天井の隙間から、乾いた砂粒がさらさらと落ちてきて鼻先を叩いた。
床に転がっていた。腐ちた木枠の匂いと、焦げた土の匂いが鼻をつく。上顎にベタリと固まった舌を引っ剥がすようにして、掠れた息を吐き出した。
「……ッ、が……」
自分の声とも思えない、くぐもった音が出た。喉が狂おしいほど乾いている。
身を起こそうとすると、全身の節々が痛んだ。身につけている長ランの袖はあちこち破れて砂にまみれ、ズボンも埃っぽい。手で頭に触れると、前髪がカチカチに固められた妙な形を保っていた。リーゼント頭だ。なぜだか分からないが、この髪型だけは絶対に崩しちゃならねぇという、妙に切実な意地のようなものが頭の奥底にあった。
記憶を探ろうと、頭の中に手を突っ込んで引っ掻き回してみる。だが、自分の名前も、ここがどこなのかも、綺麗さっぱり何も出てこなかった。
覚えているのは、たった一つだけ。
漆黒の空。
そして、どこまでも平坦に続く、白い砂。
それ以外のものは、何もなかった。どうしてそんな景色を知っているのかすら、まるで分からない。
「あ、目が覚めた?」
上から声が降ってきた。
そこに立っていたのは、膝のあたりまで届くシアンブルーの髪をした少女だった。ふんわりとしたウェーブがかかっていて、頭のてっぺんからは長いアホ毛がぴょこんと跳ねている。ダボついた緑のカーディガンを着ていて、腕や足のあちこちに絆創膏や包帯が巻かれていた。
「あ……」
喉の渇きとは何の関係もなく、顔面が一気に熱くなった。耳の裏まで血が上っていくのが分かる。柄にもなく、胸の奥がドクンと嫌な跳ね方をした。
「あ、ごめんね。驚かせちゃったかな。私、アビドス高等学校生徒会長の梔子ユメっていうの。君、砂漠の真ん中で倒れてたんだよ。お巡回中に見つけて、ここまで運んできたの。大丈夫? どこか痛む?」
金色の丸みを帯びたタレ目で、彼女が少し身を乗り出してきた。困り眉のまま優しく微笑む。柔らかな雰囲気がそのまま前に出てくる。頭上には二つの黄色いリング状とその中央に三角形の瞳の光輪が浮かんでいた。
「ひやぁっ!?」
情けない声を上げて、後ろへ弾かれたように跳ね退いた。背中が壁に激突し、埃が舞う。
「あわわ、ごめんね! いきなり近づいちゃって……!」
必死に呼吸を整えた。アビドス。砂漠。生徒会長。状況はちっとも飲み込めねぇ。だけど、記憶もねぇような不審なオレを、こんなボロボロの身体をした人が砂漠から引きずって運んでくれたことだけは分かった。
「オレは……ッ!」
床に両手を叩きつけ、額を痛いほど板に擦り付けた。
「オレの名前は、シシっす! シシって言うんす! あの……助けていただいて、本当に……本当に心から感謝いたしやすッ!」
「えっ、あ、うん。頭を上げてよ。困ってる人を助けるのは当たり前だからね」
「違ぇんす!」
頭を跳ね上げた。顔が真っ赤になっている自覚はあったが、引っ込める気にはならなかった。彼女の目と合って、また口の中が滑らなくなる。
「オレは……黒い空と白い砂くらいしか覚えてねぇバカなんすよ! だけど、恩を忘れるような人間じゃねぇ! ユメさん……いや、姉御! オレをあんたの第一の舎弟にしてくださいッ!」
「ええっ!? あ、姉御!? 舎弟!?」
「オレは本気っす! 姉御のためなら、オレはいつだってこの命を捨てられますから!」
言った瞬間、ユメさんの顔から困ったような苦笑いが消えた。彼女は静かにオレを見つめて、言葉を返してきた。
「命を捨てちゃ、ダメだよ」
「え……?」
「助かった命なんだから、大事にしてほしいな。それにね、どれだけ他人に利用されようとも、人助けをやめるべきじゃない……それが私の信念なの。だから、シシくんが私に感謝してくれるのは嬉しいけど、自分の命を粗末にするような言い方はしないでほしいな」
言い終えると、またいつもの頼りないような笑顔に戻った。
おっとりした見た目だが、中身には絶対に折れない分厚い芯が通っている。そう思った。
「……わかりやした。死ぬのはやめやす。でも、ユメさんのために働くのは絶対にやめねぇっす!」
「ふふ、頑固だなぁ。でも、ありがとね。シシくん」
その時だった。
「――ユメ先輩、誰そいつ」
低い声が、廊下の暗がりから滑り込んできた。刺さるような冷たさがあった。
そこに立っていたのは、ピンク色の髪をした小柄な少女だった。左右で色の違う瞳が、こちらを射殺すように見つめている。大きなパーカーを羽織り、肩には無造作に巨大なショットガンを担いでいた。
「あ、ホシノちゃん! お帰りなさい。この人ね、砂漠で倒れてたの。シシくんっていうんだよ」
ユメさんが取りなそうとしたが、ホシノと呼ばれた少女は足を止めず、肩の銃を水平に構えた。安全装置の外れる硬い金属音が響く。
次の瞬間、問答無用で引き金が引かれた。
ドゴォン!!
