朝、目を覚ました瞬間から最悪だった。
頭の奥で鐘を打ち鳴らされているような鈍い痛み。
瞼を開けるだけで世界がぐらりと傾き、胃の中では何かがせり上がってくる。
「……っ。」
思わず額を押さえる。
覚えていることは少ない。
昨日、ひどく取り乱したこと。
薬に手を伸ばしたこと。
そのあとは霧がかかったように曖昧だった。
まただ。
また記憶が途切れている。
嫌になる。
昔は「絶対にこんな人間にはならない」と思っていた。
酒を飲んで暴れ、家族を傷つけ、それでも翌朝には何も覚えていないと言い張る父親を、心の底から軽蔑していた。
――私はあいつとは違う。
そう言い聞かせてきた。
何度も。
何度も。
なのに、気づけば自分も「昨日何をしたのか思い出せない朝」を迎えている。
違う。
違うはずだ。
酒じゃない。
私は父親じゃない。
……本当に?
その問いだけは、胸の奥で何度も繰り返されるのに、答えは返ってこなかった。
重い身体を起こし、ベッドから足を下ろす。
柔らかいものを踏んだ。
「……ん。」
視線を落とす。
ラスだった。
そういえば昨日から一緒に暮らすことになったんだっけ。
床に毛布を敷いて、小さく丸くなって眠っている。
こんな硬い床でよく眠れたものだ。
私が上を散らかしたからか。
その事実を思い出しただけで、胸がちくりと痛んだ。
物音に気づいたラスがゆっくり目を開ける。
「……おはようございます、先輩。」
いつも通りの挨拶。
私は返事をしようとして、
「……っ。」
込み上げてきた吐き気に言葉を失った。
慌てて口元を押さえ、壁へ手をつきながら洗面台へ向かう。
吐き終えたあと、鏡を見る。
ひどい顔だった。
目の下には濃い隈。
髪はぼさぼさ。
肌は青白い。
これがクランで「頼れる先輩」と呼ばれている人間の姿なのかと思うと、笑うしかない。
部屋へ戻る。
いつもなら足の踏み場もないはずだった。
けれど今日は違った。
床が見えている。
窓も開いている。
空気まで入れ替わっていた。
「……え。」
一瞬、部屋を間違えたのかと思った。
「先輩。」
ラスが少し遠慮がちに笑う。
「昨日、散らかっていたので……勝手に掃除しちゃいました。」
胸が締め付けられた。
見られた。
全部。
あの部屋を。
あの生活を。
私が誰にも見せたくなかった、私自身を。
怒る資格なんてない。
恥ずかしいだけだ。
惨めなだけだ。
それなのに、ラスは責めるでもなく、呆れるでもなく、ただ「掃除しました」とだけ言った。
そんな優しさが、一番苦しかった。
井の中に残ったものをすべて吐き出すと、高い金をはたいて買った解毒と麻痺の魔法陣を探そうと床を漁る。
しかし、床に落としていたものが全てキレイになっているのを見て、慌ててラスの方を見ると、ラスは自分が掃除をしたという。
床に落ちていた魔法陣のありかを食い気味に聞くと、どうやら自分は今機嫌がすこぶる悪く威圧してしまったようで、ラスはビクビクしながら魔法陣は高そうだたので机の上に整理してあるという。
即座に机の上に積み上がった紙をあさり、その中から目的の魔法陣をひっつかむ。
そしてそれに魔力を流し、額に押し付けると、自分に解毒と麻酔のように感覚を鈍らせる軽い麻痺がかかり、頭痛も感じなくなった。
ようやく気分が落ち着き、部屋に戻るとラスが湯気の立つコップを差し出してくれた。
「水、どうぞ。」
「あー……ありがと。」
一口飲むだけで、乾き切っていた喉が少しだけ楽になる。
昨夜のことはほとんど覚えていない。
だから、恐る恐る聞いてみた。
「……そういえばさ。」
「はい。」
「なんで床で寝てたの?」
ラスは一瞬だけ困ったように視線を泳がせ、それから苦笑した。
「その……ベッドが使えなくて。」
「え?」
