僕は、少しだけ緊張していた。
いや、少しだけなんて格好をつけた言い方をしたけれど、本当は心臓がうるさいくらい鳴っていた。
胸の奥で脈打つ音が耳の裏まで響いている気がして、何度も深呼吸を繰り返す。息を吸って、吐いて、それでも落ち着かない。手に握った荷物は大した重さじゃないはずなのに、汗ばんだ手のひらにじっとりと張り付いて離れなかった。
今日から、僕は誰かと暮らす。
それも、女性と。
冒険者になって数か月。田舎では考えもしなかった生活が始まろうとしていた。
僕は数か月前、夢だけを抱えて故郷を飛び出した。
冒険者になれば稼げる。強くなれば名声も手に入る。
そんな子供みたいな期待を胸いっぱいに抱いて王都へ来たものの、現実は想像よりずっと厳しかった。
幸運にも、そこそこ名の知れたクランの末席に入れてもらうことはできた。
それだけでも運が良かったと今では思う。
所属していない新人には依頼そのものが回ってこない。依頼を受けられなければ実績もできない。実績がなければ信用されない。
新人冒険者は、最初の一歩を踏み出すことすら難しい世界だった。
だから報酬の三割をクランへ納める規則にも文句は言えない。
仕事をもらえるだけありがたい。
そう頭では理解している。
けれど生活は別問題だ。
食費、装備の修繕費、薬代、宿代。
依頼を終えて財布の中身を数えるたび、「あと何日もつだろう」と考える生活だった。
まともな宿には泊まれず、一番安い大部屋で知らない冒険者たちと肩を寄せ合って眠る夜も少なくない。
荷物を盗まれないよう抱きしめて寝るのにも慣れた。
そんな僕を見かねたのが、ルミナ先輩だった。
「住む場所困ってるんだろ?」
依頼帰り、酒場で夕飯代を節約して固いパンを齧っていた僕に、彼女は何気ない調子でそう言った。
「まあ……はい。」
「いい宿知ってる。」
それだけ言って、彼女は笑った。
ルミナ先輩は不思議な人だ。
低めで少しハスキーな声。
けれど刺々しさはなく、どこか眠たそうな響きがある。
黒髪の内側だけが鮮やかな紫色に染められていて、ウルフカットの髪型も相まって最初はかなり近寄りがたい印象だった。
初対面では「怒らせたら殺されそうだ」と本気で思ったくらいだ。
しかし話してみると、意外なほど面倒見がいい。
依頼中に上司へ見つからない休憩場所を教えてくれたり、魔物の癖を細かく説明してくれたり、僕が失敗しても呆れながらフォローしてくれる。
実力も高い。
クランでも中堅以上と言われるだけあって、戦闘になると普段の気だるげな雰囲気が嘘みたいに鋭くなる。
自然と尊敬していた。
だから紹介された宿にも安心して来たのだけれど。
「……いや。」
建物を見上げて、僕は苦笑した。
「安すぎるだろ。」
古びた三階建て。
壁の塗装は所々剥げ、窓枠も少し傾いている。
立地だけは悪くないのに、周囲の宿より明らかに安い。
理由は聞いていた。
この宿は相部屋制を導入している。
家賃が安い代わりに、空いている部屋へ適当に同居人を入れるらしい。
冒険者なんて荒くれ者ばかりだ。
酒癖が悪い奴もいるし、金がなくなれば平気で盗みを働く奴もいる。
そんな人間と同じ部屋になる可能性があると思うと、正直かなり気が重かった。
その話をした時、ルミナ先輩は笑いながら肩をすくめていた。
「私も女一人で住んでるからさ。」
「危なくないんですか?」
「危ないよ。」
あっさり肯定された。
「そのうちガラの悪い冒険者が入ってきて、襲われるかも。」
冗談めかした口調だった。
笑いながら言うものだから、僕も笑うしかなかった。
「だからさ。」
彼女は続ける。
「どうせなら、お前来る?」
「……え?」
「私の部屋。」
まるで「今日昼飯食べる?」くらい軽い調子だった。
「家賃半分でいいし。」
「いやでも、僕、男ですよ?」
「知ってる。」
「その……」
「お前なら襲ってこないだろ。」
さらりと言われた。
「もし襲ってきても私の方が強いし。」
それもそうだった。
反論できない。
「逆に、お前が誰かヤバい奴と同室になる方が危なくない?」
「僕ですか?」
「うん。」
彼女は口元だけ笑う。
