スイカ食べたい
試合開始を告げる無慈悲なホイッスルが、体育館に高く響き渡った。第1セット、最初のサーバーは稲荷崎。今年の高校バレー界の主役の1人である宮侑が、エンドラインの後方でボールを両手に包み込み、深く息を吐き出す。その瞬間、体育館を揺らしていた吹奏楽部の爆音が、嘘のようにピタリと静まり返った。水を打ったような静寂が、和歌山代表のコートに重苦しいプレッシャーとなってのしかかる。侑がボールを弾ませる音が、コートにやけに大きく響いた。サーブトスが高く上がる。凄まじい助走の推進力から繰り出されたのは、十八番のスパイクサーブ。空気を切り裂くような凶暴な風切り音を伴い、放たれた一撃はネットすれすれの極端に低い軌道を描いて、相手レシーバーの手元へ鋭く突き刺さった。
「っ、アウト──!」
相手のセッターが叫ぶより速く、ボールはレシーバーの腕を強烈に弾き飛ばし、そのまま観客席の壁へとダイレクトに衝突した。バォン、と重い音が体育館に反響する。サービスエース。
刹那、静寂を破るように吹奏楽部の爆音のファンファーレが爆発した。これが、全国3位・稲荷崎の挨拶代わりだった。
そこからは、まさに一方的な戦いだった。侑の暴力的なサーブで崩し、返ってきたチャンスボールを前衛のアランや治が冷徹に叩き落とす。相手の攻撃に対しては、久留部と角名のミドル陣がネット際に分厚い盾を隙なく完成させ、ワンタッチを引っ掛けては、侑の精密なセットアップから多彩なコンビネーションへと繋いでいく。点差が開くにつれて、和歌山代表の動きからは初戦特有の硬さが取れ、泥臭いレシーブで粘りを見せ始めた。しかし、稲荷崎は慌てない。一進一退の長いラリーが続いても、焦れることなく、ただ淡々と、機械のように正確に点数を重ねていった。気づけば、コートを照らす照明の熱がユニフォームをじっとりと湿らせ、お互いの呼吸の音が一段と重くなっている。試合開始からおよそ十五分。
第一セットは二〇対一二。数字は、稲荷崎が圧倒的な実力差で和歌山を文字通り追い詰めていることを示していた。
パチッ、と侑の指先から放たれたトスが、綺麗な軌道を描いてライト側へと伸びる。
──どぉんッ!!
治が放った強烈な一撃が、相手のレシーバーを弾き飛ばし、観客席のフェンスへと突き刺さった。
しかし、和歌山代表もただ指をくわえて負けを待っているチームではなかった。どれほど点差を開けられようとも、彼らは泥臭く床に滑り込み、繋ぎ、全員の執念でボールを繋いでくる。
だが、その「全員の執念」を、目に見えない巨大な圧迫感がじわじわと削り取っていく。
試合序盤は、緊張のあまり耳に入っていなかったはずの、あの音が。点差が開き、追い詰められ、コート内でのお互いの声すら届かなくなってきたこの終盤になって、和歌山のスパイカー陣の鼓膜に、狂暴な音量となってのしかかってきたのだ。
ドン、ドン、ドン、ドン──。
稲荷崎応援団の一糸乱れぬメガホンの音。そして、吹奏楽部が奏でる、冷徹なまでに統率された爆音のマーチ。相手のサーブ時にはぴたりと静まり返るあの不気味な静寂と、稲荷崎の攻撃時に爆発する音圧の濁流。まるで体育館の空気そのものが相手の呼吸を遮るように、選手たちの肩を重く、硬く、強張らせていく。
「レフト、くるぞ……!」
前衛に位置する久留部は、大応援団の重低音を背中で受けながら、限界まで視界をクリアに保っていた。目の前、和歌山のセッターの返球が、少しだけネット際に割れる。
──昨日、ビデオで見た通りや。
割れたレシーブからでも、和歌山のセッターは躊躇なくエースレフトへの低いトスを選択した。普段の久留部なら、焦ってトスが上がる前にサイドへ走って抜かれていただろう。だが、今の頭は不思議なほど冷え切っていた。跳ぶ一瞬まで、ボールから目を離さない。
「──せーのっ、」
隣の尾白と呼吸を合わせ、トスがセッターの手を離れた瞬間に、床を強く蹴り上げる。
相手エースが「ここしかない」と信じて放ったストレートの軌道。その逃げ道の先には、すでに久留部とアランが作った完璧な「二枚の壁」が完成していた。
ドガッ……!!