「上段に先輩の服がいっぱい置いてあったので……。」
そこでようやく思い出した。
「あ。」
昨日、洗濯物を取り込んで、そのまま放りっぱなしだった。
しかも下着まで混ざっていた気がする。
顔が熱くなる。
「ご、ごめん。」
思わず頭をかいた。
「もしかして、えっちな気分になっちゃった?」
できるだけいつも通りの調子で笑う。
軽く。
何でもないことみたいに。
これくらいなら、いつもの私だ。
ちゃんと笑えている。
ちゃんと先輩らしく振る舞えている。
そう思った。
ラスも安心したように笑い返してくれたから。
――よかった。
いつもの私に戻れた。
そう、私は勘違いしていた。
ラスは笑っていた。
けれど、その瞳の奥には昨夜見たものを忘れられない人間だけが浮かべる、不安と戸惑いが静かに残っていた。
私は、その視線に気づけなかった。
……いや。
気づこうとしなかったのかもしれない。
話題を変えるように立ち上がる。
「よし。」
手を叩く。
「朝ご飯作るか。」
料理だけは昔から嫌いじゃなかった。
むしろ好きだった。
一人暮らしを始めてからは外食なんて贅沢できないし、自炊は自然と身についた。
昔から母は震えてばかりだったし、料理は自分の役目だった。
誰かに振る舞ったことはほとんどない。
でも、自分で食べる分なら結構うまいと思っている。
台所へ向かい、冷蔵庫を開く。
昨日買っておいた肉。
野菜。
まだ使えそうだ。
包丁を握る。
不思議なことに、料理をしている時間だけは頭の中が静かになる。
肉を切る。
火をつける。
油が弾ける音。
立ち上る香り。
ソースを絡める。
その一つ一つの作業を繰り返していると、自分がまだ普通の人間でいられる気がした。
背後から視線を感じる。
振り向くと、ラスが少し離れたところでこちらを見ていた。
「腹減った?」
「……ちょっと。」
照れくさそうに笑う。
その反応が妙に年相応で、思わず笑ってしまった。
「男の子だもんね。」
育ち盛り、なんて歳でもないだろうけど。
やっぱり男はよく食べるイメージがある。
皿へ盛り付け、テーブルへ運ぶ。
「はい、どうぞ。」
「いただきます。」
ラスは料理を前にして少し緊張していた。
そういえば、一人暮らしだって言ってたっけ。
女性の手料理なんて、ほとんど食べたことがないのかもしれない。
遠慮がちに一口。
咀嚼する。
そして。
「……おいしいです!」
ぱっと顔を輝かせた。
「本当に!」
そのまま勢いよく食べ始める。
夢中になって口へ運び、幸せそうに頬張る姿は、見ているこっちまで少し嬉しくなる。
「そんなに?」
「はい!」
「そっか。」
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
誰かがおいしいと言ってくれる。
たったそれだけのことなのに。
こんなにも嬉しかったなんて、忘れていた。
私はフォークでサラダを少しつつく。
肉には手を伸ばさない。
胃はもう落ち着いているはずなのに、食欲だけは戻ってこなかった。
……そういえば。
最後にまともな食事をしたの、いつだったっけ。
思い出そうとしても、記憶は曖昧なままだった。
だから私は、何事もなかったように笑いながら、野菜をゆっくり噛み続けた。
食器を洗い終えると、私たちは支度を済ませて部屋を出た。
昨日まで一人で歩いていた道を、今日は二人で歩く。
それだけのことなのに、どこか落ち着かなかった。
ラスは隣を歩いている。
昨日と変わらないように見える。
……いや、違う。
変わっていないように振る舞ってくれているだけだ。
そんな考えが頭をよぎる。
私はすぐに首を振った。
考えるな。
いつも通りだ。
私は頼れる先輩。
ラスは新人。
それでいい。