鼓膜を破るような炸裂音が室内を満たし、オレのすぐ足元の床板が木屑となって爆ぜた。
「ひぃやあああぁぁぁっ!?」
悲鳴を上げて壁にしがみついた。足元から焦げくさい硝煙が立ち上り、靴の端がわずかに削れている。脅しなんかじゃない、マジで撃ってきやがった。
「怪しい。どこから来たの。何が目的」
「ホ、ホシノちゃん!? いきなり撃っちゃダメだよ!」
「先輩は黙ってて!」
ホシノはユメさんの声を短く切って捨てた。その眼差しには、一切の隙も情も含まれていない。
「そうやってバカみたいに誰でも信じるから、アビドスがこんなことになってるんでしょ!? 記憶がない? そんな都合のいい嘘、信じるわけない。ヘイローもない、見たこともない格好の男。カイザーの刺客だったらどうするの!? 次動いたら、頭吹き飛ぶよ」
まっすぐに眉間へ向けられた銃口。その奥にある瞳は、完全に死んでいた。恐怖で膝が激しくガタガタと震え、歯の根がカタカタと勝手に鳴り出す。身体が硬直して動かない。本当に引き金を引く目だ。殺される、と本能が叫んでいた。
「ホシノちゃん、落ち着いて」
ユメさんが静かに一歩を踏み出し、オレと銃口の間にその背中を滑り込ませた。
「退いてください、先輩! 邪魔しないで!」
「ダメだよ。ホシノちゃんが不安になる気持ちも、学校を守ろうとしてくれてるのも分かる。でもね、疑うことだけで自分を守ろうとすると、大切なものまで弾き飛ばしちゃうよ。行くあてがないなら、ここに居ていいんだよ。困っている人を助けるのに、理由や資格なんていらないはずでしょ?」
「……っ! 先輩は、いつもそうやって……!」
ホシノは歯を食いしばり、ユメさんを睨みつけた。だがユメさんは退かない。ホシノは舌打ちをひとつ漏らすと、横に転がっていたオレの長ランの裾を、底冷えするような目で見下ろしながら踏みつけ、手加減なしに蹴り飛ばした。
「ぐふっ!?」
「……勝手にすれば。ただし、私は絶対に認めないから。少しでも怪しい動きをしたら、その瞬間に頭を撃ち抜く」
背筋が凍りつくような威圧感を残して、ホシノは踵を返して去っていった。
「はぁ……ごめんね、シシくん。ホシノちゃん、本当は悪い子じゃないんだけど、今すごく大変で……」
「い、いやぁ……本気で命の危険を感じやした……」
床にへたり込み、胸を押さえて荒い息を吐き散らした。命が幾つあっても足りねぇ。
そうして、オレのアビドスでの日々が始まった。
この学校の惨状は、素人目に見ても酷いものだった。校舎の半分以上は砂に埋没し、すでに途絶えた水道の管から稀に滲み出る泥水が掠れた音を立てるだけ。毎日のようにカイザーの息がかかった怪しい連中や、借金取りが周囲をうろついている。
オレにできることなんて、頭を使うことじゃない。肉体労働一択だった。
長ランの袖を乱暴に捲り上げ、壊れた竹箒を持って廊下に吹き溜まった砂をひたすら外へ掃き出した。スコップを突きたてて埋もれた旧校舎のドアを掘り起こし、廃材置き場から拾ってきた廃板や折れた角材をかき集めてグラグラ揺れる壁に打ち付け補修した。崩れかけた天井を支える木枠を組み立てた。胸の奥に渦巻く不甲斐なさを振り払うように、ひたすら腕を動かした。
そうやって作業を続けていくうちに、自分の体の異常さに嫌でも気づかされることになった。元の世界で喧嘩に明け暮れていた頃も、タフさだけには自信があった。だが、今の体はあきらかにおかしい。