「可愛い顔してるし。」
「……。」
「そのうち犯されるかもね。」
けらけら笑う。
いつものように人をからかう調子だった。
僕は耳まで熱くなる。
「や、やめてくださいよ。」
「冗談。」
本当に冗談なのか分からない笑顔だった。
結局、そのまま大家に事情を説明し、契約は驚くほどあっさり済んだ。
同居自体は珍しくないらしい。
鍵を受け取る。
掌に乗る小さな真鍮色の鍵。
その重みが、不思議と現実味を帯びて感じられた。
女の人と二人暮らし。
人生でそんな経験をするなんて思ってもいなかった。
廊下を歩く。
古い木造建築らしく床板がぎしぎし鳴る。
夕方の西日が細い窓から差し込み、廊下を橙色に染めていた。
静かだった。
静かすぎて、自分の足音だけがやけに響く。
部屋番号を確認する。
ここだ。
荷物を持ち直す。
何を話そう。
「今日からよろしくお願いします」でいいのか。
改めてお礼も言わないと。
変な空気になったらどうしよう。
生活リズムが違ったら。
寝相が悪かったら。
女性相手だから気を遣わせてしまうかもしれない。
そんな取り留めのない考えが頭をぐるぐる回る。
今になって急に緊張が押し寄せてきた。
僕は小さく息を吐き、意を決して拳を持ち上げる。
コン、コン。
控えめに扉を叩いた。
返事はなかった。
留守だろうか。
そう思った瞬間。
部屋の向こうから、何かが床へ倒れる鈍い音がした。
ガタン。
続いて、ガラスの転がる乾いた音。
そして少し遅れて、小さく舌打ちするような声が聞こえた。
「……あー、最悪。」
いつもの気の抜けたルミナ先輩の声。
けれど、その声音はどこか掠れていて、妙に力がなかった。
僕は無意識に眉をひそめる。
「先輩?」
「あ、ごめん。今開ける。」
足音が近づいてくる。
その歩幅は妙にゆっくりで、床を擦るような音が混じっていた。
やがて、鍵が回る音がして。
扉が、ゆっくりと開いた。
そこで出てきたルミナ先輩はひどい有様だった。
服は開け、だらしなく素肌を晒している。
目には多重のくまがあり、タンクトップを来ているからか腕にポツポツとついている赤い点が目立っていた。
自分はそれが何かよくわからなかったので、最初は見て見ぬふりを貫いていたが、床に無造作に転がっている注射器を見て、それが最近冒険者の中ではやっている違法ドラッグであるということに気づいた。
扉を開けたルミナ先輩は、いつものように眠たげな笑みを浮かべていた。
けれど、その笑みはどこか緩みすぎていた。
焦点の合わない瞳。
頬はほんのり赤く、口元は締まりなくだらしなく緩んでいる。
「あー……悪い悪い。」
へら、と笑う。
「お前来るって分かってたらさぁ、もうちょい片付けとくべきだったなぁ。」
そう言いながら、彼女は右手に持っていた注射器を何の躊躇もなく部屋の隅に置かれたごみ箱へ放り投げた。
軽い音を立てて、中に落ちる。
その瞬間、僕の思考が止まった。
注射器。
一本じゃない。
ごみ箱の中にも。
床にも。
机の下にも。
ベッドの脇にも。
透明な筒が何本も何本も転がっている。
数える気にもなれない。
床には吐瀉物を拭いたような黒ずんだ跡が残り、部屋の空気は湿っていた。
窓はいつから閉め切っているのだろう。
薬品特有の甘ったるい臭いと、汗と、吐瀉物が混ざった重い空気が肺へまとわりつく。
息を吸うだけで胃がひっくり返りそうだった。
目の前に立っているのは、僕が知っているルミナ先輩とは別人だった。
いや。
別人ではない。
依頼では誰よりも冷静で、仲間を助けて、酒場では「酒飲みは嫌い」と笑っていたあの人だ。
酒だけは絶対に飲まない人だった。
クランの飲み会にも一度も参加しない。
誘われても、
「酒臭い場所嫌い。」
そうだけ言って帰ってしまう。
噂では、幼い頃に酒乱の父親から暴力を受け続けたらしい。
だから酒だけは嫌いなのだと聞いていた。
僕も、それ以上は聞かなかった。
聞いてはいけない気がしたから。
でも。
酒を嫌う人が。
こんな部屋で。
こんな量の注射器に囲まれて笑っている。
理解できなかった。
理解したくなかった。
思わず僕の表情が強張る。
そのほんの僅かな変化を、先輩は見逃さなかった。
