宿へ戻るころには、空はすっかり茜色へ染まっていた。
討伐自体は成功。
ギルドからも高い評価をもらえるだろう。
それなのに、帰り道の足取りは重かった。
原因は隣を歩くルミナ先輩だった。
行きのバスでは窓の外を見ながら他愛ない話をしていた先輩は、帰りのバスではほとんど口を開かなかった。
座席へ深く腰掛け、片手で額を押さえながら目を閉じている。
時折、小さく眉をひそめる。
そのたびに胸が締め付けられた。
「……先輩、大丈夫ですか。」
「んー……まぁ、いつもの。」
そう言って笑おうとする。
けれど、その笑顔は弱々しく、いつもの余裕はどこにもなかった。
戦闘中、突然倒れた理由。
聞きたい。
でも聞いてはいけない気がした。
結局、そのまま二人とも黙って宿まで帰ることになった。
部屋へ入ると、ルミナ先輩は大きく息を吐く。
「……ちょっと、限界。」
そう呟きながら鞄をごそごそと漁り、数枚の魔法陣を取り出した。
慣れた手つきで魔力を流し、自分の額へ当てる。
淡い光が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
顔色は少しだけ戻ったようにも見えたが、辛そうな表情までは隠せていない。
「その間に、お風呂沸かしておきます。」
「ありがと。」
返事にも力がなかった。
ラスは急いで浴槽へ湯を張り、部屋へ戻る。
先輩は椅子へ腰掛けたまま、目を閉じて呼吸を整えていた。
「お風呂、入りましたよ。」
「……じゃ、お先。」
立ち上がる動きもどこかふらついている。
ラスは思わず支えようとしたが、先輩は軽く手を振った。
「平気平気。」
その言葉だけを残し、浴室へ消えていく。
扉が閉まる音を聞いてから、ラスは台所へ向かった。
朝はご飯を作ってもらった。
今日は自分が作る番だ。
田舎にいた頃、母親の手伝いで覚えた料理しかできない。
豪華なものじゃない。
焼いた肉に野菜を添えて、具だくさんのスープを作るくらいだ。
男飯と言われればそれまでだが、味だけは悪くない自信がある。
「先輩、喜んでくれるかな。」
そんなことを考えながら鍋をかき混ぜる。
部屋へ香ばしい匂いが広がっていく。
十分ほど経った。
そろそろ上がってくる頃だろう。
ラスは皿へ料理を盛り付ける。
二十分。
三十分。
それでも浴室から物音が聞こえない。
「……先輩?」
呼びかけても返事はない。
湯の流れる音だけが静かに聞こえてくる。
嫌な予感が胸をよぎる。
ラスは浴室の前まで歩き、軽く扉を叩いた。
「先輩、のぼせてませんか?」
返事はない。
「先輩?」
もう一度。
少し強めに叩く。
それでも返ってくるのは静寂だけだった。
鼓動が速くなる。
まさか。
戦闘中に倒れたことが頭をよぎる。
「先輩! 入りますよ!」
断りを入れてから、ゆっくり扉を開く。
脱衣所には脱ぎ捨てられた服が乱雑に散らばっていた。
ラスは視線を逸らしながら浴室へ向かう。
「先──」
言葉が止まる。
湯船の縁に寄りかかるようにルミナ先輩が座り込んでいた。
顔色は紙のように白い。
鼻先からは赤い雫が湯へ落ち、透明だった湯面へゆっくりと広がっていく。
「先輩!」
ラスは反射的に駆け寄ろうとした。
その瞬間。
ルミナ先輩が片腕を上げる。
制止だった。
震える指先で、自分へ近づくなと伝えている。
「……。」
唇が動く。
声にならない。
もう一度。
ゆっくりと口が動いた。
「タ……オル。」
掠れた声だった。
「は、はい!」
ラスは慌てて近くのタオルを取り、腕の届く場所へ差し出す。
ルミナ先輩は礼を言う余裕もなく、それを受け取る。
そして鼻元へ押し当てながら、もう片方の手で浴室の出口を指さした。
出ていてほしい。
そういう意味だと理解する。
「……分かりました。」
心配だった。
放っておける状態には見えなかった。
それでも、先輩は今も必死に「大丈夫だ」と振る舞おうとしている。
その最後の意地だけは踏みにじりたくなかった。