乾いた重低音とともに、久留部の手のひらがボールを真下へと叩き落とした。和歌山のエースが目を見開いたまま床に突っ伏す。完全なるドシャット。
「っしゃあぁぁ!!」
吠えたのは、止めた久留部ではなく、後ろでレシーブに備えていた侑だった。
「ナイスブロック、久留部! 完璧にコース見えとったな!」
「アランさんがストレート締めてくれたおかげです。」
久留部はアランとバチンと力強くハイタッチを交わした。1人で点を取っているわけじゃない。アランの圧迫感、侑の事前のサーブでの崩し、そして後ろに控える銀島、赤木という絶対的なレシーバー陣がいるからこそ、自分は迷いなく目の前の壁を完成させられる。全員のディフェンスの網の真ん中に、自分がいる。
ーローテーションが回り、後衛に下がった久留部のサーブ。
「久留部、一本ビシッと決めたれ!」
銀島が前衛から声を張り上げる。深く呼吸を吐き出し、久留部はボールを高く掲げた。
ピーーッ。
助走。最後の一歩でかかとを床に突き刺し、前への推進力を真上への高さへと一気に変換する。最高到達点、空中で一瞬だけ体幹をロックし、完全にブレを殺したその刹那、硬い手のひらでボールの真芯を「ピシッ!」と押し殺すように捉えた。打った本人の腕は、その場でピタッと急停止する。一切の回転を奪われた白い球が、凄まじいスピードを維持したまま、ネットすれすれの低い軌道で和歌山コートへと襲いかかった。
「ブレるぞ!!」
相手リベロが慌てて正面に入ろうとした瞬間、空気の壁にぶつかったボールが、手元で「クンッ」と不自然に横へブレた。
「グッ……!」
辛うじて腕に当てたものの、高威力の無回転球は制御できず、ボールはコートの外へと大きく弾け飛んでいった。サービスエース。稲荷崎の吹奏楽部が、待ってましたとばかりに地鳴りのような大ファンファーレを響かせる。
続くラリーで3点サービスエースを決めたが、相手にサイドアウトを取られ、後衛の久留部はリベロの赤木と交代してベンチへと下がった。コートから一歩外へ出た瞬間、張り詰めていた緊張がわずかに解け、どっと重い疲労が押し寄せる。スクイズボトルから冷たい水を喉に流し込んでいると、隣に立っていた副主将の大耳が、声をかけてきた。
「ナイスサーブや、久留部。あの状況で腕を振らずにピタッと止めるん、相変わらず心臓に毛が生えとるな」
「いや、大耳さん……今でも足の指先までガチガチにビビってますよ。何回やっても、サーブだけは慣れへんです」
苦笑いしながら胸の鼓動を落ち着かせようとする久留部に、すぐ後ろから、落ち着いた丁寧な声が重なった。
「ビビるんは、悪いことやないよ」
振り返ると、主将の北が、いつもの狂いのない静かな佇まいでジャージのボトルを整理しながらこちらを見ていた。
「自分の弱さや怖さを分かっとるからこそ、お前は練習をサボらんし、本番でも昨日確認したデータを一分の狂いもなく実行できる。恐怖を忘れた奴ほど、コートの上で脆いものはあらへんからな」
北の言葉には、お世辞も誇張もない。ただ事実だけを淡々と紡ぐその正論が、久留部の胸の奥に、言葉にできないほどの大きな安心感をストンと落としてくれた。
「……っ、うっす。ありがとうございます」
「よし、侑のサーブや。あいつがこのまま終わらせる気満々やから、俺らはここでしっかり見届けとこか」
大耳が顎でコートを指差す。ベンチから見つめるコートの真ん中では、金髪の天才セッターが、大応援団の音を完全に支配する手を高く掲げていた。
『──マッチポイント、稲荷崎高校。ビックサーバ宮侑の強烈な一本で崩した!』
スピーカーから流れる、実況の声が耳に届く。相手レシーバーが死に物狂いで上げたボールは、チャンスボールとなって再び稲荷崎の頭上へ返ってきた。
『セッター宮侑ファーストタッチ‼︎10番、角名倫太郎の速攻が決まった──!!』
ピーーーッ、と試合終了の長いホイッスルが体育館の天井に吸い込まれていく。セットカウント2対0。点数差以上に相手の選択肢を奪い尽くした、文字通りの完勝だった。歓声に包まれるコートから、額の汗を拭いながら引き上げてくる双子や角名、銀島の姿が見える。
自分を支えてくれる、頼もしい先輩たち。
コートで暴れ回る、騒がしい最高の同級生たち。久留部はもう一度、自分の赤くなった手のひらをそっと見つめ、不敵に口元を歪めた。
ー思い出なんかいらん。今日このコートを支配した勝利すらも、明日の朝には過去の遺物だ。
稲荷崎高校の、圧倒的な快進撃は、まだ始まったばかりだった。
アニメの実況の「尾白アラーーーン」の言い方癖になる。