余計なことを考え始めると、また昨日みたいになる。
そんな気がして、私は無理やり思考を切り替えた。
ギルドへ到着すると、朝から冒険者たちの活気で溢れていた。
依頼を受ける者。
討伐から戻り報酬を受け取る者。
酒臭い息を吐きながら夜勤明けらしい顔で歩く者。
いつも通りの景色。
その中をラスと並んで歩く。
「あれ?」
「ルミナ、今日は男連れか?」
「とうとう彼氏できた?」
「新人食っちまったのか?」
案の定、野次が飛ぶ。
朝から元気な連中だ。
私は肩をすくめる。
「残念。こいつ家賃折半要員。」
「夢がねぇ!」
「現実的すぎるだろ!」
どっと笑いが起こる。
いつものやり取り。
私も適当に笑って受け流す。
……その横でラスが耳まで赤くしているのを見て、少しだけ面白くなった。
「照れてる。」
「ち、違います!」
「違わない違わない。」
肘で軽く小突く。
ラスは慌てて否定している。
その反応を見ると、少しだけ安心した。
昨日と同じラスだ。
少なくとも表面上は。
受付を済ませ、依頼掲示板へ向かう。
大量の依頼書が隙間なく貼られた掲示板を眺める。
「……あ。」
目に留まる紙があった。
南方森林地帯。
レッサードラグーンのスタンピード。
討伐推奨人数、四~六名。
危険度はそれなりだが、個体自体はそこまで強くない。
数が問題なだけ。
私は自分とラスのギルドカードを見比べる。
「ランク、足りるね。」
「本当ですか?」
「うん。」
必要討伐ランクには、単独だけでなくパーティー合算でも挑戦できる依頼がある。
私とラスなら条件を満たしていた。
「これ行こう。」
「はい!」
ラスの表情が少し明るくなる。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。
受付で依頼を受理し、南方行きの魔導バスへ乗り込む。
窓際へ腰掛ける。
街並みがゆっくり流れていく。
「そういえばさ。」
私はいつもの調子で話しかけた。
「昨日床で寝てたから腰痛くない?」
「……少しだけ。」
「だろうね。」
笑う。
「今度はちゃんと片付けとく。」
「お願いします。」
「善処します。」
「善処なんですね。」
「うん。」
普段なら、この辺りでもっと言い返してくる。
照れたり。
困った顔をしたり。
そんな反応が返ってくるはずだった。
でも今日は違う。
返事は返ってくる。
笑ってもいる。
なのに、どこか上の空だった。
視線が窓の外へ向く時間が長い。
何か考え事をしている。
私は冗談を重ねる。
「もしかして昨日私の寝顔見て惚れた?」
「違います。」
「即答。」
「そこだけは即答です。」
「ひど。」
ちゃんと返してくれる。
でも。
やっぱり違う。
笑顔の奥に、何か引っかかっている。
昨日、私は何をしたんだろう。
何を見せたんだろう。
思い出せない。
思い出せないのが、怖かった。
聞けばいい。
そう思う。
でも聞けない。
答えを聞いてしまったら、昨日の自分を知ってしまう気がした。
だから私は、どうでもいい話を続けるしかなかった。
天気のこと。
昨日食べた保存食がまずかったこと。
ギルドの受付嬢が新しい髪型になっていたこと。
そんな、本当にどうでもいい話。
ラスも相槌を打ってくれる。
優しい子だ。
優しいからこそ、私を気遣って何も言わない。
……その優しさが、少し苦しかった。
やがてバスが大きく揺れ、目的地へ到着する。
森へ降り立つと、空気が一変した。
遠くから何度も咆哮が響く。
木々は何本も薙ぎ倒され、地面には鋭い爪痕が刻まれている。
まだ終わっていない。
スタンピードは継続中だ。
茂みの向こうで、緑色の巨体が何頭も走り回るのが見えた。
レッサードラグーン。
群れで行動する中型竜種。