「何かあったら、すぐ呼んでください。」
小さくそう告げ、ラスは静かに扉を閉めた。
閉じた扉の向こうからは、水音だけが聞こえてくる。
部屋へ戻っても、料理の匂いはもう感じなかった。
時計の針が進む音だけが、やけに大きく耳へ響いていた。
十分ほど経った頃だった。
脱衣所の扉が静かに開く。
「ふぃ~……。」
湯気と一緒にルミナ先輩が姿を現した。
少し大きめのパジャマに身を包み、まだ乾ききっていない髪をタオルでわしゃわしゃと拭いている。
さっきまで紙のように白かった顔色もいくらか戻り、歩く足取りもしっかりしていた。
それだけ見れば、いつもの先輩だ。
「お待たせ。」
そう言って笑う。
その笑顔を見て、胸を撫で下ろしかけた。
「……あ。」
先輩は何かを思い出したようにこちらを見て、にやりと口角を上げた。
「そういえばさぁ。」
悪戯っぽい笑み。
「キミ、さっき浴室入ってきたよね?」
「え、あっ……!」
「見た?」
「ち、違います! 心配だっただけで!」
「あははは!」
肩を揺らして笑う。
「思春期だねぇ。」
「だから違いますって!」
からかわれる。
いつものやり取り。
いつもの距離感。
……のはずだった。
なのに。
ラスは笑い返せなかった。
違和感があった。
朝の笑顔とは違う。
朝は無理をして笑っていた。
昨日も無理をして笑っていた。
でも今は違う。
本当に楽しそうなのだ。
不自然なほど。
さっきまで浴室で苦しんでいた人とは思えないくらいに。
その落差が、かえって恐ろしかった。
「……先輩。」
「ん?」
「腕、見せてください。」
その一言で、先輩の笑顔が一瞬だけ固まる。
「なんで?」
「いいから。」
「やだ。」
その返事が早すぎた。
ラスは黙って手首を掴む。
「わっ。」
袖をめくる。
白い腕。
そして。
まだ赤みの残る、小さな注射痕。
それも一つではない。
ついさっきできたばかりの傷だった。
ラスの喉が詰まる。
「……また、使ったんですか。」
先輩は視線を逸らした。
「お風呂場にも隠してたんですね。」
「……。」
「さっき苦しかったのに。」
「……。」
「また誤魔化したんですか。」
返事はない。
ただ、口元だけが笑っている。
何も答えない。
笑ってごまかそうとしている。
「先輩。」
ラスは拳を握った。
「それじゃ何も変わらないじゃないですか。」
沈黙。
「苦しいことは分かります。」
「でも、それじゃ一瞬楽になるだけです。」
「また苦しくなって。」
「また使って。」
「その繰り返しでしょう?」
先輩は笑っていた。
いつものように。
へらへらと。
だからラスは、つい言ってしまった。
「……それじゃ。」
言葉が止まる。
でも、止まれなかった。
「それじゃ、先輩がいつも軽蔑してるアル中の人と同じじゃないですか。」
時間が止まった。
笑っていた先輩の口元から、すっと表情が消える。
「……ちがう。」
小さな声。
「先輩?」
「ちがう。」
もう一度。
今度は少し強く。
「ちがうっ!」
その叫びにラスは肩を震わせた。
「私は……!」
息が荒くなる。
「私はあんなやつじゃない!」
目が大きく見開かれる。
「私は違う!」
胸を何度も叩く。
「違う違う違う違う違う違う違う違う!」
呼吸が乱れる。
肩が震える。
視線はラスを見ていない。
もっと遠く。
もっと昔。
もう存在しない誰かを見ていた。
「私は……!」
喉が潰れそうな声で叫ぶ。
「違う!」
涙が零れる。
「私は……!」
息が吸えない。
言葉がまとまらない。
「私は……私は……私は……!」
頭を抱える。
爪が髪へ食い込む。
まるで頭の中から何かを掻き出そうとするように。
「嫌だ……。」
震える声。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。」
「私は……。」
声にならない。
「お父さんじゃない。」
その一言だけが、絞り出される。
ラスは息を呑んだ。
父親。
全部、そこへ繋がっていた。