数百キロはある砂袋や崩れた石垣の破片を、一人で担ぎ上げることができた。手の皮がベロリと剥けて血が滲んでも、半日も経てば何事もなかったかのように塞がってしまう。キヴォトスなんていうこの妙な場所に来た影響なのか、自分の体がバカみたいに頑丈になっている事実に戸惑いながらも、オレは自分のこのタフさだけに縋ることにした。
だけど、どうしても慣れないものがあった。銃だ。
遠くの砂漠から銃声がパパンと響くだけで、「ひゃいっ!?」と情けない悲鳴を上げて物陰に飛び込み、膝を抱えてガタガタと震えた。銃火器の前に出たら終わりだという恐怖だけは、どれだけ体が頑丈になろうが拭えなかった。戦うなんて到底無理だ。オレにできるのは、静かな校舎の隅でひたすら砂を掻き出し、金づちを振り下ろすことだけだった。
ホシノのオレに対する視線は、一向に柔らかくならなかった。
オレがどれだけ砂を運び出そうが、壁を治そうが、遠くから射殺すような冷酷な目を向けてくる。廊下ですれ違いざまに声をかけても無視されるか、「邪魔」「視界に入るな」と吐き捨てられるだけだ。意図的に強くぶつかられ、床に転がされることも日常茶飯事だった。
それでも、作業を投げる気にはなれなかった。ホシノのあの刺々しさが、この廃れかけた学校とユメさんを守ろうとする、余裕のない必死さから来ているものだと分かっていたからだ。自分を突き放すような態度を取られるたび、オレの胸の奥には焦燥感と不甲斐なさが渦巻いた。役立たずの自分に対する苛立ちが、砂を掃く手を自然と速くさせた。ユメさんが自分の怪我も顧みず学校のために動いている姿を見るたび、何もできない自分が情けなくて仕方がなかった。オレにできることと言えば、せいぜいこの重い体を使って泥をかぶることくらいだ。だからせめて、この二人が少しでも動きやすくなるようにと、ただ黙々と手を動かし続けた。
事件が起きたのは、ある夜のことだった。
月明かりだけが頼りの薄暗い廊下で、オレが一人黙々と砂を外へ掻き出していた時だ。
ガシャン!!
窓ガラスが派手に割れる音が校舎内に響き渡った。
「へっへっへ! この廃校舎、まだ使える備品が残ってんじゃねえか!」
ダサいヘルメットをかぶった怪しい集団――ヘルメット団の連中が、銃を手にゾロゾロと廊下へ雪崩れ込んできた。
その先には、夜間の見回りを行っていたユメさんとホシノがいた。二人は抱え込むようにして、小さな木箱を守っている。アビドスの過去の思い出が詰まっているという、二人が大切にしていた箱だ。
「ユメ先輩、下がって!」
ホシノが前に出ようとした、その瞬間だった。
「邪魔なんだよ、ガキが!」
ヘルメット団の数人が、同時にサブマシンガンの引き金を引いた。
ダダダダダダダダンッ!!
暗闇の中で閃光が弾け、鼓膜を裂くような連射音が轟く。ホシノの持つ盾のカバー範囲をすり抜けるように、大量の銃弾がユメさんとその腕の中の木箱へ向かって一直線に飛んでいった。
「ひやぁぁぁぁっ!?」
銃声を聞いた瞬間、脳みそが恐怖で真っ白になった。心臓がぎゅっと縮み上がり、足の力が抜けて倒れそうになる。ガタガタと全身が震え、その場にくぐもる事しかできないはずだった。
だが――ユメさんの姿が視界に入った。
身体が、勝手に動いていた。
理屈も恐怖も置き去りにして、地面を強く蹴っていた。
「させねぇぇぇぁぁっ!!」
銃弾が交差する死の射線上へ、己の体を投げ出すように飛び込む。
バババババンッ!!