普段なら一頭ずつ相手にすればいい。
だが、群れになれば話は別だ。
私はゆっくりと剣を抜く。
鉄が鞘を擦る澄んだ音が森へ響く。
さっきまで胸を締めつけていた重苦しい感情が、すっと遠ざかっていく。
代わりに身体へ染み込んでくるのは、長年染みついた戦闘の感覚だった。
私は剣を肩へ担ぎ、ラスへ笑いかける。
「じゃあ、仕事しよっか。めんどくさいけど」
ラスも剣を構え、小さく頷く。
「はい。」
私たちは同時に地面を蹴った。
――狩りの時間が始まる。
森へ一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
木々の隙間から何頭ものレッサードラグーンが駆け回る姿が見える。
体長は二メートルほど。
飛竜と呼ぶには小柄だが、人間よりは遥かに大きい。
緑色の鱗に覆われた身体は硬く、剣で適当に斬った程度では刃が滑る。群れで狩りをする習性があり、一頭一頭はCランク程度でも、数十頭が集まれば町一つを壊滅させることすらある。
その咆哮が森中へ響き渡っていた。
「三十……いや、四十はいるか。」
私は小さく呟く。
スタンピード。
魔物が異常繁殖し、一斉に行動を始める現象。
放置すれば近くの村は数時間ともたない。
「ラス。」
「はい。」
「いつも通り。」
「了解です。」
短いやり取りだけで十分だった。
私は剣を抜く。
ラスは背中の長弓へ手を掛ける。
それだけで、お互いが何をするか理解していた。
私は前へ出る。
ラスは後ろから援護する。
それだけだ。
私が地面を蹴ると同時に、一頭のレッサードラグーンがこちらへ飛び掛かってきた。
鋭い牙。
前脚の鉤爪。
真正面から喉笛を狙っている。
遅い。
腰を落とし、刀身へ魔力を流し込む。
白銀の刃が淡く青白く輝く。
身体の奥から流れ出した魔力が刀身全体へ行き渡り、鋼そのものの強度を何倍にも引き上げる。
「──はっ。」
一歩。
踏み込む。
横薙ぎ。
甲高い金属音。
鱗が砕ける。
そのまま刃は勢いを失わず、魔物の胴体を真っ二つに叩き斬った。
血飛沫が舞う。
死体が地面へ転がるより早く、二頭目。
三頭目。
群れは仲間が死んでも止まらない。
むしろ血の臭いに興奮したように一斉に襲い掛かってくる。
「右から二頭!」
ラスの声。
考えるより先に身体が動く。
振り返るより早く矢が飛んだ。
一本。
二本。
風を裂く音。
正確すぎる射撃だった。
私へ飛び掛かろうとしていた二頭の目へ、ほぼ同時に矢が突き刺さる。
視界を奪われた魔物が大きく体勢を崩した。
「助かる。」
「前だけ見てください!」
頼もしい返事。
だから私は迷わない。
背中は見ない。
全部ラスが見てくれる。
地面を蹴る。
一頭の頭へ膝蹴りを叩き込み、その勢いで宙返り。
空中で身体を捻りながら刀を振り下ろす。
魔力を纏った刃が頭蓋を叩き割り、そのまま地面へ深々と突き刺さった。
着地。
休む暇はない。
左。
右。
後ろ。
四方八方から牙が迫る。
「ラス!」
「任せて!」
短く返事。
次の瞬間、雨のように矢が降り注ぐ。
一本一本が狙い澄まされている。
喉。
眼球。
口内。
硬い鱗ではなく、柔らかい急所だけを正確に撃ち抜いていく。
まだ若いのに、本当にいい腕だ。
おかげで私は躊躇なく前へ進める。
剣士にとって、一番怖いのは背後だ。
でも私は一度も振り返らない。
振り返る必要がない。
ラスがいるから。
「左の木!」
叫び声。
反射的に身を屈める。
頭上を巨大な影が通過した。
枝から奇襲してきたレッサードラグーンだった。
その腹へ矢が一本。
体勢を崩した魔物へ私はそのまま体当たりする。
「おおおおっ!」
刀身へ魔力をさらに流し込む。
刃が眩く光る。
思い切り振り抜く。
重い手応え。