薬も。
笑顔も。
怯えも。
全部。
「先輩。」
恐る恐る肩へ手を伸ばす。
その瞬間だった。
ぴたり、と震えが止まる。
静かすぎるほど静かに。
ルミナは顔を上げた。
涙で濡れた頬。
けれど、その瞳にはさっきまでの取り乱した感情はどこにもなかった。
あるのは、凍った湖のような冷たさだけ。
ラスをまっすぐ見つめる。
何の感情もない声で。
「……ふーん。」
少しだけ首を傾げる。
「キミも。」
乾いた笑みが浮かぶ。
「そんなこと言うんだ。」
その声は怒鳴り声よりも恐ろしかった。
責める声ではない。
悲しむ声でもない。
何かを諦め切った人間だけが出せる、底のない静けさだった。
ラスは動けなかった。
目の前にいるのは、いつも自分をからかう頼れる先輩のはずなのに。
その一瞬だけ。
まるで全く知らない誰かと向かい合っているような錯覚に陥り、背筋を這い上がる悪寒を抑えることができなかった。
部屋に、重たい沈黙が落ちた。
ラスは俯いたまま、小さく頭を下げる。
「……すみません。」
震える声だった。
「言ってはいけないことを言いました。」
ルミナは返事をしなかった。
怒っているのだろうか。
呆れているのだろうか。
ラスが恐る恐る顔を上げると、ルミナは窓の外を眺めていた。
しばらくして、小さく息を吐く。
「……謝んなくていいよ。」
そう言ったものの、ラスの方は見ない。
その代わり、どこか遠くを見るような目で、ぽつりと呟いた。
「聞く?」
「え……?」
「私の昔話。」
ラスは黙って頷いた。
ルミナは力なく笑う。
「面白くないよ。」
その前置きのあと、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「私はね、すっごく貧乏な家で育った。」
笑っている。
それなのに、その笑顔はどこか空っぽだった。
「父親はさ、何で結婚できたのか分かんないくらい、何の取り柄もない男だった。」
少し考えるように天井を見上げる。
「働かないわけじゃない。でも続かない。辞めるたびに『世の中が悪い』『上司が悪い』って文句ばっかり。」
「そのくせ、酒だけは毎日飲んでた。」
酒。
その一言だけで、ルミナの口元から笑みが消える。
「酒が切れると機嫌が悪くなるの。」
「最初は物に当たるだけだった。」
「次はお母さん。」
「その次が、私。」
ラスは何も言えなかった。
「殴られた。」
まるで今日の献立でも話すような口調だった。
「蹴られた。」
「髪を引っ張られた。」
「顔を壁に叩きつけられたこともある。」
「お風呂では何回も溺れかけた。」
ルミナは指先で自分の首筋をなぞる。
「頭をお湯の中に押さえつけられてさ。」
少し笑う。
「子どもって肺活量ないから、すぐ苦しくなるんだよ。」
その笑い方が、ラスには一番苦しかった。
ルミナは何事もないように服の裾を少しだけ持ち上げる。
腹部には、皮膚が引きつれた大きな火傷の痕が残っていた。
「これ。」
指先で軽く叩く。
「熱湯。」
ラスは息を呑む。
「ある日、鍋をひっくり返された。」
ルミナは肩を竦める。
「今となっては笑い話だけどね。」
笑い話。
そんな言葉で片付けられる傷ではなかった。
「……お母さんはね。」
少しだけ声が弱くなる。
「耐えられなかった。」
短い沈黙。
「ある日帰ったら。」
ルミナは天井を見上げた。
「ぶら下がってた。」
それだけ言う。
ラスの喉が詰まる。
「普通なら悲しむんだろうね。」
ルミナは自嘲するように笑った。
「でも私は違った。」
笑顔のまま。
「いいなぁ。」
ぽつり。
「一人で逃げられて。」
その言葉に、ラスは何も返せなかった。
「その日から、お父さんは私だけを殴るようになった。」
「機嫌が悪ければ殴る。」
「酒が切れても殴る。」
「酒を飲んでも殴る。」
「理由なんてなかった。」
ルミナは拳を握る。
「一回だけ。」
少しだけ声が震えた。
「……襲われそうになったこともある。」
それ以上は語らない。