「ぐあぁぁぁぁっ!?」
背中、肩、脇腹に、焼けつくような激痛が走った。重い鉄の塊が皮膚を破り、肉になだれ込んでくる感覚。本物の銃弾だ。衝撃で口から血が噴き出し、視界が真っ赤に染まる。
痛ぇ。死ぬほど痛ぇ。恐怖で全身の細胞が悲鳴を上げていた。
けれど、オレは歯を食いしばり、背中をまるめてユメさんとホシノ、そして木箱を覆い隠すように覆いかぶさり続けた。床に膝を叩きつけながら、絶対に倒れまいと踏ん張った。
「シシくん!? ダメ、退いて!!」
「退けるわけねぇだろぉぉぉっ!! 姉御の宝物を……あんたらが守ろうとしてるアビドスを……壊させ直してたまるかぁぁぁぁっ!!」
喉の奥から血と叫びを吐き散らす。キヴォトスに来てからの異常な肉体のタフさと、元からのクソみたいな喧嘩の根性だけを絞り出し、弾丸の雨を背中で受け止めた。
「ホシノさん! 姉御と箱を持って……後ろへ下がってくれっ!!」
オレの背中の下で、ホシノの双眸が激しく揺れているのが見えた。冷酷だったその瞳に、信じられないものを見るような動揺と驚愕が走っていた。
ホシノは即座に察し、ユメさんの体と木箱を片腕で抱えると、弾くように後方へ跳び退いた。
「……よくも、やってくれたね」
低い、本物の怒りを孕んだホシノの声が聞こえた。
彼女がショットガンを一閃させると、凄まじい砲撃音とともにヘルメット団の連中は一瞬で廊下の奥へ吹き飛んでいった。
二人の無事を確認した瞬間、緊張の糸がぶつりと切れ、オレの視界は真っ暗になった。
◇
目を覚ますと、天井の木目が見えた。
保健室のベッドの上だった。全身が包帯でぐるぐる巻きにされており、少し動くだけで激痛が走る。だが、体の中で何かが急速に傷を修復している感覚があった。本当に気味が悪いほどの頑丈さだ。
枕元には、ユメさんが座っていた。膝の上に手を置き、心配そうにこちらを見つめている。部屋の隅には、傷ひとつなく無事なあの木箱が置かれていた。
その時、ガラリとドアが乱暴に開いた。
入ってきたのはホシノだった。肩にショットガンを担ぎ、相変わらず不機嫌そうな顔をしている。
ホシノは無言でベッドの脇まで歩いてくると、懐から小さなガラスの小瓶を取り出し、ソッポを向いたままオレの胸元へポイツと投げ放った。
「……傷薬」
ホシノは冷たい声で言った。
「勝手に身代わりになって怪我して、バカみたい。先輩を庇って目の前で死なれたら後味が悪いし迷惑だから、それ使えば」
「え……」
「勘違いしないでよ。助けられたからって、認めたわけじゃないから。邪魔したら次こそ頭撃ち抜く」
それだけ吐き捨てると、ホシノは素早く踵を返し、廊下へ出て行った。
胸の上に転がった小瓶を手で握りしめる。ガラスはひんやりと冷たかった。けれど、最初に出会った時のように、オレの眉間を射抜いていた殺気はもうどこにもなかった。
黒い空と、
白い砂の記憶しかない自分。
けれど、ここには守るべき日常があった。命を救ってくれた大切な姉御がいて、不器用すぎる仲間がいる。
「姉御」
「なに? シシくん」
「オレ……何があっても、姉御とアビドスを守り抜きやすッ!」
ユメさんはいつもの困り眉のまま、大らかな笑みを浮かべて頷いた。
「うん。頼りにしてるよ、シシくん」
窓の外を見上げると、雲ひとつない青空がどこまでも広がっていた。