骨を砕き、鱗を割り、肉を裂く感触が腕へ伝わる。
魔物は絶命した。
息を吐く暇もない。
また一頭。
また一頭。
数が多い。
倒しても倒しても終わらない。
それでも身体は軽かった。
戦っている間だけは、頭の中が静かになる。
父親のことも。
部屋のことも。
昨日の記憶も。
全部消える。
剣だけが残る。
それが少しだけ心地よかった。
「先輩!」
ラスの声に意識が戻る。
振り向く。
五頭。
いや、六頭。
ラスを囲むように回り込んでいた。
しまった。
私が前へ出すぎた。
「動くな!」
全力で駆ける。
間に合わない。
距離が遠い。
レッサードラグーンが一斉に飛び掛かった。
その瞬間だった。
「──【貫け】!」
ラスが弦を引き絞る。
放たれた一本の矢が空中で淡く輝いた。
魔力だ。
矢へ魔力を纏わせている。
一本だったはずの矢が空中で軌道を変え、最初の一頭の首を貫く。
そのまま勢いを失わず二頭目。
三頭目。
四頭目。
五頭目。
次々と急所を撃ち抜きながら一直線に駆け抜けた。
最後の一頭だけが生き残る。
私はその懐へ滑り込んだ。
「終わり。」
横一閃。
魔力を纏った刃が首を切り飛ばす。
巨体が地響きを立てて倒れた。
森が静かになる。
風だけが木々を揺らしていた。
私は剣を肩へ担ぎ、振り返る。
「やるじゃん。」
ラスは肩で息をしながら苦笑した。
「先輩ほどじゃないです。」
「いや。」
私は笑う。
「今の援護、百点。」
新人だった頃は、私一人で全部戦おうとしていた。
誰も信用できなかったから。
でも今は違う。
ラスがいる。
背中を任せられる相手がいる。
その事実が、ほんの少しだけ嬉しかった。
──だが。
森のさらに奥から、地鳴りのような振動が響く。
木々が大きく揺れる。
さっき倒した群れとは比べものにならない数の咆哮が、森全体を震わせた。
私は思わず笑みを浮かべる。
「……本隊のお出ましか。」
ラスも弓を握り直す。
まだ狩りは終わらない。
むしろ、ここからが本番だった。
森の奥から響く咆哮は、一度では終わらなかった。
一つ。
二つ。
三つ。
まるで山そのものが唸っているような重低音が木々を震わせ、枝葉の隙間から無数の影が飛び出してくる。
「……冗談でしょ。」
私は小さく笑った。
ざっと見積もっても二十頭以上。
先ほど倒した群れが先遣隊だったのだろう。本隊はさらに密集し、一直線にこちらへ向かってくる。
「ラス!」
「数、多いですね。」
「いつも通りでいい。私が止める。」
「はい!」
私は一気に距離を詰めた。
先頭の一頭へ踏み込み、魔力を纏わせた刃を叩き込む。
鈍い衝撃。
骨が砕ける。
返す刀で二頭目を斬り払い、その勢いを殺さず三頭目へ回転斬りを放つ。
後方からはラスの矢が絶え間なく飛んできた。
私の死角へ回り込もうとした個体を撃ち抜き、飛び上がった個体の翼膜を裂き、群れの足並みを崩していく。
息が合っている。
まるで何年も組んできた相棒みたいだった。
「右!」
「任せろ!」
矢が飛ぶ。
私が斬る。
倒れる。
また次。
また次。
戦いは優勢だった。
――はずだった。
不意に、視界が揺れた。
「……あれ。」
一瞬だけ。
世界が滲んだ。
木々が二重に見える。
地面が波打っているようだった。
気のせい。
そう思って剣を振る。
刃は魔物を捉えた。
しかし、いつもの手応えがない。
浅い。
斬撃が甘い。
「先輩!」
ラスの叫びが聞こえた。
「大丈夫!」
そう返したつもりだった。
だが、自分の声は思ったより弱々しかった。
頭の奥が重い。
昨日から続く鈍い頭痛が、戦闘の熱で押し込められていただけだったのか。
それとも無理をした反動か。
視界の端が黒く染まり始める。
「まだ……いける。」
私は無理やり身体を前へ出した。