へらへら笑っていた表情が、一瞬で凍りつく。
肩が震えた。
瞳孔が開く。
僕を見ているはずなのに、まるで僕の向こう側に誰か別の人間を見ているようだった。
「……あ。」
かすれた声が漏れる。
「ご、ごめ……」
後ずさる。
壁に背中をぶつける。
「ごめんなさい。」
もう一度。
今度は少し大きな声で。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。」
その言葉は僕へ向けられたものではなかった。
もっと昔。
もっと深い記憶へ向けて叫んでいる。
「何でもします。」
震える声。
「殴らないで……。」
涙が零れる。
「体、触っていいから……だから、ごめんなさい……。」
息が止まりそうになった。
この人は。
今、この部屋を見ているんじゃない。
僕を見ているんでもない。
子供の頃へ戻っている。
恐怖だけで身体が動いている。
ルミナ先輩は、震える手で注射器を握りしめた。
「先輩、駄目です!」
叫び声は届かない。
彼女は焦点の合わない目のまま、何かに追い立てられるように注射器を首筋に突き刺した。
次の瞬間だった。
「あ、ぁ……お゙っほ」
喉の奥から、喘ぎ声とも悲鳴ともつかない音が漏れる。
膝が折れ、身体が糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちた。
そのまま全身がびくりと大きく跳ねる。
指先が意思とは無関係に痙攣し、床板を掻きむしる。
呼吸は浅く、不規則になり、吸おうとしても空気がうまく入らないように喉がひゅう、と鳴った。
苦しそうに口を開くたび、唾液が糸を引き、荒い息遣いだけが狭い部屋に響く。
「せ、先輩!」
返事はない。
瞳は僕を見ていない。
何か恐ろしいものを見ているように虚空を見つめたまま、涙だけが頬を伝っていく。
腕を押さえようとしても、身体は小刻みに震え続ける。
寒さに凍えているようでもあり、熱にうなされているようでもある。
唇は震え、歯がかちかちと鳴った。
「いや……いや……。」
掠れた声。
それは僕への言葉ではなかった。
「ごめんなさい……。」
誰かに許しを請うように、何度も同じ言葉を繰り返す。
呼吸は乱れ、涙と汗で髪が頬に張りついている。
さっきまで無理に浮かべていた笑顔は跡形もなく消え失せ、そこにいたのは強い冒険者でも頼れる先輩でもなかった。
ただ、恐怖と薬に心身を食い潰され、助けを求めることすら忘れてしまった、一人の壊れた人間だった。
部屋に転がる無数の注射器が、その光景を無言で見つめていた。
震えは、前触れもなく止まった。
まるで糸が切れた操り人形のように、ルミナ先輩の身体から一瞬で力が抜ける。
部屋は静まり返った。
「……先輩?」
返事はない。
ゆっくりと俯いていた顔が持ち上がる。
その動きはひどくぎこちなく、まるで誰か別の人間が中から身体を操っているようだった。
そして。
にぃ、と笑った。
いつもの笑顔ではない。
安心させる笑みでも、からかう笑みでもない。
口元だけが不自然に吊り上がり、瞳には何の感情も宿っていなかった。
「あは。」
乾いた笑い声。
それが少しずつ大きくなり、くすくすと肩を震わせる。
「変なの。」
何がおかしいのか分からない。
部屋には笑うような出来事など一つもない。
床には散らばった注射器。
鼻につく薬品の臭い。
涙で濡れた頬。
それなのに彼女だけが、まるで別の世界にいるようだった。
僕の顔をじっと見つめる。
いや、見ているようで見ていない。
視線は僕を通り越して、どこか遠くへ向いていた。
「……あれ。」
首をかしげる。
「お前、誰だっけ。」
数秒前まで普通に会話していたはずなのに。
その言葉に、背筋が冷たくなる。
「ルミナ先輩、僕です。」
「ふーん。」
興味がない、と言わんばかりの返事。
部屋の中を見回し、床に転がる注射器を見つけても、何も感じていないようだった。
「あー……また散らかってる。」
笑う。
「掃除しなきゃなぁ。」
その声色だけは、驚くほど穏やかだった。
けれど、その穏やかさが恐ろしい。
