力で海面は大きく唸り、生き物のような息遣いをしている。
冷たい風に磯の匂いが乗る。近づく度に歌はより鮮明に聞こえ始める。
それは言葉だった。何語かも分からない。聞いたこともない。ただ言葉だということは分かった。
歩いてる感覚も海の匂いも北風の冷たさも今は関係なかった。ただ歌の元へ向かう。海の底に引きずり込まれるかのように私は段々と海へ近づく。
——足に鋭い痛みが走る。我に返った私は足の方へ目を向ける。
足がくるぶしまで海に浸かっていた。
それ自体に恐怖はなかった。ただ歌に惹かれすぎただけだと知っているから。
「おやおやそこまで惹き込まれても踏みとどまれているのか」
聞いたことのある声だった。そうそれは当にあの歌声と同じ。
「あなたは誰?」
声の主は蛸だった。しかも下手な大型犬より大きかった。それがいきなり私の目の前に現れた。
「口はどこ?」と思うかもしれないがとにかく喋った。
「妾はワタツミ……まぁ好きなように呼ぶといい」
「じゃあ、タツミで」
「……逆に何でワだけ抜いたんじゃ?」
「女の子っぽいかなって」
「……まぁいいか。にしても珍しい。妾の歌が聞こえるなんて」
「綺麗な子守唄だった。誰の為に歌ってるの?」
「中々勘がいいのぅ。折角だ、見せてやろう」
そう言ってタツミは私の体を触手で掴み、海へ沈んだ。
私も引っ張られて下へ下へと沈む。
不思議と冷たさも息苦しさも感じなかった。
しばらくすると引っ張る勢いが弱まり、底に着く頃には触手からも解放された。
「ここは?」
「海の底……深海とお主らが呼ぶ所じゃよ」
上を見上げると、暗い青空のような水が見える。陽の光が届かない。何処か寂しい場所だ。
「じゃあ、あの人魂みたいなのは?」
そこには薄っすらと明るい球体たちがゆらゆらと動いている。小魚の群れのように球体たちは動く。
「……あぁ、アレは海で死んだ命。その成れの果てよ。アレらは慰めを求めてる。無碍に扱えば祟りとなるじゃろうよ」
「タツミはあの子たちの為に歌ってたの?」
「そうさね。本来はアレらにだけ聞こえるはずじゃったんだが……お主は海と波長が近い。神職の家の者か?」
「そうだよ。お父さんが神主」
「……丁度いい機会だ。聞いていくといい、散った者たちへの鎮魂歌を」
一瞬タツミの姿が美人な女の人に見えた。瞬きをする間もなく蛸の姿になったけど。
「〜♪」
浜辺で聞いた時よりそれは鮮明に聞こえた。魂が安らぐようなそんな歌だ。冷たい深海に居るはずなのに何故か温かい。
人生の中で一番すごかったと言える。同じような体験はもうできないと。でも、それでもタツミの歌を全て聞くことはまだできていない。
死した魂たちは舞う。それは慰められた喜びなのか、次の生への期待なのかは分からない。ただあの歌を聞いて、成仏しているのだろう。
そこまでの感動を私は得ていない。私の肉体そのものが魂にまで響く歌を遮っている。
無念だったろう、苦しかっただろう、生きたかっただろう。
そういう魂であるはずなのに、私はその魂たちが羨ましいと感じた。
歌は終わりへと近づく。近づけば近づくほど私の意識は遠くなっていく。
タツミは何か言った。
「またな」
そう聞こえた気がする。
気づけば浜辺で寝ていた。日が傾き、夜になりそうだ。
体のどこも濡れていなかった。寒いはずなのに深海での温かさが残っている。
特別なことはそれだけだった。もう歌は聞こえることはないだろうし、魂を見ることもない。今まで通りの日常だろう。
その日の夕食はかつおの刺身だった。美味しそうだった。
ふと深海でのことが頭に過る。そのまま両手を合わせて言う。
「いただきます」
何気なく口にしていた言葉だったが、今日は「これから食べる」という宣言以上の気持ちがあった。
私は生きてる。何もなければお婆ちゃんになるまで生きてるだろう。死ぬなんて自分にはまだまだ先のことだと思ってた。
意外と死は身近にある。それが知識ではなく、魂で理解できた気がする。
まぁ、こんな事を考えても明日には学校や友達のことで頭がいっぱいになるだろうな。
でも、まだ先だけど、もし「また」があるなら。
死ぬときは海がいい。そう思った。そしたらタツミの本当の歌が聞けるかもしれない。
そう思うと何だか可笑しなことだけど、死んだ後が楽しみになった。そう、それだけ。