一歩。
二歩。
剣を振り上げる。
その瞬間だった。
ぐらり、と世界が傾く。
「っ……!」
足に力が入らない。
膝が折れる。
視界が真っ白になった。
耳鳴りだけが頭蓋の中で響き続ける。
まずい。
そう思った頃には、身体は地面へ倒れ込んでいた。
「先輩!」
ラスの悲鳴が聞こえる。
私は起き上がろうとする。
しかし腕が言うことを聞かない。
霞む視界の向こうで、レッサードラグーンが牙を剥いてこちらへ突進してくる。
避けられない。
ここまでか。
そう思った。
そのとき。
一本の矢が風を裂いた。
魔物の喉を正確に射抜き、そのまま勢いよく地面へ縫い留める。
さらに二本。
三本。
矢は止まらない。
まるで空そのものが矢を降らせているようだった。
「ラス……?」
彼の姿が見えた。
弓を構えたまま、一歩も引かずに立っている。
いつもの少し頼りない新人の姿ではない。
目だけが異様なほど静かだった。
「近寄るな。」
静かな声。
魔物へ向けたものとは思えないほど落ち着いていた。
レッサードラグーンが三頭同時に飛び掛かる。
ラスは呼吸を整える。
弦を引く。
放つ。
一射。
それだけで三頭の動きが乱れた。
急所を外してはいない。
だが殺し切るつもりでもない。
足を止めるための射撃。
「そこ。」
次の矢。
一頭の眼を射抜く。
怯んだ個体へさらにもう一本。
脳天を貫く。
無駄がない。
必要最低限の動きだけで、群れを確実に削っていく。
「嘘……。」
私は思わず呟いた。
こんな射撃、見たことがない。
普段のラスは、私を援護するために矢を放つ。
前衛を生かす射手だった。
でも今は違う。
一人で戦場全体を支配している。
木を盾にしながら位置を変え、接近される前に足を止め、止まった敵を確実に仕留める。
囲まれそうになれば地形を利用し、狭い獣道へ誘導して一列に並ばせる。
そして一直線に並んだ魔物を、一射で貫く。
冷静だった。
恐怖に飲まれていない。
いや。
恐怖を押し殺している。
その証拠に、矢をつがえる指先だけが小さく震えていた。
「まだ……!」
ラスは息を切らしながらも後退しない。
残り十頭。
八頭。
六頭。
一本一本の矢が、確実に数を減らしていく。
最後の三頭が同時に飛び出した。
ラスは大きく息を吸う。
そして。
「終われぇぇぇっ!」
渾身の一射。
放たれた矢は最初の一頭を貫き、その勢いのまま二頭目へ。
勢いを失ったところで三頭目の肩へ突き刺さる。
最後の一頭だけがなおも突っ込んでくる。
距離はあと数歩。
ラスは弓を捨てた。
腰の短剣を抜く。
震える手。
それでも逃げない。
「来い……!」
魔物が飛ぶ。
その瞬間、ラスは半歩だけ身体をずらした。
牙が肩をかすめる。
痛みに顔をしかめながらも、短剣を首の付け根へ深く突き立てる。
魔物は数歩もがき、やがて力なく崩れ落ちた。
森に静寂が戻る。
ラスはその場へ座り込み、大きく息を吐いた。
「……終わった。」
その声を聞いて、私もようやく全身の力が抜けた。
私は木にもたれながら、小さく笑う。
「勝った、か。」
ラスはこちらへ駆け寄る。
「先輩! 怪我は!」
「大丈夫……ちょっと情けないだけ。」
私は苦笑した。
「助けられちゃった。」
ラスは首を横に振る。
「違います。」
その表情は、少しだけ大人びて見えた。
「いつも先輩が守ってくれたからです。」
「今日は、僕が守れました。」
その言葉に、胸が締め付けられる。
嬉しかった。
誇らしかった。
そして少しだけ悔しかった。
頼れる先輩でいたい。
そう思っていたのに。
今日、守られたのは私の方だった。
それでも。
目の前で照れくさそうに笑うラスを見ていると、その悔しささえ、どこか温かいものへ変わっていく気がした。