語れなかった。
「運よく逃げられた。」
その一言だけで十分だった。
「それから何年かして。」
「今度はお父さんが死んだ。」
「急性アルコール中毒。」
乾いた笑いが漏れる。
「最期まで酒だった。」
部屋が静まり返る。
「私は一人になった。」
「家なんか捨てて街へ出た。」
「剣だけ覚えて。」
「冒険者になった。」
そこで初めて、少しだけ誇らしそうに笑う。
「才能はあったみたい。」
「生きるために必死だったからね。」
「強くなれば誰にも殴られないって思ってた。」
ラスは思う。
だからルミナは強いのだ。
誰にも負けないほど。
誰より前へ出るほど。
「……でも。」
その笑顔が崩れる。
「駄目だった。」
「夜になると来るんだ。」
「死んだはずなのに。」
「『お前は何をやっても駄目だ』って。」
「『こっちへ来い』って。」
「夢の中でも。」
「起きてても。」
「父親がいる。」
ルミナは両手を見つめる。
「もう死んでるって分かってる。」
「幻だって分かってる。」
「それでも消えない。」
しばらく沈黙したあと、小さく笑う。
「そんな時だった。」
「クランに依頼が来たの。」
「街で薬をばらまいてる組織を潰せって。」
ラスの表情が強張る。
「そこで売人と会った。」
「私は捕まえる側だったのに。」
ルミナは自分を嘲笑う。
「向こうの方が、私のことをよく見てた。」
静かな声だった。
「『眠れるようになる』」
「『怖くなくなる』」
「『忘れられる』」
「そんな甘いことを言われて。」
ルミナは自分の腕へ視線を落とす。
袖の下に残る無数の痕を見つめながら、苦く笑った。
「結果がこれ。」
「父親を酒で壊れた最低の人間だって、ずっと軽蔑してきたのに。」
自嘲するように肩をすくめる。
「私は酒じゃなくて、別のものに縋っただけだった。」
その声は震えていた。
「だから……。」
ルミナはラスをまっすぐ見つめる。
「『あいつと同じ』って言われるのが、一番怖い。」
その言葉には怒りではなく、ただ深い恐怖だけが滲んでいた。
ルミナ先輩は話し終えると、小さく息を吐いた。
部屋は静まり返っていた。
窓の外では誰かが笑っている。
どこかの酒場から聞こえてくる楽しそうな笑い声。
それがひどく遠い世界の出来事のように思えた。
僕は何も言えなかった。
何か言わなきゃ。
そう思うほど言葉は喉の奥で絡まり、口を開いても息しか漏れない。
目の前にいるのは、いつも僕をからかって笑うルミナ先輩だった。
依頼では誰よりも前へ出て。
危険な魔物を笑いながら叩き斬って。
新人の僕が失敗しても「次があるよ」と笑ってくれた。
ずっと、強い人だと思っていた。
でも違った。
強かったんじゃない。
強くならなきゃ、生き残れなかっただけなんだ。
子どもの頃から誰にも守ってもらえず。
泣いても助けてもらえず。
痛くても「痛い」と言える相手すらいなくて。
だから、一人で立ち続けるしかなかった。
その姿を、僕は「かっこいい」と勘違いしていた。
胸が苦しい。
苦しくてたまらない。
気づけば視界が滲んでいた。
「……ラス?」
ルミナ先輩が困ったように笑う。
「何でキミが泣いてるの。」
そんなの。
決まっている。
「だって……。」
声が震える。
「そんなの……辛すぎます。」
涙が止まらなかった。
「子どもの頃からずっとそんな思いをして。」
「誰にも助けてもらえなくて。」
「やっと自由になったと思ったら、今度は薬に縛られて。」
「そんなの……。」
言葉が続かない。
ルミナ先輩は苦笑した。
「もう昔の話だよ。」
「違います!」
思わず叫んでいた。
「違わないです!」
「昔の話なら!」
「今だってそんな苦しそうな顔しません!」
ルミナ先輩の肩が小さく震えた。
僕は立ち上がる。
怖かった。
怒られるかもしれない。
迷惑だと思われるかもしれない。
それでも。
「先輩!」
震える手で、ルミナ先輩の両肩を掴む。