さっきまで怯え切っていた人と、目の前の人が同一人物だとは思えなかった。
恐怖も。
悲しみも。
羞恥も。
全部どこかへ置き去りにしてしまったような、空っぽの笑顔。
僕はようやく理解する。
薬は苦しみを消しているんじゃない。
苦しんでいる本人ごと、どこかへ押し流してしまうのだ。
目の前で笑っているのは、助かったルミナ先輩じゃない。
苦しみから逃げ続けるうちに、自分自身まで見失ってしまったルミナ先輩だった。
そこから先は、まさに戦場だった。
ルミナ先輩はしばらく現実と夢の境界が曖昧になったような状態で、さっきまで怯えて泣いていたかと思えば、次の瞬間には子どものように笑い出し、意味の分からない独り言を呟き続けた。
僕が何を話しかけても返事は噛み合わない。
水を渡せば笑顔で受け取るのに、それを机へ置いたまま存在を忘れてしまう。
立ち上がろうとしてはふらつき、何度も転びそうになるたびに慌てて支える。
そのたびに彼女は申し訳なさそうに笑って、
「ありがと、お父さん。」
なんて言うものだから、胸の奥がずしりと重くなった。
僕はお父さんなんかじゃない。
それくらい、ルミナ先輩だって分かっているはずなのに。
それでも口から出てくる言葉は、きっと心のどこかに刻み込まれた過去の残骸なのだろう。
やがて彼女は力尽きたように静かになり、そのまま深い眠りへ落ちていった。
規則正しい寝息だけが部屋に響く。
ようやく一息つける。
……と思ったのも束の間だった。
「うわぁ……。」
改めて部屋を見渡して、思わず声が漏れる。
床には注射器が散乱し、飲みかけの水差しや空になった保存食の袋が転がっている。
窓は長いこと開けられていなかったらしく、空気はひどく淀んでいた。
吐瀉物も残っている。
これでは眠れる環境ではない。
僕は袖で鼻を押さえながら窓を開け放ち、部屋へ夜風を通す。
それだけで空気が少し軽くなった気がした。
それから床に散らばった物を一つ一つ拾い集めていく。
転がっていた注射器は触れないよう慎重に布で包み、ごみ箱の一か所へまとめる。
まだ中身が残っているものも混ざっていたので、間違えて踏まないよう別に寄せておく。
掃除をしているだけなのに、胸が苦しかった。
こんな生活を、ルミナ先輩は一人で続けていたのだろうか。
依頼では誰よりも頼もしい人だった。
新人の僕を気にかけてくれて、困っていれば助けてくれる。
その人が、家へ帰るとこんな部屋で一人きりになってしまう。
誰にも見せず、誰にも頼らず。
笑いながら「大丈夫」と言って。
その「大丈夫」の裏側が、これだった。
僕は掃除の手を止め、眠っている先輩を見る。
無防備な寝顔だった。
依頼中の鋭い表情も、いつもの気だるそうな笑みもない。
ただ、ひどく疲れ切った人の顔。
年齢よりずっと幼く見えてしまうほど、力の抜けた寝顔だった。
僕なんかに何ができるんだろう。
薬をやめさせることなんてできるないのかもしれない。
それでも。
今日から僕たちは同じ部屋で暮らす。
なら、少しくらいは支えになれたらいい。
そんなことを考えながら部屋を片付け終え、ようやく自分も眠ろうと二段ベッドへ目を向けた。
「……。」
固まった。
上段にはルミナ先輩の荷物が山積みになっていた。
服。
外套。
靴下。
そして、その中には洗濯前なのだろう下着まで無造作に混ざっている。
思わず顔が熱くなる。
「い、いや……。」
見なかったことにしよう。
勝手に触るのも失礼だ。
だからといって、あれをどかさなければ寝られない。
数秒間、本気で葛藤した。
けれど結局、僕にはその山へ手を伸ばす勇気はなかった。
「今日は……床でいいか。」
幸い毛布は一枚余っている。
枕だけ持ってきて床へ敷き、身体を横たえる。
木の床は想像以上に硬く、背中が少し痛い。
それでも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
眠る直前、ベッドから規則正しい寝息が聞こえる。
その音を聞きながら、僕は静かに目を閉じた。
この同居生活は、きっと思っていたよりずっと大変になる。
そんな予感だけが、胸の中に静かに残っていた。