「もう、一人で頑張らなくていいです。」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど涙が溢れてきた。
「そんなに辛かったなら。」
「そんなに苦しかったなら。」
「もっと早く言ってくださいよ……。」
ルミナ先輩は目を丸くしていた。
誰かに肩を掴まれることなんて、いつ以来なんだろう。
怒鳴られるためじゃなく。
殴られるためじゃなく。
ただ、心配されて。
優しく触れられることなんて。
「僕は強くないです。」
「先輩みたいに戦えません。」
「頭だって良くありません。」
「でも。」
拳を握る。
「一人で抱えるよりは、二人で抱えた方が軽いです。」
「先輩の全部を救えるなんて言いません。」
「薬もすぐにはやめられないかもしれません。」
「怖い夢だって見るかもしれません。」
「それでも。」
涙で声が掠れる。
「隣には僕がいます。」
「苦しいなら一緒に苦しみます。」
「怖いなら隣にいます。」
「だから。」
「お願いです。」
「もう薬だけに頼らないでください。」
「僕も頼ってください。」
「僕にも……先輩の荷物を持たせてください。」
最後には泣きながら叫んでいた。
情けない。
格好悪い。
冒険者なのに。
男なのに。
そんなことも全部どうでもよかった。
ルミナ先輩を、一人にしたくなかった。
ルミナ先輩は呆然と僕を見つめていた。
何も言わない。
ただ、大きく見開いた瞳だけが震えている。
やがて。
ぽろり、と。
一粒の涙が頬を伝った。
「……ばか。」
掠れた声だった。
「そんなこと言われたの。」
「もう何年ぶりだろ。」
笑う。
泣きながら。
「反則じゃん。」
涙は止まらない。
僕も泣いている。
ルミナ先輩も泣いている。
泣いているはずなのに。
なぜだか少しだけ笑えてしまった。
「ひどい顔。」
先輩が笑う。
「先輩こそ。」
「うん。」
二人で吹き出した。
涙も鼻水もぐちゃぐちゃなのに、お互いがおかしくて仕方なかった。
笑って。
泣いて。
ようやく部屋が静かになった頃。
ルミナ先輩はゆっくり僕へ向き直る。
さっきまでの壊れそうな笑顔じゃない。
いつもの軽口でもない。
どこか覚悟を決めた人の表情だった。
「ねぇ。」
「はい。」
「約束。」
そっと小指を差し出す。
「私、すごく面倒くさいよ。」
「うん。」
「たぶん何回も迷惑かける。」
「はい。」
「逃げたくなる日もあると思う。」
「それでも。」
僕は迷わず小指を絡めた。
「逃げません。」
ルミナ先輩はしばらく僕を見つめる。
その瞳には、期待と、不安と、信じたい気持ちと、裏切られる恐怖が全部混ざっていた。
やがて、小さく笑う。
「じゃあ。」
照れ隠しをするように口元を緩める。
「私たち、運命共同体だね。」
その笑顔は少しだけ泣きそうだった。
「逃がさない。」
冗談っぽく笑う。
「ラス。」
「うん?」
「逃げないでね。」
その言葉には、今までの軽口とは違う切実さが滲んでいた。
次の瞬間。
ルミナ先輩はそっと僕の胸ぐらを掴み、そのまま静かに唇を重ねた。
突然のことに頭が真っ白になる。
けれど、不思議と拒もうとは思わなかった。
このキスは恋人同士の甘いものじゃない。
「ここにいて」と叫ぶ代わりの、あまりにも不器用な願いだった。
僕は震える先輩の身体をそっと抱き寄せる。
「これからよろしく。」
一度だけ言葉を切って、笑う。
「……ルミナ。」
先輩は一瞬驚いたように目を見開き、それから照れ臭そうに頬を染めた。
「うん。」
その笑顔は、今まで見たどんな笑顔よりも、少しだけ自然だった。
その後、二人はいつまでも幸ごめんね、ラス。私は結局あいつの娘だった。逃げられなかった。快楽から、逃避から。キミがいたのに。私にはキミしかいないのに。本当に、ごめんね。世界一、愛してたよ。ラス...一人だけ勝手に逃げちゃってごめんね?せに過ごしましたとさ。
私はハッピーエンドも好きですが、幸せの間に挟まる呪いと不幸も大好きです
最後の仕掛けには気づけましたか?